風の旅人 19号〜20号

 森羅万象は、一つの生とでも言うべきダイナミズムの中で、目に見えない複雑な相互関係を通して解体と再構築を繰り返している。 人間も森羅万象の一部分だから、人間のつくり出すモノゴトは、その摂理と無縁でいられない。にもかかわらず、そのことを忘れた人間は、自分が知っていることや自分に役立つことばかりを重視し、畏れ多さや慎み深さを失い、自分の尺度や都合だけでモノゴトに対応しようとする。ライブドアヒューザーの問題だけではなく、そうした傾向は現代社会の多くの場面で日常化している。

 現代社会に生きる人々の多くは、慎みよりも明るい浮かれ騒ぎを好む。特にメディアは、自らが浮かれ騒ぎつつ、浮かれ騒ぎを増長する役目を果たす。メディアの浮かれ騒ぎは、娯楽だけでなく、マンション問題や幼児殺人事件など、シリアスな問題を伝える場合でも同じだ。大勢の人間に関心を向けさせる簡単で即効性のある方法が浮かれ騒ぎであり、視聴率、販売数、日経平均株価時価総額議席数、獲得票数など、数量価値を重んじる人にとっては、浮かれ騒ぎをつくりだすことに利点があると踏んでいるのだろう。

 右も左も浮かれ騒ぎ、社会は益々喧しく、けばけばしくなる。

 しかし、人間の集まりが社会なのだから、そこに生じる現象は、最終的に一人一人の価値観や美意識を反映したものなのだ。

 意識しようがしまいが、人間のどんな行為にも、その人の価値観や美意識が反映される。その人の心の持ち方とか、生きていくうえで必要な自己研鑽などの全てが、一つ一つの行為に現れる。現実をどう受け止めて、どのように行動するかも、その人の生き方の美学の現れなのだ。

 もともと日本人にとって、人生の学びは、正解を得て満足する為のものではなく、生き方の美学に反映させることに意義があった。 森羅万象を自分の都合の良いように解釈するのではなく、台風や地震をはじめとする人智を超えた力に畏れを抱き、時には、その不条理に喘ぎ、それでも前向きに生きて、慎み深く森羅万象と向き合っていくこと。古来、日本人にとっての祈りは、そういうものだったのだろう。祈りは森羅万象と人間をつなぐ臍の緒のようなもので、それを通して人間は森羅万象から滋養を得ていたのだろう。

 さらに、森羅万象の全てが複雑な相互作用を通して解体と再構築を繰り返しており、その節目に現れた束の間の<かたち>が私たちの命だとすれば、それはデリケートで儚いものとなる。変化に富む風土に生きる日本人にとって、その認識は当たり前のことだった。

春は花 夏ほととぎず 秋は月 冬雪さえて 冷やしかりけり(道元

 春の桜や、卯の花の散る頃に奔放に鳴くホトトギスは、散りゆく宿命に興趣を見出すものであり、秋の満月や冬の雪も、欠けたり溶け消える宿命のものが束の間に見せる玲瓏たる美しさである。いずれも、儚き世を悲観するものではなく、自らの命を存分に発揮しており、その晴れやかさや清々しさに心遊ばせる粋を、道元は指し示しているのだろう。

 いかなる時と場所でも、人間の中に森羅万象の摂理が反映する。何も知らず、何も考えなくても、人間の中に森羅万象の摂理が宿る。言葉が増え、様々なことを知り、様々なことを考えすぎて、気付けないこともある。過去から現在を経て未来に連なる流れが、この一瞬、人間の目の前に全て顕れているが、喧しくて眩しい現象が、それをわかりにくくする。静けさの中で耳を澄ませたり暗闇の中で目を凝らすことで、幽かに感じとれることがある。

 森羅万象の中を流れる一つの生は、実態として取り出すことはできないが、その力は、私たちを取り巻く全てのものに反映し、様々な<かたち>となって現れている。

 「風の旅人」Vol.19のテーマ、ONE LIFEからVOL.20のテーマ、ALL REFLECTIONへと続く流れは、生命の摂理と、その現象に関する私たちの認識を再構築する試みである。

 人間の都合ばかりが目につく今日の世界だが、それでも森羅万象に宿る儚き生命の摂理を覚り、自らの生き方の美学に反映させることは可能だろう。死すべき宿命を背負った一瞬の営みの中で、晴れやかに清々しく、自らを存分に現して生きていこうと思うならば。