この国の当たり前

昨年の4月、鹿児島県の食肉加工工場を取材した。その工場では、最新のロボットで豚と鳥肉が解体されていた。生きたまま工場に運び込まれた鳥が、鮮度を保つ保つために冷蔵状態を維持されたまま、ロボットに首を落とされ、羽をむしられ、胸と腿に切断され、脱骨され、袋詰めされ、即時、出荷される。

もともとは人間の手で全ての工程が行われていたが、この仕事に携わる人が減ったため、数十年前から機械化が検討され、現在では人間の手を介在させることなく、消費財として速やかに処理が行われる。

 しかし、工場を全て機械化するために設備投資してしまうと、消費が常に一定とは限らないから投資効率が悪くなる。その為、ロボットラインの横で同じ工程を人間の手で行うスペースも設けられている。最近では、海外から集団で雇われてくる労働者が多い。

 現代社会では、鳥肉も豚肉も、全国共通の消費財として常に価格競争にさらされており、生産状態に応じて価格が決められるのではない。その流通は全世界規模であり、消費者は、特定の場所で何かしらの問題が生じても自分ごとの問題にはならず、痛みも共有されない。変わりは他にいくらでもある、という感覚になってしまう。

 こうした状況は生産者にとって苛酷である。しかし、その試練を乗り越えていかなければ生きていけない。だから家畜の生産および加工現場でも、価格競争に勝ち、かつ品質を向上させるために、ありとあらゆる知恵が結集されている。

 人件費とロボットで、どちらが合理的か徹底的に議論される。しかし、どんなに努力しても、他も同様に努力をするので、自分だけ楽に儲けることなんかできない。経営的にも、常にギリギリの綱渡りがなされている。そうした人間努力によって、質が向上し、安全と衛生が確保され、安価になり、その恩恵を消費者が受けることになる。消費者が神様だ。

 私が取材現場で驚いたのは、その日の鳥肉の出荷が20,000羽と予め決まっていて、そのとおりに生きた鳥が順々にトラックで運ばれてくること。工場は年中無休ではなく、正月や盆休みがあるが、その期間は餌を調整して家畜の成長をコントロールするのだと言う。

 営業部隊が全国のスーパー等から注文をとっているので、その数を期日通りに納めなければ取引を継続してもらえない為、機械部品の出荷と同じように、家畜の出荷が厳密に管理されているのだ。

 毎日、決まった時刻に、決まった数量の生きた鳥が、決められた場所に、トラックで運ばれてくる。トラックから降ろされた箱詰めの鳥たちは、到着した時点ではけたたましく騒いでいる。箱から出された鳥たちは、順々にベルトコンベアー式に流れていく機械のフックに引っかけられ、すぐ最初の工程で首を落とされ、次の工程で羽をむしり取られる。その加工工程の部分では生々しい血がどくどくと流れており、正視していられない。生物としてのリアリティは、その時点までは強烈に残っている。しかし、羽毛をむしられてからは肉塊になり、スーパーで目にするものと、あまり変わらなくなる。身体の大きな豚の場合もそうだ。

 そこからは、ものすごいスピードで細かく加工される。欧米では骨付きの肉がけっこう売られているが、日本人は骨がきちんと取り除かれた肉を買う習慣があるので、骨を取り除くロボットが開発されている。欧米式の場合は、極端に言えば、肉を断ち切るだけでいいが、脱骨の場合、骨の形と大きさは一つひとつ違うので、その違いを感知しながら加工する機械は、かなりハイテクなものになる。日本人は、そういう技術に非常に秀でている。日本人が物作りに長けているということもあるが、消費者主義が隅々まで徹底しているから、技術も深まる。

 こうした現場を見ると、日本人はスゴイなあと思うとともに、どこかで薄気味悪いものも感じる。

 今アメリカで起こっていることが2、3年後に日本でもそうなると、よく言われる。昨年、アメリカで電子書籍がブームだったらしいが、やがて日本でもそうなるだろうと。

 しかし、実際には、その程度では終わらない。日本でいったんスタンダードができてしまうと、ほとんどそれ一色になっていき、そうでないものは存在しずらくなってしまう。インターネットのブロードバンドにしても、数年前、日本は普及が非常に遅れていると言われていたが、ブロードバンドが当たり前であるという風潮になると、あっという間に全体に広がっていった。「他がどうであれ自分には関係ない、自分は自分」という頑固者が、日本には非常に少ない。みんな似たようなものになり、その中で激しい競争が行われる。その視点でしかモノゴトが見えなくなり、一点に特化した発展が生じ、いわゆるガラパゴス化が起こる。日本の中のスタンダードが極めて特殊化してしまうのだが、日本の中だけに目を向けて生きている日本人には、その自覚症状は、あまりない。

 さらに、そのように「日本人にとって当たり前」となった感覚に、日本のメディアは一斉に迎合する。「何を伝えるべきか」という本質的な議論よりも、「人々が何を望んでいるか」が、情報を伝える制作現場で協議される。そうした現象追随型のマーケティングによって、益々「日本人の大勢にとっての当たり前」が強化されていくことになる。そして、その当たり前は、誰にでもわかる簡単なものでなければならない。大勢の人が納得できる当たり前は、複雑に込みいったものであってはならないのだ。

 しかしながら、今日の社会は、実際には複雑極まりない状況である。簡単な解決策なんて、あり得ない。基地の問題にしても口蹄疫の問題にしても、速やかに解決できる問題ではないというのが、本当は当たり前のことである。

 日本人の多くにとって「当たり前のこと」が、全て正しいと思ったら大間違いだ。そうなっているものの多くは、実際には、企みと仕掛けがあり、無自覚に追随する大勢が作り出す潮流の一現象にすぎない。

 だからといって私は、日本人のそうした性質が問題だと糾弾したいわけではない。日本人の性質がそういう傾向を持つにいたった原因は、日本という国が、これまで費やしてきた時間の中にあり、そのプロセスは複雑であり、一朝一夕に変えることもできない。

また、そうした傾向の性質がゆえに、大勢が一丸となって頑張るという良い側面も発揮できた。だから、慎重に考えるべきことは、この性質の欠点の部分がどれだけ自覚され、共有され、その悪影響を最小限にとどめるための装置が、社会の中にどれだけ組み込まれているかなのだ。

私は、全ての表現には、そうした装置としての役割があると思っている。つまり、世間で当たり前になっていることを、「本当にそうなのか」と立ち止まらせて、今一度、深く考えさせるきっかけを作り出す力である。

 唯一の正しい答なんかどこにもないし、もしそういうものを信じているとすれば、それこそが、「自分にとっての当たり前」の中で眠りこんでいるということである。

 そうは言いながらも、「目の前に解決すべき問題がある。それを解決する答が早急に必要である。さあ、あなたはそれをどうすればいいと、お考えなのか」と、自分ではロクにモノゴトを考えない人が、答えを性急に求めるという状況は、周辺にいくらでもある。

 「本当にそれでいいのか」と立ち止まらせるだけでなく、「いったいどうすればいいのか」という、決定的な答でなくてもベクトルくらいは示さないと誰も納得しない。宙ぶらりんのままだと誰も安心できないから。

 しかし、この板挟みのなかでこそ、表現は磨かれていくのだろう。なかには、それが日本固有の文化表現にまで深化したものもある。

 「解決しなくてはならないけれど、どうにもならない問題がある、さてどうする?」

 これは、沖縄や宮崎の問題だけではなく、一人ひとりの人生の様々な局面で直面する問題でもある。悩みで夜も眠れない日々は、誰にだってある。

 そして、正しいかどうかわからないけれど、決定して、動き出す。悩んだ末、自分の決定の生誤を他の人間に決めてもらおうと思っているような時は、その結果に対して、後でウジウジと考えてしまったりする。それこそ、神のみぞ知るという潔い心境になれた場合にこそ、結果がどうであれ、それを受け入れる気持になるのだ。

 だから、ありとあらゆる表現のなかで、悩みが深い時に頼りになるのは、ハウツーもののように人間的な分別に絡み取られたものではなく、「神のみぞ知る」という境地に少しでも導いてくれるものだ。

 そういう潔い存在が隅に追いやられ、ご都合主義の安易な答を散りばめたハウツー本や評論家が救い主や賢人のような顔でのさばっている現状が、社会の「当たり前感覚」をさらに歪めていく。

 今日の「当たり前」は、明日も同じとは限らない。それが、人の世だ。その変遷をつかさどっているのは、個人ではなく集団であり、集団化された人間は、もはや人間というより、神のみぞ知る存在のようになってしまう。