世界に一人しかいない・・・

 

 今朝の朝日新聞の朝刊に、世界に一人しかいない『木下あいり』ちゃんの写真が、掲載された。

 下校中に性犯罪を受けて殺害されて以降、「広島の小一女児」として報道されてきた木下あいりちゃんの父、木下建一さんは、敢えて、名前と家族が撮影した本人の写真の掲載を要望した。

 その写真を見た時、何か啓示のようなものに胸を打たれた。

 世界にたった一つしかないもの・・・それは、人とか物とかではなく、そこに通い合う眼差しなのだ。

 建一さんが提供した写真からは、建一さんがあいりちゃんに注ぐ眼差しに応えるあいりちゃんの眼差しが、ひしひしと伝わってくる。新聞を見る者は、そのあいりちゃんの眼差しに見つめられ、胸を締め付けられるような気持になる。

 昔の人は、写真を撮られると魂が取られると感じたようだが、まさに写真というのは、もともと、このあいりちゃんの写真のように、眼差しを介して行き交った魂が念写されるところに、その本質があったのではないか。

 モノゴトを唯一のモノとして受け止めて注ぐ眼差しには、魂がこもっている。

 現代人は、多くの物を獲得したが、同時に、多くの物を失ったと言われる。しかし、それらの多くの物は、根本的に一つのことに集約されるような気がする。

 現代人が失ったものは、モノゴトの唯一性なのだ。取り替え可能な物や情報ばかりに囲まれて、唯一のモノゴトがわからなくなってしまった。

 人間誰しも、自分の身体で直接感覚する「現実」と、学校教育やメディアを通じて受け取る間接的情報によって、そういうものだと思いこまされている「現実」の両方にまたがって生きている。

 そして、現代社会は、その後者の間接的情報が重視される社会だ。自分の身体的感覚とは別に、「こういう事実を知っておかなければならない」、「こうでなければならない」と、頭でっかちになって強迫観念のように間接的情報を追い続けている。

 そうしているうちに、モノそのものを見ることがなくなり、そのモノが纏っている間接的情報ばかり見るようになる。ブランド品が典型的だが、絵や文章を見る時も、作品そのものではなく、それを作った人の経歴ばかりが気にされる。

 「人類愛」などという言葉も、そこに具体的なモノゴトがあるわけではなく、言葉を象徴化した子供の笑顔のポスターがあるだけで、有名タレントをはじめ、「人類愛」の運動に関わっている人がクローズアップされ、人類そのものに眼差しが注がれているわけではない。そして、眼差しが注がれないところに、「愛」が育まれる筈もないだろう。

 人間は、自らの生の多くを、切なすぎる唯一の時間のなかで過ごしているのだが、間接的情報は、その唯一生を曇らせる。流行に合わせて服を買い換えるように、また、かけがえのない時間も、パッケージツアーの日程表のように、消化されるだけのものになってしまう。

 しかし、実際の人の生は、そういうものではない。人は誰でも、潜在的な真実として、唯一の時間とともに生きていた人やモノの質感ある固有の手応えを記憶している。

 たとえば昔の恋人や子供や亡くなった友人の写真を見る時に、それを切実に感じることがある。

 写真と記憶が呼応して、かけがえのないものを感じ、自分が何を愛しているか切実に思い知る時、人は、間接的情報に曇らされず、自分自身のまなざしで、対象を見つめている。そういう時は、『広島の小一少女』などと括られる安易な間接的情報に、まことにやりきれない思いになるだろう。

 自分にとって唯一のものが、他の一般的なものと取り替え可能なもののように扱われる時の切なさは、深くモノゴトを愛した者にしかわからない。

 しかし、そうした切なさを、一枚の写真が、その他の多くの人に感じさせる力を持つことがある。今朝の『木下あいり』ちゃんの写真は、そのようなものであり、こういうものを見る時、写真が、人間の眼差しを取り戻す力を秘めていることに気づかされる。

 現代社会においては、広告写真、報道写真、綺麗なだけの風景写真をはじめ、間接的情報にすり寄って、それを増幅させるばかりの写真が氾濫し、「取り替え可能な世界」が、ますます根深く広がっているのだが、その先導者たる写真じたいの在り方次第で、方向性が変わる得る可能性が僅かでもあることを、知らしめているのだ。

 世界が変わるためには、どんな技術が発達することよりも、眼差しが変わることの方が大事だろう。人間と人間、人間と世界の関係は、眼差しに顕現している。

 家庭問題、学校問題、高齢者問題など、様々な問題が専門家によって指摘され、説明の体系ばかりが増殖するが、そうした説明さえが、間接的情報の手先にすぎず、そういうものを耳にしていると、糞食らえという感情が突き上げてくる。

 世界に一つしかないのは、モノゴトではない。たとえ世界に一つしかないと主張する芸術作品であっても、それを見る側が、そういう目で見て感じ取れなければ、無数にある「有名芸術家」というカテゴリーの中の一つにすぎないだろう。

 唯一というのは、それを見る者の眼差しにこそ顕現するのだ。

 世界に一人しかいない『木下あいり』。

 御本人が心からそう思い、本当にそうだろうと誰もがその気持ちをわかる時、その唯一のものは、多くの人にとって共有可能なものになる。そういう伝え方が、何よりも大事な時代なのではないかと思う。


風の旅人 (Vol.20(2006))

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