第883回 子供に必要なのは道徳教育ではなく、哲学の時間では!?

 昨日、テレビのスイッチを入れたら、オランダにおける学校教育を紹介していました。子供達の自立性を尊重し、苛めなどの問題があれば子供達のあいだで議論をさせたり、同じ教室内でみんなバラバラの方向を向き、別々の内容の勉強をしていること。そして、同学年ではなく三年単位でグループを組んで、年齢が上の子供が下の子供に勉強を教えるのですが、教えることを通じて内容の理解を深めていく。その他、日本の画一的で詰め込み式で過保護な学校教育と正反対だと思うことが多くありました。
 オランダにはオランダの事情があり、日本には日本の事情があり、どちらがいいとなどと言うつもりはないけれど、私がもう一度子供時代に戻って学校教育を受けるのであれば、オランダの方がいいです。
 私は、子供時代、親からも教師からも理屈っぽいとよく言われましたが、オランダにいたら、そうは言われなかっただろうという気がします。
 オランダで、大人が子供に対して求めているのは、人が言うことや行なっていることを理由もわからず踏襲することではなく、自分でなぜそうなるのかの理由を考えて、答えを導き出して、行動することだからです。
 理屈っぽさというのは、頑固ということではなく、世界(社会)と自分の関係を、自分の実感と論理で把握していくプロセスのことだと思います。
 そして、自分の実感と論理の組み合わせが、他の人間と決して同じものではないということも、同時に把握していきます。
 もしも自分と異なる実感と論理の組み合わせの人がいたら、それを認めないということではなく、かといって、人それぞれだからといって無関心になるのでもありません。
 なぜ、人によって実感と論理の組み合わせが違っているのかとても気になり、その背景にあるものを知りたくなります。
 それを知って、自分なりに納得して、自分の実感と論理の中に組み込んでいくことで、自分が少しずつ、より広い世界を掌握できていくような気がします。
 私は、決して、理屈をこねて自分の仕事を人に押し付けるタイプの子供ではなかったのですが、親も先生も、「理屈をこねて行動しない子」も、「理由を理解し納得のうえ行動したい子」も、同じように、「理屈っぽい」という言葉で片付ける傾向がありました。
 私は、そういう周りの大人の浅さをつまらないと感じていました。
 物事を突き詰めて考え、相手が子供であろうと、きちんと向き合って議論できるような大人が少なかった。
 それはともかく、大人になって社会に入ってから、自分のように理屈っぽい人間と、そうでない人間の差がどういう風に生じるか、実感したことがあります。
 それは、たとえば企業において、クレーム処理をする時です。
 私は、旅行業に携わったことがありますが、旅行業というのは大変苦情の多い業界です。
そして、相手に楽しんでもらいたいという気持ちが強いからでもありますが、自分にとっても相手にとっても好ましくないこと、つまり、苦情やトラブルへの対応が苦手な人が多いです。
 上手に対応できるかどうかという技術的なことではなく、心の持ち方として、トラブルや苦情に対して、ものすごくネガティブになる。
 ぶん殴られたりするわけでもないのに、必要以上に臆病になってしまうのです。
 旅行業にかぎらず、色々な業界で、そういうことがあるかもしれません。
 私は旅行業に携わる前に、「クライアントは神様」という業界でとてつもなく理不尽な目に合っていたので、免疫ができていたのかもしれませんが、トラブルや苦情があると、心の中で、少しワクワクするところがありました。
 教師ばかりが参加したツアーで、20名ほどが一致団結して苦情を言う為に会社に押し掛けてきたことや、高利貸しのヤクザっぽい人の事務所に呼ばれたこともありました。
 もちろん、そうしたトラブルで自分の肉体が傷つけられたら大変ですが、精神的な負担だけなら、自分の想定の外にある世界を知るうえで絶好の機会です。
 「なるほど、そういう風になっているのかあ」とわかり、相手の理屈を引っくり返す理屈を考えて手紙を書くことなど、理屈っぽい人間にとって、苦痛でも何でもありません。
 教師が集団で押し掛けてきた時などは、三国志にはまっていた時期でもあったので、諸葛孔明の戦法で扇の陣で迎え撃つぞと言って、会議室に異様な席の配置をして、そこに相手を迎え入れたりしました。
 そもそも、理屈っぽい人間は、自分の実感と論理の組み合わせと、人の実感と論理の組み合わせが違っているということをずっと感じて生きていますから、自分の実感と論理の範疇にない事態が起きても、多少の驚きはあっても、こんがらがるほどにはならないのです。
 なぜこういうことを書くかと言うと、日本で行なわれている画一的で均質で、右へならへの教育だと、高度経済成長期とか戦争とか、一つの目標に向かって全員一丸で突っ走るような時には有効かもしれないけれど、そうでない時には、かなり問題が出てくるような気がするからです。
 国家や会社の出来事だけでなく、たとえば自分の子供が、引きこもり等自分の想像できないことになった時に、あたふたとするばかりでどうしていいかわからず、結局、事態を悪化させるようなこともあるでしょう。
 会社の苦情処理などもそうで、どうしたらいいかわからないと動くことができず、対応が遅いために相手をよけいに怒らせ、事態をより複雑にしてしまうことがあります。
 東電の社員は、学校成績が優秀だったのだろうと思いますが、同様の思考停止状態が、けっこう多いのではないでしょうか。
 全員が一致して納得するような正しい答えなど存在せず、正しい答えがわからないならわからないなりに動く、という動き方がある筈だと思いますが、日本の教育では、どうもそうしたセンスが磨かれにくいのでしょう。
 「まだはっきりしたことが言えないから発表できない、対応できない」という台詞がよく聞かれるのですが、なぜはっきりとしたことが言えないのか、その背景にあるものを短編小説のようにまとめて発表するという洒落た対応があっても面白いと思うのですが、こういう時の答弁は、誰も彼もが同じで、みんな同じ顔に見えて仕方ありません。
 一方が、「説明責任」を求め、もう一方が「十分に説明をした」と言い合う。
 こうしたセンスのない大人の答弁を聞かされ続けて、子供は、大人を尊敬することなどないでしょう。

 明確な答えがあること。自分が理解できること。自分の行動原理が、それしかないとすれば、人生において自分が関われることは非常に限られてしまいます。
 もちろん、生きていくうえで、そんなに都合のいいことはありませんので、明確な答えがないことや、自分が理解できないことに関わることも多く、その場合は、「自分の意思に反してやらされる」、「厭だけど仕方がない」というネガティブな受けとめ方になってしまいます。
 本当は、答えを自分で探すことが面白いのですが、それが面白いとわかるためには、それなりの準備が必要でしょう。
 「オマエは理屈っぽいなあ、言われたとおりにやればいいんだよ」と言われ、そう言う相手が尊敬できる大人であるならば、「はい、そうですか、あなたの言うとおりにします」と言えるけれど、そうでない場合の方が多いわけで、ならば自分で考えて、考えたことを自分の実感と照らし合わせて、大人が押し付けてくる常識を点検していくしかありません。そういう能動的なメタ視点こそが、答えのない道を行く面白さに通じる準備なのだろうと思います。

 風の旅人の復刊第5号<テーマ:いのちの文(あや)>で、哲学者の鷲田清一さんのロングインタビューを行ないました。
「ものの弾み、いのちの弾み」という言葉に尽きるのですが、計画通りでないところが、いのちの味噌であり、その味噌を上手につかって人生を味わい深いものにしていくためには、いかに自分の頭で考えることが大事かとあらためて思いました。
 哲学というと、難しくて理屈っぽくてと敬遠する人が多いですが、常識的なことだと決めつけられ、疑うことすら許されなかったり思いつかないようなことを一つひとつ点検していき、その常識が、かってな思い込みにすぎないことを知ることは爽快でもあります。
 安倍政権が性急に行なおうとする学校教育の改革で、道徳教育が導入されますが、この道徳というのは、大人が決めつけた常識を子供に植え付けることであり、ペットのように子供を躾けることでしかありません。
 日本の子供達に必要なのは、そういう大人の世界の狭さを反映した道徳教育ではなく、大人達よりも広く深い世界を掘り下げていく哲学の時間なのではないでしょうか。

*メルマガにご登録いただきますと、ブログ更新のお知らせをお送りします。

メルマガ登録→

風の旅人 復刊第5号<第49号> 「いのちの文(あや)」 オンラインで発売中!

Kz_49_h1_2

森永純写真集「wave 〜All things change」オンラインで発売中

Image