腐らない生き方!?

 屋久杉は、千年で一人前。一年ごとの年輪はとても薄い。それは、屋久島の土壌が極めて栄養分に乏しいから。でも、少しずつ少しずつ乏しい養分の環境で自分を成長させていくからこそ強靭な樹木になる。肥料を与えて急成長する木は、中身がスカスカで、すぐに腐ったり風に倒れるけれど、屋久杉はそうならず、しっかりとした幹を保ったまま何千年も生きる。
 無肥料、無農薬で育てた野菜は、枯れるけれど腐らないと聞いて、屋久杉のことを思い出した。そして、人間のことにも思いを馳せた。化学肥料たっぷりの環境、すなわち目先の結果ばかり追い求める教育や、受験など目先の結果を追求するために他のことをさせず、ご機嫌をとるために欲しい物を安易に与えるという偏った環境で子供を育てると、見た目には成績アップの速度が速く大企業に就職できて立派に見えるけれど、腐りやすく、風に倒れやすい大人になるのかもしれない。
 無農薬、無肥料で育てる野菜のことから屋久杉、そして人間のことに思いをはせて、現在の日本国のことが頭をよぎった。日本は屋久杉のように千年かけて年輪を積み重ねて文化を育ててきた。文化の中には、暮らしの知恵や、人生観や世界観も全て含まれている。資源に恵まれず、自然災害が頻繁に起こるという過酷な環境ゆえに、急速に伸長することはないけれど、日本は、毎年少しずつ年輪を積み重ねてきた。屋久杉の年輪の間は緻密で、非常に美しい。そして、樹脂の香りが素晴らしい。困難のなかで諦めずにコツコツと生きることは、そのように美しくて芳しいものであることが、屋久杉の年輪から伝わってくる。そして、屋久杉は、数千年の生涯を終えて倒れた後も腐ることなく残り続け、その倒木の上に、無数の新たな命を息づかせる。人が生み出す文化もまた同じ。個人の生涯という狭い枠組みのなかで命が完結しているのではない。一生を終えても、その人が文化と呼べる生き方をしていれば、その文化の中から新しい命が次々と生まれてくる。
 文化と呼べる生き方とは、屋久杉のように、過酷な環境のなかでも忍耐強く、決して腐ることなく、少しずつ少しずつ年輪を重ねていく生き方のことだ。
 年輪には、太陽や水や空気や周りの生物など環境世界との関係性が織り込まれている。自分本位に周りから様々なものを収奪していく生き方は、急速に年輪の幅を広げ、見た目には立派に見えるかもしれないが、その内実は粗く、ちょっとした環境変化ですぐに腐ったり倒れたりする。
 自然環境の中にも、人間環境の中にも、そうした例は、それこそ腐るほどある。
 見た目の大きさや太さよりも、その中身の緻密こそが、命をリレーしていくうえで大事なこと。
 中身はスカスカで、見た目ばかり大きなものは、風に倒れて、雨に打たれてすぐに腐り、消えてしまう。もちろん、消えてなくなるわけではなく、周りの環境世界のなかに分子レベルで循環していくわけだが、分子レベルに散ってしまうことは、もはや文化とは呼べない。文化は、具体的な形があり、その形が、次の命を育てていく場となるものだ。
 この100年の日本社会が進んできたベクトルは、千年生きる屋久杉とはまったく逆方向であった。
 見た目の立派さや、規模の拡大ばかりを競ってきたし、それが価値評価の基準だった。表の体裁はキレイで立派で強く見えても、裏にまわれば汚く醜い弱い、という物は、周りに溢れている。
 表面の体裁を整えるだけで、裏側で手を抜いた仕事も非常に多い。学歴とか試験の結果とか、ワックスや着色料でキレイに見せた食物など、見た目の部分だけで判断する風潮が蔓延しているのだから、そうなるより他はなかったのか。
 カルチャーという、急速に太い幹になっても、すぐに倒れて腐ってしまう現象は次々と現れたが、文化という、次の命を育てていく形や場は、めっきり無くなってしまった。
 不安の時代とよく言われるが、不安の原因を分析する人達も、学歴とか試験の結果など表面的な現象で物事を判断する癖がついているものだから、経済が原因だとか、時には、北朝鮮や中国脅威などと主張する人もいる。
 しかし、そうした近因は、すぐに誰でも思いつくことだが、見えにくくなっている遠因こそを考えなければならないだろう。
 風速20メートルの風が吹いても、屋久杉ならビクともしない。また、柳のように細い樹木も、それをかわす術がある。一番、不安に怯えるのは、図体ばかり大きくなったものの中身がスカスカで腐りかけている大木なのだ。
 中身がスカスカで腐りかけている大木という喩えは、個々の問題だけでなく、場全体の問題としても受け止める必要がある。
 つまり、この日本社会全体が、もはや屋久杉のような長年の歳月を通して積み重ねていく繊細で強かな文化を喪失し、経済大国などと外観は巨木だけど中身はスカスカになっているということ。その空虚こそが、人々の不安の根本原因なのではないか。いくら政府が景気を刺激するという大義名分で莫大な赤字国債を乱発し、かりに経済状況が少し持ち直したところで、空虚であるかぎり不安は拭えない。ただ、貯金を増やそうとするだけであり、その貯金が、金融機関を通して国債購入にあてられ、その借金で、国は再び景気刺激策を講じるのだろうか。そうした堂々めぐりをいつまで続けるというのか。
 経済成長などという見た目の数字の大きさと、内実の豊かさが一致していないことは、多くの人が感じている。
 それこそ内実を充実させて、たとえ見た目には細くても、風が吹いても倒れず、雨に打たれても腐らない状態へと、自分自身を作り上げる一歩を踏み出さなければならない。日本という国が、再びかつてのように千年かけて、きめ細かく年輪を重ねていける体質になるかどうかは、政治ではなく、そうした一人ひとりの人生の在り方にかかっている。
 大きな組織にいた方が安心だとか、長いものに巻かれた方が得だとか、権威にすり寄っていればチャンスはあるなどという意気地の無さは、気がついたら自分の内部に大きな空洞ができていたということになりかねないし、拗ねて理屈や不平をこねるばかりというのも、知らず知らず自分の内部を腐らせてしまう。
 環境世界がどうなろうと怯えることがない自分の内部づくりの為には、一年ごと、一日ごと、絞りきった雑巾をさらに絞って一滴の水を絞り出すように自分の力を振り絞り、屋久島のように年輪を重ねていくこと。その積み重ね以外に、確かなものはどこにもない。