日本の美と醜(書の心)

 「書の至宝」という展覧会が上野の東京国立博物館であり、その最終日に出かけ、混雑の中、空海とか王義之とか聖徳太子など錚々たる人物達の字を見た。

 私は書道のことはまったくわからないのだが、空海とか王義之の字はやっぱりよくて、強く印象に残った。聖徳太子の字は、とても几帳面な感じがして、その人柄の現れ方が面白くて、別の意味で印象に残った。

 そして、メインの会場を出た所に、現代書道展のようなものをやっていて、それぞれ趣向を凝らした字が展示されていたのだが、特に感銘を受けなかった。

 その理由はよくわからなかった。そもそも空海の書なども、その良さが本当にわかっているのではなく、歴史上の有名人ということで、素晴らしいに決まっているという先入観にとらわれてしまっているのだろうと思っていた。

 しかし、昨日、編集部に飾ってある河合雅雄さんの色紙を見ていてふと思った。河合さんは自分の字を下手だと思っていて、あまり書きたくなかったみたいだが、私のお願いに応えてくれ、「自然に遊ぶ」という字をのびのびと書いて送ってくれた。その字がとてもいい感じなのだ。

 それと連動して、白川静さんの直筆を思い出した。第9号の「人間の領域」という特集の時、長年連れ添われた奥様が亡くなった後だったので、もうこれ以上、連載をお願いするのは無理だろうと思いながらも、「人間の領域」というテーマで白川さんの文章が無いのは考えられないという一念で筆で手紙を書き送ったところ、しばらくして送られてきた原稿が、あの圧倒的な文字群だった。→http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/9/image.html

 それまでは直筆で掲載するなど考えもせず、創刊号から8号まで白川さんの原稿を掲載してきたが、9号の「人間の領域」の原稿を見た時、すぐに巻頭に直筆で掲載しようと思った。

 字が上手いとか下手という次元ではないのだ。行間に霊力のようなものが渦巻いていて、私は息を飲んだ。そして、おそるおそる、巻頭に直筆のまま掲載することを了承していただくために白川さんに伝えた。

 白川さんは「人に見せるような字やあらへんけど」と謙遜されたが、承諾してくれた。 

 書というのは、その人の内側のエモーショナルな何かが憑依するものなのだろう。その力が、書の魅力なのだろう。

 空海や王義之の書と、同じ日に見た現代の書道家の書の印象の違いの理由は、もしかしたらそのあたりにあるのかもしれない。

 空海は書の作品をつくろうとしているわけではない。そこに書かれている内容は私にはわからなかったが、おそらく、彼の内面に渦巻いている強烈な何かを伝えようとして、たまたま書という手段をとっただけのことではないか。

 それに比べて、印象の薄い書道作品は、古典などから引用した言葉を墨で書く。それを書いた人は、そこに書かれた言葉がどれだけ自分にとって切実なものになっているのだろう。

 呻きのように腹の底から滲み出たり溢れ出る言葉なのだろうか。単純に頭のなかで意味を解釈して、自分なりの解釈と自分なりの趣向で形をつくっているだけではないだろうか。

 墨が躍動していたり、勢いよく流れたり、それなりの力を漲らせているとしても、その力の発せられ方が、書き手にとって分別の差し挟む余地のないほど必然で切実なものであるかどうか。

 ゴッホの絵画やブールデルの彫刻など見る者に強く訴えてくるものがある作品というのは、表現した人の内面世界が、それ以外に表現しようがないのだろうと実感させられるリアルさで迫ってくるものだ。さらに書道の場合、そこに言葉が描かれるので、その言葉もまた、その人にとってそれ以外には言いようのないものなのだろうと実感させられることが大事になるのではないか。

 相田みつおの字と言葉は、上手いか下手か、内容が素晴らしいかどうかという判断は別にして、彼の内面世界と、表された字が一致しているという感じはある。字が人を表しているのだ。そこから出てくるモノに私は感銘を受けないが、印象には残る。

 そして、彼の書と彼の内面が一致しているからこそ、彼の内面に共感する一部の人に、彼の書が支持されるのだろう。