第1079回  無為自然


 困難極まりない状況に直面している時、その困難に翻弄されないように、これは試練であり自分は天に試されているのだと、自分に言い聞かせる時がある。

 そして、天に試されているならば、天に対する応えは、どういう答えが正解なのかと考える。

 もちろん、何事においても絶対的に正しい答えというものはないが、それでも困難に向き合うために答えを選択しなければならないという状況がある。

 そして、その答えというものが、現代社会で多くの人が共有している通念や常識、たとえば「命は大切」とか、「助け合うことが必要」とか、「弱者を支えなければならない」など、その言葉を口にしていれば誰にも非難されない耳障りの良い答えでは、とてもすまないという究極の事態がある。

 そういう苦しい局面に追い込まれれば、ただ自分の殻に閉じこもって落ち込んだり、自暴自棄になったりという方向へと、心が傾斜していく。

 そういうギリギリの状況の時、壊滅的な方向へと崩れ落ちていくことを避ける方法は、一つしかないと思っている。

 その方法は、「命は大切」とか、「助け合うことが必要」とか、「弱者を支えなければならない」といった、現代社会では良心のお墨付きのようになっている言葉、だからこそ、その欺瞞に反発を覚えて破壊的衝動を一部の人の心に生じさせる言葉を無化してしまうもの。

 それは、「自然の摂理に従う」という、いにしえの昔から人間が繰り返し説き続けてきた心構えではないかと思う。

 人は誰でも必ず老いて死ぬ。いったい何に対して醜く執着して、抵抗し続けるのかと。

 現代人を除いた全ての生命は、そのことを潔く弁え、人類の歴史よりも遙かに長い時代を生きてきている。

 長く命をつないできた生物の種としての生存戦略はシンプルで、シンプルだからこそ普遍性を持ち、時代環境の変化に関係なく機能してきた。

 その戦略とは、次世代に負担をかけないこと。次世代の健やかさだけを願うこと。

 人間も、かつては三世代後のために木を植えることが当たり前だった。そうした心構えが時代を超えて連綿と続けられてきた。

 凶暴に見える肉食動物でさえ、必死に獲得してきた餌は、まずは次世代に与える。たとえ自分が飢餓状態にあっても。

 彼らは、自分の食が減り、少しずつ痩せ衰えて死に至ろうとも、それを自然の摂理として潔く受け止めている。その運命にジタバタと抗うことはしないし、そうした姿勢を見せつけられると、種の違いを超えて、人間である我々も胸を打たれる。胸を打たれるのは、今日の社会に蔓延する飾られた言葉を無化する真実がそこにあり、自分の潜在的無意識が、その真実に反応しているからだろう。

  もしも今、人間が試されているとすれば、人間という種全体として、そうした自然の摂理と、自分たちの在り方にどれだけの乖離があるかを自覚しろということだろう。

 自然の摂理に反することというのは、地球環境破壊という外面の現象的なことだけではない。全てはつながっており、全ての現象の根元となる人間の内面の状態がどうなのかということ。

 もちろん、そこには、経済優先の考えによる過剰な消費主義や、効率主義なども含まれるが、さらにその根元に横たわっているのは、一体何なのか?

 もしも、自分の生命や生活への執着よりも、次世代の健やかさだけを願う人間の数がもっと多ければ、世の中はきっと、今よりも健やかになるだろう。とりわけ有権者の多くを占める高齢者の価値観が変われば、政治も変わらざるを得ないだろう。

 そして、結果として、次世代の、大人や高齢者に対する尊敬の念も、より強くなるだろうし、だからこそ、その心構えが模範となって、さらなる次世代に引き継がれるだろう。

 高齢者の死が極端に恐れられて、次世代の活動が極端に抑制されるような種が、過酷の環境世界で、生き延びられるはずがない。