先に解決すべき、大人の内面の問題

 誰もが予想したとおり、自殺予告の公表とメディアの騒ぎによって、「自殺予告」が連鎖している。

 誰もがそうなることを予想しているし、おそらくメディアもわかっている筈なのに、大騒ぎをする。

 それにしても、自殺するくらいなら学校を辞めるか登校拒否になればいいと思うのだが、そういう判断をする余裕がなくなってしまうのはなぜだろうか。

 学校というものが、自分の人生において、それほどまで重要な位置づけになっていることじだいに、何か問題があるのではないか。

 それは進路上のことだけでなく、学校というフィールドに適応できないこと=社会的に生きる資格なし、といった暗黙のプレッシャーを与えている今日の学校風土(文部省や教育委員会だけでなく、親や教師の価値観すべてを含む)そのものの構造的問題だろう。

 学校を辞めても友達がいたり、強く逞しく活き活きと生きていく選択肢が示されて、それが当たり前のことのような雰囲気があれば、学校生活が苦痛になったからといって死を選ぶ必要はないだろうと思う。

 集団社会のなかで劣勢に追い込まれると精神的に逃げ場がない社会。皆が歩いている道から外れると生きていけない社会。規格から外れたものは不良品のように扱われる社会。子供たちは無意識のうちに現在の日本社会をそのようなものだと感じていて、そのシンボルが学校になっているのではないだろうか。

 社会的な規格に添って正当で立派な道のように暗示をかけられている学校生活。しかし、その実態はどうか。学校で先生の授業を受けていても、先生は機械のように決まりきった知識情報を右から左に流すだけで、触発されることも刺激されることもない。人間として尊敬できて人生の見本となるような、仕事に誇りをもった活き活きとした先生も少ない。そうした構造のなかで、多くの生徒が、自分をごまかしながら学校の制度や先生や他の生徒と仕方なく付き合っている。

 だからといって、そこから脱出するためには、相当な覚悟がいる。覚悟ではなく勢いでそうなった場合でも、自分に圧倒的に不利な環境で生きていく強さが必要になる。

 現代社会は、決められたパターンに多くの人が合わせた方が効率的で良いとされ、その一員になった方が得策であるという風潮も強いし、そこに加わらないものを集団的に排除したり苛めるということも頻繁に起こる。グローバリゼーションという言葉は、詭弁を弄して正当化しても、本質的に、そのような画一的規格の崇拝、異分子排除の思想を孕んでいる。

 そして私たちは、無意識にそうした思想を強化することに加わっている。

 私たちの子供の頃でも、近所の子が新しい玩具を買ってもらってそれを自慢されると、家に帰って、「○○ちゃんも持っているから、僕も買ってえ」などとねだることがあったが、「○○ちゃんの家とウチは違うの!」と母親に叱られたものだ。

 日本は、個人主義が欧米に比べて未発達ゆえに周りに迎合する癖があるが、それでも、ウチはウチ、人は人という意識が、少しは残っていた。

 しかし今では、たとえばゲームなどが学校で流行っていて、「みんな持っていて、自分だけ持っていないから買ってえ」と子供にねだられると、子供が可愛そうになって買ってしまう親は多いと思う。それだけ裕福になったということもあるが、少子化によって、子供の不憫に対して「可愛そう」という感覚が昔に比べてとても強くなっているように思う。子供が可愛そうだからという理由で、子供のためにしてあげることが増える。その結果、現代社会は、多くの企業が、子供を餌食にしてビジネスチャンスを広げようとしている。 ファミリーレストランに行けば、レジのすぐ傍に粗悪な子供向けの玩具が並んでいる。観光名所になっている所は、子供向けの玩具やお菓子が賑々しく目立っている。どこに行っても、子供の欲望を刺激し、子供が親にねだるような状況作りが行われ、子供が「買ってえ、買ってえ」と駄々をこねる光景が頻繁に見られる。

 子供が人前で駄々をこねると、みっともないという感じで根負けしてしまう。「いい加減にしなさい!!」と声を荒げると、ケチな親であるかのように周りから白い目で見られる。

 社会全体として、子供の健やかさを犠牲にして、ハイエナのように子供を食い物にしている。

 なんて荒みきって息苦しい社会なんだろう。

 子供のためなどといいながら、どの企業も子供向けのマーケットの開発に忙しい。子供の心理を分析し、子供心を掴んで商売する方法を増殖させる。玩具やお菓子だけでない。お受験対策というコンセプトの雑誌、乗り遅れたら大変だと焦らせて、高額の代金を取る学習用の様々なツールの開発、塾の繁栄・・・。

 誰しも仕事で稼ぎ、食べていかなければならないのだが、子供を狡猾に攻略し、子供を拠点に親を落として儲けることに、なにゆえにそこまで一生懸命になれてしまうのだろう。仕事に対する誇りが、数が売れて世間で評判になった、という類のことだけに成り下がっている。世間で評判になった=素晴らしいもの、という錯覚に取り憑かれている。摂理に添ったものかどうかという判断は無くなっている。摂理そのものが、価値観の多様化の騒音のなかで、何だかよくわからなくなっている。

 そのように子供の環境を荒らしまわっていながら、自殺だ、登校拒否だ、引き籠もりだ、社会問題だ、とワイワイ騒いでいる。

 それは根本的に違うだろうという気がする。

 子供たちに起こっていることを大きく騒ぎ、深刻ぶって子供たちの環境を何とかしなくてはならないなどと言うのは、もう一方の本当の社会問題を隠微するためだ。

 本当の問題は、大人の内面にある。大人の内面がつくりあげている学校がくだらない。先生の授業がくだらない。現在社会に溢れる多くの仕事がくだらなくなり、社会や学校や親が奨励するほとんど全てのことが、くだらないということ。

 そのくだらなさの源がどこにあるかというと、学校にしても教師にしても親にしても、自分が心からそうすることが良いと思って言ったり行動したり反省するのではなく、「現実がこうだから」、「社会がこうだから」、「周りがそうだから」、「みんなそうしているから」、「人に言われたから」、「そういうものだと思っていたから」などと、誰かが作った価値観や考えを、右から左にコピーして流すところにある。

 そうしたスタンスが増殖するから、子供たちは、人間そのものへの信頼を持てずにいる。

 大人の一人一人が、世間がどう騒ごうが、自らの道を、畏れ多く、慎み深く、啓いていく覚悟をもってはじめて、子供たちに、身をもってそうした生き方の尊さを教えることができるし、型にはまった窮屈な場所に、子供のエッセンスを流しこんで固めてしまい、それでよしとすることはしなくなるだろう。

 子供たちは、自分たちも大人になっていくわけだから、大人たちを誇らしく思い、信頼し、自分もそういう大人になろうとする意欲を持ち、自分の人生を自分で啓いていく勇気を持ちたいと心のなかで願っているのだと思う。

 子供たちは、現在の苦しさを耐えることで将来に得られる歓びを知っていれば、簡単に死のカードを切ることはないかもしれない。生きていても、その未来に、現在の私たち大人を想定することで、苦しさに耐えて敢えて生き続ける価値がないと判断してしまうのかもしれない。

 子供から見てくだらない人生を生きているようにしか見えない私たち大人が、「生きていたら良いこともある」と言っても説得力がないし、テレビのなかでお笑いタレントが苛めたり苛められたりするのを見て、大人が馬鹿笑いをしていたら、それを見る子供も、そういうことに鈍感になるだろう。

 子供たちの問題は、間違いなく私たち大人自身の内面の問題だと思う。

 大人たちが保身に走り、責任を回避し、周りに卑しく迎合し、腐ったしがらみを払い落とせず、目先のことしか考えず、自分をさらけ出さず、本音で語らず、蔭でたちまわり、表面を取り繕って自分をごまかしながら生きているかぎり、子供たちの得体の知れない息苦しさも解消できない。

 大人が自分たちの内面の問題を解決できずに、子供たちの問題を解決することはできないだろうと思う。

 


風の旅人 (Vol.22(2006))

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