”自分のもの”と言えるようになるまで

 アフリカ大陸からユーラシア大陸を経て南北アメリカ大陸を縦断する人類拡散の旅を、人力だけで逆から辿り、グレートジャーニーの旅人として良く知られている関野吉晴さんが、新しい冒険を始めている。

 それは、日本人がどこから来たかを検証する旅だ。関野さんは、シベリアやネパール等ユーラシア大陸の様々な場所を旅しながら複雑なモザイクをつなぎ合わせているが、この度、海からのルートの可能性を実際に確認するため、壮大なプロジェクトを行っている。

 その準備の様子が、ドキュメント映画になっている。→http://bokuranocanoe.org/

  現在のように様々な便利な道具を持たなかった古代人が、南洋からどのように日本に辿り着いたのか。それは現代でも可能なのか、というチャレンジだ。

 関野さんは、現在、教鞭をとる武蔵野美術大学の学生たちとともに、一つひとつ自分の手で作り上げていく。

 太平洋を航海するためには船が必要になる。その船は巨大な丸木をくりぬいたものであり、航海の出発点となるインドネシアスラウェシ島で、その材料を懸命に探す。

 その木を切り倒し、船に加工するために、現代のチェーンソーとか鋸とかドリルは使わず、昔ながらの鍛冶技術で作り上げた斧を使うことにしている。

 その材料となる鉄を得るため、九十九里浜の砂浜から砂鉄を採集するところから旅の準備が始まる。驚いたのは、磁石を使って、これまで想像もしなかったほどたくさんの砂鉄が得られるということだ。

そして、砂鉄を高熱で溶かして製鉄を行うため、レンガで炉を作り、炉に空気を送り込む鞴(ふいご)を作り、ギッコンバッタンと足で鞴(ふいご)を踏みつけながら、何時間もかけて鉄の塊を作る。その後、鍛冶職人とともに、ハンマーで鍛打して斧を作り上げていく。そのように何段階ものプロセスを経てできあがった斧の美しさに思わず見惚れてしまう。

さらに、船を縛るロープも原生の植物からの手作りであり、様々な植物を試して、最終的に、現在、東京でもいたるところに生えているシュロが最善だということになる。

また、船に積み込む保存食も、野生の木の実をクッキーなどに加工したものだ。その製造のプロセスもまた興味深い。

とにもかくにも全ての工程において、たっぷりと時間がかかる。映画のなかで、プロジェクトに参加している学生が、「一つのモノゴトを行うために、たっぷりと時間がかかるということに慣れてきた」と呟いていたが、そのたっぷりの時間が、あまりにも豊かなのだ。

現代人は、完成して送り届けられてくる物とだけ接して生きている。そして、それらの物は簡単に入手でき、消費され、安易に取り換えられてしまう。

私たち現代人は、「完成した物」という一つの結果しか見ずに、それが世界や自分の人生を構成する重大な要素だと勘違いしているのだ。

 しかし、世界や自分の人生を構成する本当に重大なものは、「完成した物」に至るまでの過程のなかで生じる様々な関係性なのだ。

船という一つの完成形の前に、斧とか縄をはじめ様々な関係性がある。さらに、斧一つとっても、砂鉄とか火とか水とか様々な関係性がある。さらに、砂鉄は、山から川を辿って海に至り砂浜に打ち寄せられている。そうした気の遠くなるような関係性と循環のなかに、人間の手が少しずつ介在し、方向性を整えることで物を作り出すことが生まれる。物を作るというのは、道具であれ、表現であれ、なんとも神聖な行為なのだ。

映画のなかで、このプロジェクトに参加した学生達が完成した船や斧や縄やドングリクッキーを見る眼差しが、ただの結果としての完成物を見る時のものより、大きな時間をしげしげと見渡している、ということが感じられる。

現代社会で一番欠けているのは、あの眼差しだと私は思う。

「僕らのカヌーができるまで」というドキュメント映画全体に、あの眼差しが一貫して流れている。目の前にある現象を表現者の狭い了見で切り取るのではなく、カメラじたいが、そこに写し出されている人達の眼差しの一部であるかのような感覚。

最近は、ビデオカメラが高機能で扱いやすいものになって、様々な現場を、ドキュメント映画にすることができる。しかし、今回、この「僕らのカヌーができるまで」のような、大きな眼差しを感じるものは、ほとんどない。

この違いは、単なる技術的な問題ではなく、その画面の中に参加できているかどうかの違いなんだろう。参加するふりはできるけれど、対象を素材として扱おうとする感覚が自分の中にあるかぎり、対象の眼差しと一体化することはできない。

「僕らのカヌーができるまで」は、そこに参加することの喜びを理屈抜きに与えてくれる場だから、それができたということもある。

 このプロジェクトの仕掛け人の関野吉晴さんのモノゴトに向ける眼差しが、そこに参加する人々や行程の全てを、大きな時間の中に引き込んでしまう力を持っているからでもあるだろう。

 いずれにしろ、学生たちにとっては、何ものにも代えがたい経験となったことは確かだと思う。こういう経験をしてしまうと、それとは真逆のシステムで成り立っている現代社会に同化などできやしない。だからといって、不適応になるとも思えない。なぜなら、本当の無から幾つもの関係性を織りなしながらモノゴトを作り出していく手応えを知った者は、どんな環境であれ、そこから、その時ごとに最善の道筋を作り出していく手が、自分の中に育まれている筈だから。

現代は、自己と他者とのあいだに線引をして整理する時代だから、自分の物、自分の仕事、自分の人生等と、あちらこちらに境界線をつくり、その壁のなかで自己満足しがちになる。

しかし、本当の意味で「自分のもの」といえるものは、そうした境界線と壁があるとできないもので、世界の様々な関係性の糸を自分の手で織りなしていくことによってのみ可能になる。そのためには時間はかかるだろう。世界全体を丁寧に見つめ、丁寧に耳を傾け、丁寧に感じることも必要。そのうえで、頭でっかちに考えるのではなく、自分の手を使い、事物と関係性の手応えを掴んでいかなければならないのだろう。

それはともかく、この「僕らのカヌーができるまで」は、できるだけ多くの人々に見てもらいたい。とりわけ若い人達に。

関野さんが行う旅は、いつもスケールが大きく素晴らしいものだが、物作りのプロセスもまた、旅そのものだということがよくわかる。

*放浪というのは、地理上の世界をあれこれ歩きまわることに限らず、既存の価値観に自分を追従させることができず、あれこれと足掻きながら彷徨い、
自分のまなざしでモノゴトをみつめ、自分なりの世界との付き合い方を体得していくプロセスのことだと思う。私が制作する「風の旅人」も、旅行好きの人のためのガイドブックではなく、誌面を通じて、放浪と同じ体験を味わうことを目指している。