日本の美と醜(感じる力)

 ここ何日か「風の旅人」の6月号の準備をしていて、月とか桂離宮とか太平洋戦争前の日本について、いろいろ考えたり、本を読んだりしていた。

 6月号以降、日本の智恵に焦点を当てて編集していこうとしているからなのだが、いろいろ本を読んだりして、自分なりの結論に至ったことがある。それは、日本の智恵を考えるうえで、本を読んでも本当のことは何も知ることが出来ないのではないか、ということだ。特に、最近、発行されているものは、全てを読んだわけではないけれど、現在の私の知りたい答えは得られないと、独断であるけれどそういう結論に至った。

 これはどういうことかと言うと、言葉によってモノゴトを説明しようとしているものは、、“概念”にならざるを得ない。しかし、私の知りたい日本の智恵は、決して概念では説明しきれないものなのだ。概念ではなく、敢えて言うなら、“感覚”で表されるもの。概念で説明しようとするものは、その“感覚”に辿り着くことは出来ない。

 といって、言語表現が全てダメだというのではない。概念で説明するという方法では伝えきれないという自覚に基づいて、いろいろ試行錯誤しながら別の方法で伝えようとするものもある。そうしたものは、説明ではなく、おくゆかしく、智恵の方向を指し示すのだ。だから、それらの表現に触れる人は、答えを得ることは出来ず、刺激されて、後は自分で考えるしかない。

 しかし、たとえば桂離宮などに関して書かれたものは、ほとんど全て、“説明”というスタンスで書かれている。つまり概念的分析なのだ。書き手は、自分の知識を誇り、それを、これみよがしに伝えようとする。知識を得るために、いろいろ調べたり研究したりすることは立派だと思うが、桂離宮の良さは、知識で伝えられるものだとは到底思えない。もちろん桂離宮に限らず、絵や彫刻や小説だってそうなのだろうが、知識的なバックグラウンドが無ければ、そのものの良さを味わえないというのもおかしな話しだと思う。そういうことを言う人は、何か大切なことを誤魔化しているのではないかと思う。独断ついでに言うと、過剰なほど知識武装する人は、色々なことを知っているかも知れないが、実のところ大事なことをまるでわかっていない、ということを相手に覚られないように、記号的な言葉を弄しているように私には感じられる。

 例えば、日本の言葉に、「寂」とか「侘び」とか「幽」といった“感覚”の言葉がある。これらについて、専門家と言われる人は、いろいろと説明する。

 しかし、それらの説明を聞いていて、それは違うんじゃないかという感覚に私はなる。

 なぜなら、表現しようとしているものと表現そのものが、感覚として、まるで一致していないからだ。もし、「寂」という感覚の価値を本当にわかっているなら、自分が表現するものも、その価値に添ったものにしようとするだろう。

 しかし、残念ながら、「寂」を説明する人の表現からは、「寂」らしきものがまったく伝わってこない。「寂」というより、「惑」という感じなのだ。

 「寂」の真意が本当にわかっている人は、「寂」を伝えるためには、「寂」の空気がそのまま感覚として伝わらなければ、「寂」は伝わらない、「寂」が「惑」に転じてしまうような表現は慎まなければならないということも含めて、わかっている筈なのだ。

 そしておそらく桂離宮の場合も同じで、「桂離宮」の本当の魅力を伝えるためには、「桂離宮」の空気がそのまま感覚として伝わらなければならない。それはとても難しい。難しいからといって、概念的な説明で済ますと、「桂離宮」の本当の魅力ではなく、ある種の権威的な箔で(たとえば、あのブルーノ・タウトが絶賛して世界中に日本の美を再認識させたといった具合の)、桂離宮を持ち上げることしかできない。

 それでも、桂離宮が魅力あることが知られれば、それで充分だと言う人もいるかもしれないが、私は、そうは思わない。なぜなら、そうしたことは、桂離宮の魅力を感覚として味わうことではなく、「桂離宮って魅力があるらしいよ」ということを頭で知るだけにすぎないからだ。しかし、そのように知ることで、実際に現物を見てみたいと思い、見るという行動を起こすことにつながるから、たとえ断片的な情報でも知ることは意味があると言う人もいるが、それでも私は、敢えて否定する。

 というのは、神殿など神に向かって作られた建築と異なり、そこに快適に暮らすために増築を繰り返しながら作られていった桂離宮の真意は、おそらく、そこに住んでみないとわからないからだ。ほとんどの解説書は、その視点が抜けている。また、観月の名所としての桂離宮と月との関係についても、テレビをはじめとする娯楽が何もなくて、しかも、街灯などない暗闇のなかで月と対面する感覚がわからないと、本当のところはわからないからだ。

 もちろん、わからなくても想像することはできる。しかし、わかったつもりになってしまうと、想像力は損なわれる。

 現物を見ることが、想像力を膨らませる力になる場合もあるだろうが、「寂」とか「幽」といった日本古来の智恵の掌握は、現物そのものを見るだけでは難しく、また概念的説明でも不可能で、異なる表現の様式が必要なのではないかと私は予感する。

 というようなことを、このように説明しても、私が抱く概念だけを伝えることになって、それは私の望むところではない。にもかかわらず、敢えてこのようなことを書いたのは、6月1日に出る「風の旅人」が、「寂」とか「幽」などをテーマにしているからであって、雑誌という様式を使って、実際にどういうことができるのか、自分なりの挑戦の宣言とするためなのだ。

 日本の底流に流れる智恵に焦点を当てていこうとするならば、記号化されてしまった「寂」とか「幽」などの言葉を解体して、再構成を行い、感覚としてわかるものにしていかなければならない。それが出来ないのなら、むしろ何も手を付けない方がマシなのだ。