第1071回 鬼海弘雄 最新写真集 SHANTI persona in india

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https://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/shanti/


 スマホで、色調その他色々と調整ができて、手軽に撮影ができる時代、プロとアマチュアの差がほとんどわからなくなった時代。もはや、「いい写真だね」という言葉は、褒め言葉でもなんでもなくて、ただの挨拶言葉。

 そして、たまたまその場にいたことで面白いシーンが撮れたという素人写真を集めればそれなりに楽しめたり、特定の特徴のある人を記録すればユニークなものになるという被写体に寄りかかっただけの映像体験が満ち溢れており、写真そのものに感心しきり、という写真に出会うことは稀になった。

 そうした写真風潮のなかで、鬼海弘雄さんの新写真集「SHANTI」は、写真そのものの力を再認識させてくれる貴重な写真集である。

 そして、この写真集は、真剣に写真表現と向き合い、その表現力の向上を真摯に目ざしている人にとっては、最高のテキストとなるだろう。

 この写真集の主役は、子供達だ。写真を見続けていくと、まずは、子供達の目の輝き、力強さ、美しさに惹きつけられる。同時に、彼らの表情、仕草、振る舞い、姿勢、活動の豊さに、惚れ惚れとする。さらに、その子供達の背景の多様な展開に惹き込まれる。海や山など自然風景、街並み、田園、生活現場、動物たちなど、子供達が生きている環境が、一眼でわかるだけでなく、その光景が、なんとも懐かしく、美しく、神々しく、魅了される。

 一枚の写真の中に、これだけ多彩で豊かな光景と活動と物語をこめられるなんて、本当に素晴らしい。

 しかも、鬼海さんの絶妙なる立ち位置によって、画面の中の様々な出来が、実に見事に連関を成しており、そこに生じるリズムやハーモニーに、うっとりさせられ、唸らされる。

 どの写真も、主役の子供たちの有り様に感心しているだけで終わらず、画面の隅々まで見逃せない。ほんの僅かなスペースにも、驚くべき瞬間、愉快であったり、痛快であったり、惚れ惚れとするものであったり、この世界の奇跡の一瞬が焼き付けられているのだ。とくに広角レンズで遠景を撮った写真。人間の営みの多様極まりない曼荼羅世界というか神話世界が、たった一枚の写真の中に写り込んだ写真が何枚もあり、こういう世界表現は、唯一無二のものだと思う。

 

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 鬼海さんの写真は、その一枚ずつの中に世界の様々なエッセンスがこめられており、そして一切のごまかしがない。デジタルカメラで何枚もシャッターを切っていたら、たまたま子供のいい表情が撮れたとか、絶好のタイミングで面白いものが写っていた、という昨今の写真術の典型とは、かけ離れている。

 それにしても、一瞬のシャッター時間のなかに、よくもこれだけ多彩な物語を、同時に詰め込めるものだと感心する。これは本当にすごいとしか言いようがない。

 こういう写真は、誰にでも簡単に撮れるものではない。観察力や洞察力、先を読む力が必要だし、その瞬間を逃さない瞬発力も必要だ。何よりも、気の遠くなるような忍耐力がなければ不可能だ。

 おそらく鬼海さんは、シャッターを切ることもなく、インドの雑踏や荒野を何日も歩き続けて、シャッターを押すべき瞬間に出会えればいいという覚悟で歩き続けたのだろう。しかも、様々な奇跡が重なり合う瞬間というのは、おそらく一度限りのものなので、何度もシャッターを切って、その中で出来のいいものを選ぶというやり方は通用しない。

 鬼海さんは、リュックを背負って放浪といえるような長いインドへの旅を20回も繰り返して、さまよい歩いた。

 写真は滅多に写らないことを知ってから写真家になったので歩き続けることができたんだよと、鬼海さんは呟く。

 こういう写真は、写真家のなかでも、自分の状態にあぐらをかいて向上心を失っている人は見たくない写真だろうし、そうでない人は、写真のインフレ状態のなかで写真の持つ可能性を再発見させてくれるものとして、希望になるだろうと思う。

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 この写真集は、世間に氾濫している可愛い子供の本とは、まるで別ものである。

 そして、この写真集は、インドという限られた国のドキュメントでもない。

 写っている子供達を可愛いとか可哀想だとか客観的に見る感覚ではなく、写真の中で駆け回る子供達を目にするたびに、その子供達の中に自分が紛れ込んでいるような錯覚を覚える。

  海があり、山があり、川があり、街の雑踏があり、田園があり、雨の日も晴れの日もある。

 笑いがあり、涙があり、何かを訴えたいような口元もあれば、警戒している目もあるし、戯れる手足があれば、仕事に没頭する肉体もある。

 すべてが、リアルな生であり、そのリアルな生の傍らにはリアルな死があることを、体験を通して、写真の中の子供達は知っているし、写真を見る私たちにも伝わってくる。

 そして、人間の仕合せを、ニュースを通して客観的に分析するのではなく、生身の人間の1人として、この時間を生きている1人として、写真の中の子供たちは直に感じているし、写真を見る私たちにも伝わってくる。

 この写真集の中には、死体も、ゴミもある。清と濁、生と死、全てが隣り合わせなのだけれど、綺麗なものと汚いものと分別することはできず、全体として美しい。

 ほとんどの子供達は、裸足で大地をしっかりと踏みしめており、粗末な衣服を身につけているだけなのに可憐で美しい。貧しいとか豊かであるという分別も受け付けない。

 着飾る必要がない美しさ。美というのは、偽や仮の反対語であり、その意味は、真に近い。真というのは、ごまかしがないということ。

  私たちが生きるこの100年は、人類史の例外中の例外であり、それ以前の何百年、何千年と、人間の暮らしぶりは、この写真集の中の世界のように、どこの地域を訪れても大した差異がなく、ずっと変わらなかった。長く続けてこられたのは、人間本来の在り方が、そういうものだったからだろう。

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 この100年、人間は、なんと多くの仮のもの、偽りのものに自らの仕合せを重ねて夢見てきたことか。生のリアリティが、どんどん遠ざかるばかりなのに。

 もう元に戻れないとは思わない。

 この大量消費の時代は、人類史の例外中の例外であり、人類が積み重ねてきたリアルな生の連続過程ではないのだから。

 数年前にもてはやされた流行のものが、すっかり忘れさられているように、この時代そのものも消費されて、懐かしいという感慨もなく、忘れ去られる。

 そして、残り続けるものは何か?

 時間と場所を超えて、受け継がれていくものは何か?

 鬼海さんの写真の一枚一枚と向き合い、それらの写真の時空に導かれ、入り込んで、子供達が裸足で感じ取っている大地の感触を感じ、水や風の揺れを肌で受け止め、木の温かさや岩の冷たさを想像し、あらゆる自然と交流し、世代を超えた様々な人々の混ざり合いの中から無限のメッセージを受け取る。その時間のなかで、世界の多様さ、豊かさと、人間本来の美しさというものを、心から実感できる。

 鬼海弘雄という孤高の写真家は、写真に真摯に取り組んでいる人から、もっとも尊敬されている写真家の1人である。

 この稀有なる写真家の仕事を通して、誰にでも手軽に写真が撮れる時代だからこそ、写真が、他の芸術表現にはできない写真だけの奇跡を引き起こせる表現であることを改めて感じられることに感謝したい。

 

鬼海弘雄さんが、生きた東京の街を40年間にわたり撮影し続けた集大成「Tokyo View」も、まだ在庫が残っています。

 この写真集は、インドの写真と違って人間の姿は一切写っていません。にもかかわらず、そしてだからこそ、人間の気配が濃密に漂っています。

 写真を見る人が、今そこに生きている人間、そしてこれまで生きてきた人間を、写真の像から呼び覚ます、そんな写真集です。

https://kazesaeki.wixsite.com/tokyoview

 

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✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world