日本の美と醜(綺麗な心)

 一昨日、上野毛五島美術館で開催されている「よみがえる源氏物語絵巻」を見てきた。

 11世紀初頭に紫式部が著した『源氏物語』が、平安時代の後期にあたる12世紀の前半に絵画化されたもので、千年の歳月のなかで色褪せていたものを、色素の成分検出などによって当時の色を復元し、それを日本画家が忠実に再現したものなのだが、その美しさに息を呑んだ。

 http://www.gotoh-museum.or.jp/tenrankai/index.html

 12世紀というのは、ヨーロッパではロマネスク巡礼の頃だ。ちょうど十字軍も始まり、ヨーロッパ内の交流および、イスラム文明との出会いなどを通じて、ヨーロッパ世界が、約300年かけてルネッサンスの下準備をしているような時代だ。その時代に、日本にこれほどまで洗練された文化があったことに、今さらながら驚く。

 何をもって洗練と感じるかと言うと、人間の心の微妙な機微が、絵画的に表現されていることなのだ。もちろんそれは、『源氏物語』が既にそういう境地を表現しているからこそ絵画的にも表現ができたのだろうが、手の仕草とか視線で哀しみを表したり、植物とか月で感情世界をつくりあげる方法は、1000年の時を超えて、現代の私たちと通じ合えるものがある。

 人間の心は、さほど変わっていないという気がするのだ。

 人の誠実さに胸を打たれて涙を流したり、美しい女性に心惹かれて密通をし、その自責の念で重い病にかかったり、出家したりする人々。過ちに苦しんだり、恥じ入ったり、詫びたり、人間の様々な心の葛藤がドラマとなり、見事に絵画化されている。

 美しい絵画表現を通して伝えられるものは、人間の心のありようや動きである。人間の心の動きというものを、これほどまでに大切に扱った絵画表現というのは、他の文化圏であっただろうか。

 特に、人物の立場や心苦しさを表す為に、横顔だけを見せたり、背中だけであったり、帽子だけ画面の中に入っていたり、人間の心の機微に通じている作者のデリカシーが垣間見えて、とても興味深い。

 同じ時代のヨーロッパには、ロマネスク文化やゴシック文化が栄えている。それらは、神に対する強い思いが、表現に力を与えている。そして、ルネッサンス以降の表現は、表現者と社会(世界)との関係性が、表現の力となっているような気がする。そうした表現は、人間の心の産物ではあるけれど、心そのものが表現の対象になっているわけではない。

 源氏物語絵巻は、一筋縄でいかない人間の心の動きを斜め上から眺め、そのゆかしさを美しく描き出している。人間が人間であることの妙味を感じるのは、そのゆかしさを微妙に味わうことであるとでも言うように。

 この斜め上から眺める角度というのは、とても意味深いものがある。登場人物と同じ位置だと、感情移入が強くなりすぎて登場人物以外のものが見えなくなるし、真上からだと、登場人物の感情を共有しずらい。斜め上から眺める視点は、哀しみに耽る人物の心の動きを感じとれるとともに、その出来事に対する他の人たちの関係性や微妙な距離感までも感じとれるのだ。同じように哀しんだり、冷淡であったり、興味本位であったり・・・。

 つまり、源氏物語絵巻は、絵画表現を通して、複数の微妙な人間関係を浮かびあがらせる。人間の関係性は、世の中の出来事や当事者の立場によって少しずつ変容する。絶対的な善とか悪を追及して正しい答えを求めるのではなく、関係性の変化こそが世界の多様性であるということを当たり前の事実として伝えてくる。

 そして、見る者の心にしみじみと伝わってくるのは、その関係性の中であがく間の純真な心なのだ。正しい心とか、間違った心ではなく、”綺麗な心”という価値基軸が見るものに伝わってくる。

 美しい女性に心を奪われ、不義をおかす。正しいか間違っているかと問われれば、「間違い」の一言で片づけられるものである。しかし、たとえ正しくても純真ではなく醜いものもあるし、間違っていても純真で綺麗なものもある。

 人間だから様々な葛藤があったり、失敗もあれば、道にはずれることもある。この絵巻のなかの登場人物は、自分の行動を厚顔無恥に開き直っているのではなく、自分の気持ちに対して正直に行動し、その結果、いろいろな人を傷つけるという現実を前に、悶々と苦しんでいる。そして、その哀切と痛切が美しく描き出されている。さらに、その微妙な心の綾を、歌などに託して伝えようとするものだから、よけいに切なさが増すのだ。

 歌という微妙な表現に盛り込まれた心の微妙な綾が、きちんと相手に通じてしまうのだから、当時の人々の対話力は、現代より遙かに優れており、高い境地にある。人を思いやり、人の苦しみを共有して心を痛める。そういうことが当たり前のこととして讃えられる社会というものが、今から1000年も前に日本に実現していたのであって、これは凄いことだと思う。

 ”綺麗な心”というのは、現代においては既に死語なのだろうか。小学校などの教育において、”綺麗な心” に重きが置かれることはないのだろうか。

 「人の気持ちがわからなければならない」、「他人に迷惑をかけてはいけない」といったことは、学校でも教えられているかもしれない。しかし、その理由として「社会の中でうまく生きていくために」とか、「協調性を重んじるために」という実際的な側面が強調されていないだろうか。

 一種の美学としてそうなっているのではなく、”目的”を適えるためにそうしなければならないという実利的教育ばかりがはびこる。合理性万能の時代に、美学などという抽象的な価値観は通用しないのかもしれない。

 私の小学校二年生の息子の日記で、例えば息子が家のお手伝いをしたことに言及した時、先生から「目当ては何ですか」と朱書きで問われ、それを書かなければならないように指導されているのを見て、驚いたことがある。

 「目当て」という言葉を学校教育で当たり前のように使われている。

 「目当ては関係なく、そうした方がいいと自然に思ったからそうしたんでしょ。それでいいんだ。目当てなんか考えなくていいんだ」と、わざわざ子供に言わなければならなかった。

 「人を殺していけないのはなぜ?」といった問いにしてもそうなのだが、納得できる目先の理由や目的ばかりが求められる傾向が強い。

 理由や目的ではなく、”心の綺麗さ”。子供に求めるものは、そういうものだと思うのだが、打算ばかりがまかり通る社会のなかで子供達が不利にならないように生きていくためには、そんな甘いことは言ってられないということが、教育方針になってしまっているのだろう。

 「ゆとり」か「学力重視」という議論は盛んなのだが、けっきょくのところは、実社会でうまく生きていくためにどちらが優位かという議論にすぎない。子供の幸せを考えるという大義名分によって、”実”に直接結びつかないことは、蚊帳の外に置かれる。

 今朝の朝日新聞の一面でも、「貧しい子供達は、進学に不利で最初から夢を持てなくなっている、そういう格差社会を何とかしなくてはならない」という記事が掲載されていた。しかし、この種の記事というのは、けっきょくのところ「高学歴で高収入の人間の方が恵まれている。そうでない者は気の毒である。だから何とかしてあげなくてはならない」という価値観の吹聴のように感じられるのだ。高学歴で大会社勤務のこの書き手は、格差社会のなかで恵まれた勝利者の側にいるという優越感を持ち、一つの社会的礼儀のように格差社会の問題を論じている。格差社会なんか糞食らえだ、意味ねえ!という本気の意気込みなどまるで感じられない。

 もしも心から格差社会を無くしたいと思うのならば、進学競争の価値組と言われ、そのことだけに依存する者の、その後の人生がいかに大したことがないかを思い切り伝えた方がいいのではないか。他人がやったことをなぞることだけに長けているより、学歴がなくても魅力的な生き方をしている人のことをどんどん伝えればいいのではないか。

 週間朝日などでも、有名大学への進学率の高い高校のランキング!などと大きな見出しで広告を打っているし、朝日新聞の紙面でも、お受験のための家族雑誌プレジデント・ファミリーの広告をデカデカと掲載し、人々を煽っている。

 けっきょく、そうした価値観が世にはびこっていてくれた方が、自分達の優位性が保たれるという卑小な魂胆が透けて見える。

 ちょっと脱線したが、生きている実感というのは、人の感覚に宿るものであって、頭でっかちに考える概念の中に存在しない。だから、高学歴とか大企業などといった上辺のことよりも、心が動く日々を過ごせているかどうかが大事なのだ。

 心が生き生きと動いていなければ、どんなに立派なビルディングの中で働いていたとしても、屍に等しい。

 1000年も前の日本人は、心の動きこそが人生の彩りであると理解していた。そして、そうした表現のなかには、現代の我々でさえも共感できるものがある。共感できるということは、完全に失われていないということ。少々見えにくくなっているが、そういう美徳を取り戻すことは、完全に不可能になったわけではないのだろう。