第884回 自分の理解や計画を超えた”あやしいもの”が救いになることがある。

 

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(撮影:紀成道)

 数ヶ月前、次号の風の旅人のテーマを「いのちの文(あや)」と決めて、色々と準備を進めながら、どうもまだ中途半端で全体がうまく整わないなあと宙ぶらりんの気持ちの時に、この写真を撮った紀成道さんが、私の事務所で行なっているポートフォリオレビューの為に、東京から夜行バスでやってきた。
 そして、写真を見せてもらったのだが、見た瞬間、私が待っていたのはコレだと思い、掲載させていただくことになった。
 追いかければ追いかけるほど遠ざかるものもあるし、思いもよらないタイミングで、出会うべくして出会うものがある。
 
 ところで、今朝の新聞に、大学生の就職活動についての記事が掲載されていた。
 大学生が就職活動に忙しすぎて学業に身が入らないために、経団連が、採用活動の解禁時期を3年生の3月に、選考開始を4年生の8月に見直す新ルールを決め、加盟企業に協力を求めているとのこと。
 しかしながら、経団連に加盟していない会社や外資系企業が、優秀な学生を押さえておこうと早めに動き出しているため、友人が既に内定を受けているなどという情報を聞いて、学生が不安と焦りに苛まされているらしい。
 そのように学業に身が入らず就職活動に明け暮れて、無事に企業から内定を得ても、大学の新卒者の三人に一人が、三年以内に離職してしまう。
 http://news.mynavi.jp/news/2014/11/11/035/

 なぜこんな空しいことが起きてしまうのだろう。
 私は、大学を二年で退学してしまい、みんなと一緒に行なう就職活動というものを経験していないが、自分の子供達がそういう騒動に巻き込まれてしまうのかと思うと、気の毒でならない。
 親が何を言おうが、子供達は、友人をはじめ周りの雰囲気のなかで、自分もそうしなくてはいけないと思って焦ってしまうような気がする。
 ”自分もそうしなくてはいけないと思ってしまう感覚”を、なぜか日本人は強く持っている。
 このことについては、色々な学者の方が、日本人の”世間体”とか、共同体意識などをテーマに分析している。学校教育や親の躾にも、その原因はあるだろう。
 子供を叱る時にも他の子と比較して叱ったり、親の会話でも、隣人や同僚など他の人との比較で良し悪しを決めるような言動が、子供の前に頻繁に行なわれたりしている。

 そして、人々が共有している価値観や、誰からも理解してもらえそうな常識の範疇に、自分の人生をあてはめようとする。

 紀成道さんがポートフォリオレビューで私に見せてくれた写真は、森の中の精神病院だった。心を病んだ人を牢屋のようなところに閉じ込めるのではなく、自然と接しながら心の恢復をはかろうとする試み。
 紀さんは、その病院に体験入院して、一緒に生活をしながら取材を続けた。色々と話を聞いていると、紀さんは、入学選考の厳しい大学に入学したが、大学院の時に研究室の教授と折り合いが悪く、かなり心を病んだことがあり、人生の進路も劇的に変わったようだ。
 大学でも企業でも、苛めのようなことがよくあり、苛められる人の心の病につながるが、苛めをする側も、心を病んでいるのだろう。
 研究室の教授や大企業の管理職、また戦争中の軍隊の上官など、なにゆえにそこまで心が歪んでいるのかという例はたくさんある。
 人間にはそういう性悪のところがあると言ってしまえばそれまでだが、人間をそこまで性悪にしてしまう原因についても考える必要もあると思う。
 自分より弱い立場(自分の意のままになりやすい)に対して陰険で悪質なことが平気でできてしまう人は、だいたいにおいて自分より強い立場(自分の意のままにならない)に対して卑屈であることが多い。
 自分より強い立場のものというのは人間とは限らない。自分を縛るルールとか、自分ではどうにもならない運命も、そこに含まれる。
 話は変わるが、少し前、28歳の自分の息子を精神科病院に入院させようとしたけれどそれができず、このままだと家族が息子に危害をくわえられるのを防げないと考え、息子を殺してしまった父親の事件があった。
 その父親は、ものすごく真面目な人だそうで、社会的に信頼も高い職業につき、世間体も重んじる人だった。妻や娘を守ろうとする父親としての正義が息子を殺すという行動になったということで軽い刑罰が下された。しかし、息子が寝ている時に、左胸に刃物を突き刺して殺害したのだ。
 相手が寝ている時というのは、相手を意のままにできる状態だ。日頃、息子は親に暴力をふるっていたようだが、起きている時の息子は、自分の意のままにできない状態だったのだろう。だから、何とか精神病院に入れようとした。
 でもそれができず、父親が追い込まれていったとニュースでは伝えられ、精神科病院の受け入れ体制が未整備だからこういう事件が起こったと考える人も多い。
 しかし、実際には、日本は、世界で突出して精神病院の入院患者が多い。
http://www.siruzou.jp/seikatu/12074/
 この資料を見ると、その数は異常で、全世界の精神病の入院患者の5人に1が日本人ということになる。一般病棟の精神科も含めたベッド数は34万4千でダントツの世界一。人口1000人あたり2.7床で、1000人あたり1床を超えるのは、オランダ、ベルギー、日本だけで、2床を超えるのは日本だけ。アメリカ、ドイツ、カナダなどは、0.5床で日本の5分の1。
 日本がストレス社会だからと考える人も多いが、日本人に精神病を患う人が多いというわけではない。メンタルヘルスの有病率は8.8%で、イタリアの8.2%についで低く、アメリカは日本の3倍の26.4%、フランスは、18.4%。
 また、日本にある全ての疾病の病院のベッド数のうち、21.7%、つまり5人に1人が精神病用のベッド。
 そして、入院日数においては、イタリア、ドイツ、フランスあたりは、平均1〜3週間程度なのに、日本は、平均でも150日を超える。
 こうしたデータが示している事実は、日本以外の国においては社会の中で生活しながら恢復を目指すのが普通だけれど、日本では病院に閉じ込めておこうという考えが強いということ。家族が引き取りたくない、ケアができないという理由で隔離されている患者が、世界の水準から見ると異常に多いのだ。
 どうやら、精神病院に入れるのは、治すというより、厄介者を病院に押し付けて、病院経営者は安定的に利益を得るという構図になっているように感じられる。宇都宮病院事件http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E7%97%85%E9%99%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 のような酷い実態が明らかになって、さすがに露骨なことは少なくなっているようだけれども。
 子供を殺害した父親の事件の記事は、どちらかというと父親に対する同情の色合いが強かったが、私は、寝ている時に殺されてしまった息子が気の毒でならなかった。もちろん父親の苦悩も大きかっただろうし、冷静に考えられるような状況ではなかったのかもしれないが、それでも、その父親に家族の運命を狂わせていると思われていた息子は、寝ている間に片付けられてしまったのだ。
 「自分がそういう状況になってみなければ偉そうなことは言えない」というのは正論だが、自分がそういう状況になった時に、息子が寝ている間に殺すということがあっていい筈はなく、だから、たとえ自分がそういう状況になったとしても、そうならないような心構えというものはどんなものか真剣に考えておくことは必要だと思う。
 息子を殺したこの真面目な父親は、息子を精神科病院に入れることを強く望み、それができるように病院や警察に必死に働きかけていた。おそらく、そんな父親の心の内は、息子にも伝わっていたのではないかと想像する。
 人間の真面目さには二種類あるのではないかと思う。
 一つは、自分が管理しようと思えば管理できることに対して、真面目な人。
 もう一つは、自分が管理できないことに対して、真面目な人。これは真面目というより、謙虚とか誠実と言った方がいいかもしれない。
 前者の真面目さは、平常時にはいいが、自分が管理できない非常時に、事実を自分の都合の良いように曲げてでも管理しようとするなど、人間としての矛盾が出る可能性がある。
 後者の真面目さは、自分が管理できないことに対して日頃からどうあるべきかを意識しているという真面目さなので、自分の理解や計画の範疇を超えるものに対して、素直に受け入れる諦観の境地でいられる可能性がある。
 紀さんが撮った写真からは、そういう素直さが強く伝わってきた。それは、その場所に身を投じている紀さんの素直さであり、森の中の精神科病院で恢復に向かって生きている人々の素直さであり、そういう環境を作り上げている人達の素直さであり、その素直さは、波紋のように人から人へと伝染する。

(管理の真面目さも、同様に、人から人へと伝染する。管理者というのは、その場所に身を投じるのではなく、予期せぬ出来事に自分が巻き込まれないように外部に立って、客観的に管理しようとするのだ。予期せぬ出来事を恐れるあまり、必要以上にナーバスになり、管理を厳しくするという行動につながってしまう。そうした行動が、いのちを委縮させ、色々な関係がどんどん歪になり、負のスパイラルを生む。)
 紀さんの写真を見た瞬間、次号の風の旅人のテーマ、「いのちの文(あや)」の核になると感じたのは、彼の写真から伝わってくる素直さの波紋こそが、自分の管理の及ばない逆境や非常時において、最大の力だと直観したからだ。
 なぜなら、いざという時には、自分の計算よりも、自分が管理できないもの、自分の想像を超えたもの、自分にとって役に立つかどうかわからないもの、まさに”あやしいもの”が自分を救ってくれることが多く、そういう救いは、自分が素直になっていないと、うまく巡り会わない。
 自分には理解できないものや計算できないもの、計画や予定を損なうものをノイズだと思ってしまう”管理者”は、状況を転換する助けの予兆さえもノイズと受けとめてしまう。

 管理者とは、決して、企業の重役やお役所の人間とは限らない。
 大学生の異常な就職戦線にも現われているように、日本の現代社会に生きる我々の多くは、人生をコントロールできる安全なものにしようとする傾向がある。
 そして、自分の思うようにいかないものを敬遠したり、排除したり、無関係を装う。気の合う者とだけ共同体を作り、それ以外はノイズとして遮断しようとするのも管理者の特徴なのだ。管理者の特徴を持った人が多い社会だから、社会的成功は、組織の管理職であったり、お金があれば何でも自由にできると考えられている大金持ちであったり、人に命令されずに仕事ができると考えられている人気アーティストや、ステイタスのある専門職だったりする。
 そういう”成功像”に強く縛られしまうと、自分の息子の心の病気など、自分の成功を邪魔するものは耐えられないノイズになり、何とかそのノイズを除去しようと必死になり、その必死さが、ますます自分を袋小路に追い込んでしまう。
 管理の人生に行き詰まってしまう極限状況においては、頑固頭でノイズを除去することばかりを考えるのではなく、自分の方が居場所を変えてしまう”軽み”があってもいいだろう。 
 職場を棄てて、親も子も世間の夾雑物をいったん脱ぎ捨てて、たとえば一緒に世界を放浪し、人と出会い、困難と遭遇し、それを切り抜ける喜びをともに知り、時には挫折にうちのめされ、傷つくこともあり、もしかしたら死んでしまうかもしれないけれど人は誰でも死ぬのだからと諦め、そうした素直な心になった時に初めて見えてくるものを見届けるという選択肢が、極限状況において、あっていい筈だと思う。
 目の前にある理解不能なものを懸命に排除しようと頑張るのではなく、自分の方から脇にそれてしまえば、自分が必死に守ろうとしているものが取るに足らないものであるとわかったり、排除しようとしたものが輝いて見えたりすることが、きっとあるのだろうと思う。

 

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