日本の美と醜(構え)

 荒川静さんが、文部科学大臣小坂憲次氏に金メダルの報告。

 大臣曰く、「ソ連の選手が転んだ時は、嬉しかったですよねえ・・・」。

 文部科学省って、「教育・文化立国」と「科学技術創造立国」の実現を目指し、教育改革、科学技術・学術の振興、さらに、スポーツ・文化芸術の振興に取り組んでいるらしいが、青少年の育成と教育のなかに、人としての品位や、恥の意識を盛り込むつもりはないのだろう。

 こういう人をトップにして、日本の教育はいったいどこを目指していくのだろう。金メダルを喜ぶのは構わないが、金メダル以前に、荒川選手の精神力や演技の美しさや努力を讃えるべきだろうし、同じように努力をしている人たちが紙一重で敗れ去っていく勝負の痛ましさを、もう少し厳粛に受け止めることができないのだろうか。

 私は、ロシアのスルスカヤ選手が転倒し、得点を見る時、悪い点数が出たのを見て、頭をかかえるように「あちゃ」という顔をした後、うんうんうんと頷きながら、「当然よ、しかたないわよ、うまく滑れなかったんだから」というように自分を納得させているような表情がとてもよかった。4年前にも同じように失敗して号泣した。そして、また今回も失敗してしまった。でも、二度同じ事をしてしまったことで、この最高の舞台に、運も含めて最高の状態をもってくることの難しさを悟り、「悔しいけど、仕方ない」と、ある種の清々しさを感じているように思われた。その難しさを知るからこそ、その最高の舞台で最高の演技をしてしまえる人の超人性に潔く脱帽でき、心から讃えることができるのだろう。

 それに比べて、この国の大臣の言動は、何かとても情けなく、下劣なものを見ているような気になる。

 こういう人を、教育のトップに据える日本は、美意識とか価値観において何か根本的なところで大きく歪んでしまっている。

 こういう人は、日本らしい美意識や価値観を失っているのにもかかわらず、なぜか、日本を愛すと言い、日本の将来のために働くなどと言う。これはいったいどうしたことだろうか。

私は、日本国家を守らなければならないという意識を持って生活していない。また、日本の伝統文化を守らなければならないという意識も、あまり頭をかすめることはない。 

 しかし、この国に受け継がれてきた心の構え方とか、空間や時間の捉え方や、モノゴトの奥義を実の世界に反映させる各種の型については、とてもかけがえのないものだと感じるし、美しいと思うし、そうしたものを大切にしなければ、この世界がスカスカの無味乾燥としたものになって、とことん下劣でつまらないものになってしまうのではないかという気がしている。

 もちろん西洋にも、日本とは違った美しい構えとか型がある。しかし、そうした基本的エッセンスをわからず、表面的なものばかりを日本はもてはやしているのではないだろうか。表面的なことばかり追うから、今まで崇拝していた相手を、突然、憎悪したりすることもあるのではないだろうか。

 私は、「風の旅人」を創刊し制作し続けるうえで、日本の型とか構えにこだわりを持ち続けている。それは何も日本の文化を誌面で紹介するということではない。そうした表面的なことではなく、モノゴトを伝えていく際の間合いのようなものだ。具体的に何がどうかと説明はしにくい。

 例えば第16号から、テーマタイトルを敢えて英語にしている。このこともまた、実は、日本の型とか構えにこだわるゆえのことなのだ。

 というのは、例えば、日本古来の世界観である「寂」という言葉を、そのまま使うと、文化教養的な「寂」としてカテゴライズされ、わかったような気になってしまう。でも、その教養的カテゴライズこそが、日本古来の「寂」にとって、もっとも遠い境地なのだ。だから、「これは寂ですよ」という説明的な示し方は、やればやるほど本質と逆行してしまう。

 「寂」という言葉は日本古来の世界観だから、厳密な意味で英語にはない。しかしこれを敢えて、PLAIN LIFE AND HIGH THINKINGと表現することで、「寂」という言葉の記号的側面を壊し、再思考することができる。

 「寂」が出てくるのは、6月号だが、2月号で「神のおぼしめし」と言わず、「HEAVEN‘S will」と名付けているのも、そういう意味である。

 これから出していく号は、日本古来の型や構えに、よりこだわったものになっていくと思う。