パパタラフマラのガリバー&スウィフト

 昨夜、パパタラフマラ公演のガリバー&スウィフトをグローブ座で見た。

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 その過剰なまでの舞台を、”凄く、楽しく”体験した。
 その身体的体験に対して、言葉で簡単に感想を述べることはできないが、社会的通念の狭い枠組みのなかに居座って澄まして見れば、”無意味”と判断されるようなことに”全身全霊”を打ち込むことなくして、人間生命の真の意味での燃焼はあり得ず、パパタラフマラの舞台は、まさにそうしたものだと思う。
 敢えて”人間生命”という言い方をするのは、パパタラフマラの舞台が、人間が潜在的に持つ力の総合的な発揮だからだ。
 ただ一生懸命に頑張れば人間生命の全燃焼になるわけではない。
 どこかで理性が邪魔して、ここのところは自分に無理だけど、こっちは・・・などと分別が生じて垣根を作ったうえで、”好きなようにやっている!!”などと主張しても、狭い穴に閉じこもっているような感じになってしまう。
 そうした分別を無くし、とにもかくにも身体も頭脳も感性も目一杯に働かせ、微妙なニュアンスも嗅ぎ取る五官をも動員する。それが人間が人間として生きていることの全てを発揮して生命を燃焼させることだろう。
 縄張り意識を持てば、その縄に自分が縛られるだけ。気取って恰好ばかりつけていると、常に鏡を持ち歩いているようなもので自分しか見えず、外の世界に開かれることがない。
 この世の意味無意味の小賢しい分別は、人間の全生命のなかから、その瞬間だけ都合の良い部分を抜きとる作業であり、それは短期的に見れば賢明なことであっても、長期的に見れば、何にもならない。
 とはいえ、”意味”の狭さに対抗して、”無意味”を主張するばかりであっても、同じく狭いところに拘泥しているという感じで、意味とか無意味とかの分別の生じない高みへと、ぐんぐんと舞い上がっていくようなものでなければならないのだろう。
 昨日のパパタラフマラの舞台を見ていて、そういうことを感じた。

 しかし・・・・・・、
 それでもやはり気になったことがある。
 演出家の小池博史さんが敢えて”言葉”にこだわっているのだろうが、”言葉”が、ぐんぐんとした舞い上がりにブレーキをかけてしまう。広がりに枠組みを与えてしまう。 あちら側に行っている身体を、こちらに引き戻してしまう、と言ってもいいかもしれない。
 それが現代の”言葉”の使われ方でもある。
 かつての小池さんの舞台は、意味不明の身体的発生音が多く、その方が、見る者の身体に得たいの知れないものが溜まっていく感じになるのだが、理性的な言葉は、一瞬にして醒めさせるところがある。
 喩えを変えるならば、氷山の海面下の目に見えない巨大な氷塊(水面上の何倍もある)を手で触れて確かめている時に、海面上に出ている部分を指して、「あれが氷山だよ」と言われてしまうような感じだ。

 言葉をそういうものにすぎないと諦めてしまうのか、そうではない言葉のあり方を探し求めるのか、言葉の使い方は、とても難しいなあと思う。
 松尾芭蕉は、きっとそういうところを看破していたのだろう。
 言葉が、”不易流行”という域にストンと落ちると、混沌に広がりのある新秩序が打ち立てられるのだろうとは思うが、なかなかそうはならず、言葉が相変わらず狭い旧秩序の代弁者である現状が続く。
 私にとっても、「風の旅人」のなかで、身体と言葉がどう響き合うのかというのが大きな課題だ。
 言葉を入れずに写真などのイメージだけ増幅させると、濃度は増すが、それは匂いのよ
うなものであり、匂いは、すぐに薄まってしまう。
 だから言葉が欲しい。しかし、その言葉を、イメージの広がりを促進する方に働かせることは、とても難しい。
 
 しかし、人間の全生命の燃焼ということを考えれば、”言葉”を取りはずすことはできない。”言葉”も、当然ながら、人間を構成する大切な部分だからだ。
 パパタラフマラの舞台を演出する小池さんは、人間の総合力の発揮のために、身体だけでヒートアップするのではなく、果敢に”言葉”に取り組んでいるのだろう。
 人間の全生命の燃焼という”阿呆”なことに挑戦する人が存在することじたいが、この世知辛い時代の希望でもある。

 そうしたパッションが無ければ、狭く区切られた枠組みのなかに閉じこもり、恰好ばかりつけているが周りを常に気にしてオドオドし、自意識過剰で自己防御心が強く、縄張り意識が過剰で、身の安全をはかるために陰に隠れ、卑屈になり、小賢しい小手先の作為ばかり繰り返す”お利口者の時代”に風穴は開かないだろう。