さて、前回の記事で、日本で最初の本格的な都市計画に沿って作られた藤原京の位置関係について言及した。
藤原京の建設は、第40代天武天皇による律令国家の成立と重なっており、その位置も含めて、日本という国を一つにまとめるための象徴的な意味合いを備えていた。
そして、それほどまでにして建造された巨大な藤原京が捨てられ、710年に奈良の平城京に遷都したものの、天武天皇以降、男性の天皇および天皇候補者として唯一、長生きができた聖武天皇は、740年から5年間にわたって次々と遷都を繰り返した。
そして、母が百済系渡来人で出自が低かったため皇族としてではなく官僚として生きることが期待されていた桓武天皇が、781年、陰惨な政争を経て即位することとなり、784年に長岡京に遷都。しかし、遷都の責任者であった藤原種継(母親が秦氏)が暗殺され、その首謀者として有力氏族であった大伴氏や佐伯氏とともに桓武天皇と父母が同じ早良親王にも疑いの目が向けられ、早良親王は無実を訴えて絶食し、憤死した。その後、長岡京に不吉なことが重なり、祟りを恐れた桓武天皇は、794年、京都の平安京に遷都することになる。
こうした流れを見ると、694年に藤原京に遷都(その後の研究により、壬申の乱で天武天皇が勝利した4年後、676年に、藤原京の建設が開始されていたと考えられている)から平安京への遷都までの100年は、日本が一つの国にまとまるために、幾つもの困難な障害があったことが伺える。
そして、平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波京、長岡京は、新しく開発された場所ではなく、もっと古い時代から重要視されていた場所だった。
奈良の平城京は、4世紀末から5世紀前半にかけて築かれた佐紀盾列古墳群のすぐ近くで、そこには200メートル超す巨大古墳が4基みられ、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高いと考えられている。
また、恭仁京は、かつては卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡が33面出土した椿井大塚山古墳(3世紀末の造営)がある場所である。
そして紫香楽宮の背後には、近江の大峰山とも言われる修験の山、飯道山がある。戦国期には甲賀忍者の修行の場でもあったこの山は、全山が花崗岩からなり、山の頂きは二峰になっており、第一峰の頂き付近には山岳寺院群が築かれ、第2峰の頂きは、巨岩、奇石が屹立し、古代からの磐座信仰の形跡がある。そして、この山の北から東にかけての山麓には、渡来系の古墳が多数存在している。
難波京は、第40代天武天皇の時代も、大化の改新後の第36代孝徳天皇の時代も都が置かれていた。
長岡京は、角のように平地に突き出した向日山を取り囲むように右京と左京に分かれているが、向日山の上には弥生遺跡と、3世紀後半に築造された前方後方墳の元稲荷古墳がある。この古墳から、京都の桂川の西岸まで乙訓古墳群が連なっている。
さらに、それらの場所は、日本の古代における重要な聖域とも一本の線で結ばれていた。
たとえば、奈良の北部と大阪湾をつなぐ木津川のほとりに築かれた恭仁京は、上に述べたように3世紀末の歴史を知るうえで重要な鍵を握る椿井大塚山古墳のあった場所だが、この場所の真北(東経135.84)には比叡山の延暦寺、真南の天理市では、奈良県では最大規模の弥生後期の高地性遺跡があり、その場所に、和邇氏の拠点と考えられている東大寺山古墳(4世紀後半)が建造されている。
さらに、日本最大の前方後方墳の西山古墳(4世紀)や、三角神縁神獣鏡が33面も出土した天理市柳本の黒塚古墳(4世紀初頭)、三輪山の麓の卑弥呼の墓と騒がれたこともある巨大古墳の箸墓古墳(3世紀末から4世紀前半)までが同じライン上に位置している。
恭仁京のポジションは、弥生時代から古墳時代前期(AD4世紀後半くらいまで)というかなり古い時期の需要な聖域が多く並ぶライン上にあるのだ。
そして、この南北のライン上、吉野の地に、天河大辨財天社(日本三大厳島)がある。
天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役小角によるものだと考えられているが、空海が高野山の開山に先立って大峯山で修行し、その最大の行場が天河大辨財天社であった。
この天河大辨財天社と、高野山の奥の院にある空海廟、紀ノ川下流の日前神宮、そして空海が生まれ育った讃岐の善通寺が同緯度(34.22)なのである。
そしてなぜか、天河大辨財天社の真北にある恭仁京の真西の方向に、空海の伝説に彩られた交野の星田妙見宮や、さらにその西の兵庫県西宮に空海が創建した門戸厄神東光寺があり、北緯34.76で同緯度なのだ。
さらに興味深いのが、恭仁京と同経度の天理の黒塚古墳の真東の笠山荒神は、日本三大荒神の一つで空海も高野山を開山する前に祈願を行った場所であるが、この北緯34.56のラインには、応神天皇綾や仁徳天皇綾など、日本を代表する古墳がある。
そして、応神天皇綾が、高野山の空海廟と同経度(135.60)で、南北ライン上にあり、高野山の奥社で日本三大荒神の一つである立里荒神の祭神が、火雷神と応神天皇なのだ。なぜか、高野山と応神天皇に深い関係性が見られる。
ちなみに、日本三大荒神のもう一つ清荒神は宝塚にあるが、この場所は、空海が創建した西宮の門戸厄神東光寺の真北(東経135.35)である。
そして、紫香楽宮においては、その背後に近江の大峰山とも言われる修験の山、飯道山があり、その麓に渡来系の古墳が集中しているが、さらにその真北が、近江の鏡山である。鏡山の麓には渡来系の神で応神天皇の母親の神功皇后の母方の先祖にあたる天日槍を祀る鏡神社が位置している。このあたりは、大量に銅鐸が出土した場所で、その中に日本最大の銅鐸が含まれている。
また、鏡山の横にそびえる三上山は、近江富士と称され、鍛治の神、天乃御影神が降臨した場所とされる。
そして鏡神社のすぐ北には、古代鍛治関係の氏族である菅田氏が祀る菅田神社があり、その真北が敦賀の気比神宮となる。
「古事記」の中で、第15代応神天皇が、竹内宿禰に連れられて気比神宮を訪れ、気比神宮の祭神イザサワケと名前の交換を行ったとされており、気比神宮は、応神天皇や、その母の神功皇后、そして天日槍との関係が指摘されている。
このように、気比神宮、鏡山、紫香楽宮と、東経136.07度にも、古代史における重要何かが重なっている。
そして、紫香楽宮の背後の飯道山と、長岡京の背後の向日山が、東西のライン上なのだ。(北緯34.94)。
空海は、「もし、厳島神社と気比神宮に何かのことがあれば、高野山の私財を投げうってでも、社殿の復興に尽くさねばならない」と遺言した。
この場合、厳島というのは、空海が高野山の開山の前の最大の行場だった吉野の天河大辨財天社だと考えられ、福井の気比神宮は、空海が唐に渡る前に訪れ、航海の安全を祈るためが祭壇を設けて7日7夜の祈祷を行った場所である。
そのように、気比も厳島も、空海個人とも関係が深い場所ということになるが、それぞれの聖域が、上に述べたように古代の重要な聖域と南北や東西のラインで結ばれ、聖武天皇が行った遷都の恭仁京や紫香楽宮もまた、そのラインに添っているとなると、そこには何か深い意味が隠されているように思える。
空海と聖武天皇に共通していることが一つある。ともに陰惨なる氏族間の抗争が繰り広げられた時代を生きた人物であり、強く平和を志向していたということだ。聖武天皇は、遷都の途中から仏教に深く傾倒していく。空海は、第52代嵯峨天皇の信頼が厚かったが、嵯峨天皇は大胆な軍縮を行い、その後、日本は、平安の名のとおり、日本史上もっとも長く平和が続く時代となるのである。
話をまとめると、紫香楽宮の真北の気比神宮および鏡山のラインは、天日槍など渡来系や鍛治関係の氏族、大量の銅鐸、応神天皇(5世紀前半)などと深い関係がある。
そして、恭仁京の真南の天河大辨財天社(厳島)までのラインは、箸墓古墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳など、古墳時代初期(紀元3世紀中旬〜)の代表的な古墳や、和邇氏の拠点であった東大寺山古墳(4世紀後半)など、応神天皇よりも古い時代の聖域と関係の濃いラインである。
厳島神社の宗像三女神は、宗方氏が祀る神だが、宗方氏というのは、胸に入れ墨をしていた海人であり、『新撰姓氏録』では、宗像氏も、和邇氏も、吾田片隅命を祖とし、応神天皇よりも早い段階で、大和の地に影響を持っていた氏族である。
※『新撰姓氏録』というのは、空海が活躍していた815年、嵯峨天皇の命によって、京および畿内に住む1182氏を、その出自により分類して、その祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来や分岐の様子などを記述したもので、神武天皇以降に天皇家から分かれた皇別氏族、神武天皇以前の神別氏族(天神、天孫、地祇)、渡来系の「諸蕃」などに分けられている。
すなわち、空海の遺言にある気比と厳島というのは、どうやら日本古代の二つの時代において中心的な役割を果たした勢力のことを指しているように思われる。
その和合こそが、古代日本における平安の重要な鍵であり、後の時代においても、その和合の方法が、象徴的な形で伝えられていったのではないだろうか。
古事記など日本の神話においては、国譲りのオオクニヌシと三穂津姫、天孫降臨のニニギとコノハナサクヤヒメ、そして東征の神武天皇とヒメタタライスズヒメは、後からやってきた者と、それ以前にいた者が、婚姻という形をとって和合するのである。
すなわち、後代の日本人は、その和合によって生まれたものの子孫ということになる。
✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world