第885回 居場所

 川崎で中学一年生が殺害された事件は、同じ年頃の子供を持つ親でなくても、他人事として考えられない何かがある。

 友人関係者や顔見知りの人だけでなく、少年の死を悼んで、遠方から大勢の人達が現場にやってきて、中には涙を流しながら献花をしている人もいる。そして、殺害を認めているのが18歳の少年で、あまりにも残虐な事件に胸を痛める人達は、犯人が少年法で裁かれるのは納得いかないと言う。

 近年、残虐性を増す少年犯罪、不登校、引きこもり、そして家族をはじめ周りの大人達が子供達の異変に気づくことができないこと。また、今回の事件のように、母子家庭などで周りの助けを得られず、一人で子供の問題を抱え込まなければならないケースの増加。

 何かとてつもなく社会が窮屈で、閉鎖的で、かつ分裂状態になっていて生きづらく、一歩間違えば自分も、自分の子供も同じ運命になる可能性があるという危機感を多くの人が抱いている。事件になるのは氷山の一角で、水面下には巨大な問題の氷塊が沈んでいると。

 最近、私は、全国から引きこもりや不登校や暴力その他の行為で中学校や高校を退学した子供達が、もう一度一から色々なことを学んでいくために通っている北海道の高校、北星学園余市高等学校を取材して『居場所」という一冊の本を作った。

http://www.kazetabi.jp/%E5%B1%85%E5%A0%B4%E6%89%80-%E7%89%B9%E5%88%A5%E8%B2%A9%E5%A3%B2/

 この高校を卒業して今は社会人として働いている人、大学生になっている人など、大阪、京都、東京、札幌で、16名の声を聞いた。

 そして彼らが、自らの過去を振り返り、まとめた文章を編集させていただいた。さらに現在の姿を、写真家の鬼海弘雄さんに撮影してもらった。

 鬼海弘雄さんは、国際的にも名の通った写真家だが、それはともかく、多くの写真家に尊敬されている写真家である。写真家に限らず、他の表現分野にも一目置かれている写真界では貴重な存在である。なぜかというと、世間の流行や評価に流されず、自分の軸をぶらさず、自分が大事だと思うことを妥協せずに表現し続けているからである。

 鬼海さんは、世間の評判ばかり気にして自己顕示欲が強い自称アーティストが多い現代社会の中で、世間の移り気な評判よりも、自分が死んだ後にも残るきちんとした仕事をしたいと考えている真の意味での芸術家なのである。

 その鬼海さんに、この学校の取材を相談したところ、「悩んでいる人にも、悩んでいない人にも、大切なことだから」という理由で即答で引き受けてくれた。

 中学校や高校の時に、不良というレッテルを貼られ、荒れまくっていたという少年や、ずっと引きこもりだったという少女と会う前は、いったいどんな風なんだろうとドキドキしたが、会ってみると、好青年で、表情もよく、相手を不快にさせない社交性も持っていて、清々しい印象を持つことが多かった。

 ニュースなどで、周りからは真面目だと思われていた人がまさかあんなことを、あの人がそんなことをするなんて意外だ、というコメントがよく紹介されるが、それと同じということではない。

 私が会った彼らは、北海道の雪深いところで親元を離れて暮らしながら、教師や寮のおじさんやおばさんを通して生まれ変わったのだ。たった三年で、それまでの自分とまったく違う自分になったということが、彼らが書いた手記を読んでもわかる。

 しかし、それと同じように、ちょっとしたことで、まったく逆の方に変わってしまう可能性もあるということだ。彼らに限らず、どんな人間でも、スパイラルがどちらの方向に向いていくかは紙一重なんだと思う。

 とりわけ少年や少女を良くも悪くも大きく変えてしまうのは、周りの大人だ。私が出会った彼らもまた、少年時代、色々な大人との関係があった。彼らは、大人達に対して恨み言を言っているわけではないが、大人の言動が、彼らの心を蝕んでしまった原因の一つであることは伝わってくる。

 子供達に対する大人の責任は重大だ。だからといって、子供達に至れり尽くせりする必要があるなどと言っているのではない。

 色々な責任の果たし方があるだろう。しかし、何らかの形で崖っぷちに追いやられてしまった少年少女に対する大人の責任は、正しい答えの強要ではなく、相手に対してどれだけ真剣になれるかということに尽きると思う。

 もちろん誰しもそれなりに努力はしている。しかし、そうした努力というのは、自分のポジションを守りながらできることをするという程度のことだ。真剣というのは、相手と差し違える覚悟を持つこと。いざとなれば自分のポジションを捨て去る覚悟を伴っているということだ。瀬戸際での大人の責任というのは、そういう覚悟と、覚悟があるからこそ生まれる気迫を、子供に見せることではないだろうか。

 北星学園余市高等学校の先生には、他の学校で文部科学省とか教育委員会の指導のもと教師として働きながら、自分の思い描いていた教師像はこういうものではないと考え、わざわざ北海道までやってきた人や、不良少年だった自分を生まれ変わらせてくれたこの学校の教師となって、かつての自分と同じような境遇の子供達を救いたいと考えている人もいる。そういう人達は、覚悟と気迫と情が、全身に漲っていて、まさに体当たりで子供達と接している。真剣にぶつかり、衝突し合い、真剣に語り合い、時には涙を流すのだ。またそういう先生ばかりだから、他の学校にいた時のように、”浮いてしまう”こともない。

 崖っぷちにいる子供達に対して、大人が、社会的な装いで取り繕っていたのでは話にならない。捨て身になれる大人がどれだけいるか。そういう濃密な場がどれだけあるか。

 人生というのは、本当に大事なものの為には、社会的に取り繕っているものを捨て去っていいのだということを、大人が子供に少しでも感じさせてあげられれば、崖っぷちの子供はどれだけ救われるか。

 多くの子供は、本当に大事なことの為に崖っぷちに追いやられているのではなく、大人社会が表面的に取り繕っているものの為に身動き取れない状態となり、じわじわと崖に追いやられ、さらに大人が子供の為と言いながらかけてくる言葉や態度も、ほとんどが、社会的に取り繕ったものを強化するものばかりなのだ。

 大人は、責任という言葉をよく使うが、それが管理責任という意味なら大間違いではないか。

 一時のつまづきや、まわり道などは、人生においてちっぽけなものだということを、身を持って示すこと。それもまた大人の責任だと思う。なぜなら、そういう大人の態度こそが、子供達から将来に対する神経質な不安を取り除けるからだ。ちょっとしたつまづきが取り返しのつかない失態であるかのように子供達を追い込んでいくと、子供達は、逃げ場がなくなり、自暴自棄になるしかなく、こんな世の中なんて滅んでしまった方がマシだと思うこともあるだろう。(私も若い頃はそう思った。)

 萎縮した小心な大人が、管理を口にすればするほど、子供からすれば学校だけでなく人生全体が窮屈でつまらなく感じられ、真剣に生きるほどの価値を見いだせなくなる。

 一人でも多くの大人が、人生とは真剣に生きるに値するものだと身をもって示すこと。子供達の健やかさは、その延長線上にしかないと思う。

 川崎の中一殺害事件の後、心がズシリと重くて、ずっと体調がすぐれないという人がけっこういる。4年前の東北大震災の時のように、遠く離れたところに住んでいても、この事件が、何らかの形で自分の人生を変えていくような気がしている人が多いと思う。
 東北大震災の時は、震災をきっかけに仕事を変えたり、生き方を変えた人が多くいた。しかし、同時に、それまでの自分のポジションへの執着が強くなった人も多くいた。そういう人達は、ルールの厳格化、一致団結といった強い言葉を発する。それは、得体の知れない何かによって自分が脅かされる不安が膨らみ、自己防衛の意識が強くなるからではないだろうか。
 でも本当は、そうした自己防衛の過剰が、ますます社会を息苦しいものにして歪めていく。
 大事なことはむしろ逆で、自己防衛意識を緩めて、これまで自分達がやってきたことを見直して、できることから少しずつやり直していくこと。子供達をどうするかと言う前に、自分の人生を何とかすることが、大人の責任として残されている。

 

C45164002_2(編集・監修/佐伯剛 撮影/鬼海弘雄

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