第1227回 奈良時代のパンデミックと、衆生救済の思想

f:id:kazetabi:20220331104759j:plain宝山寺の背後の岩壁にある般若窟は、捕らえた前鬼・後鬼を閉じ込めて改心させた場所だという。

 生駒山は、修験の祖、役小角ゆかりの地。7世紀の中ごろ、山中に鬼が住み良民を苦しめていた。これを役小角(えんのおづぬ)が捕らえて改心させ、その後は、役小角の家来となった。

 宝山寺の背後に聳える火成岩の岩壁にある般若窟は、捕らえた前鬼・後鬼を閉じ込めて改心させた場所だという。

 一般的に、この鬼たちは、後の修験者たちで、奈良時代前半に行基の活動を支えた。役小角行基は、空海ほど有名ではないが、後世の日本宗教にもっとも大きな影響を与えた人物だと思う。

 飛鳥時代後半の役小角奈良時代行基、そして平安時代初期の空海、この3人の宗教家の特徴は、宗教活動と社会活動が一体化していることだ。

 さらに、この3人には特殊な神通力があったようで、数々の伝承が残されており、役小角行基は菩薩として崇められ、空海は、弘法大師として、ほとんど仏と同等に崇められている。

 最澄法然親鸞道元日蓮など、日本の歴史のなかには有名な高僧が何人もいるが、役小角行基空海は、伝説の彩られ方も含めて、別次元の存在である。

 それはいったい何故なんだろう?

 もちろん、この3人は他の僧侶に比べて時代が古く、明確な記録が残っていないことが伝説化の大きな要因になっているが、他の僧侶が仏教という枠組みの中の偉大な僧侶であるのに対して、役小角行基空海は、仏教という枠組みにおさまりきらない。

 神々と仏が渾然と溶け合った日本独自の神仏習合の宗教ビジョンは、この3人によって打ち立てられ、それが、明治維新廃仏毀釈まで続く日本の宗教のメインストリームとなった。

 なので、明治以降に区別された神社と寺を見ているだけでは、日本の宗教のリアルが伝わってこない。

 この3人の共通点は、山岳修行だ。やはり日本という国は、国土の60%以上が山であり、山々がタイムカプセルのように古代からの神々の世界を保存し続けている。

 そして、この3人は、山岳宗教のイメージばかり強くなっているが、実は水運との関わりも深い。

 空海は、讃岐の佐伯氏の出身で、幼名が佐伯真魚である。佐伯氏は、瀬戸内海の水上交通の要に拠点を置いていた古代氏族だ。

 役小角は、賀茂氏の出身で、京都の賀茂川源流の志明院から活動をはじめ、箕面や生駒、葛城、吉野に足跡を残すが、いずれも水上ネットワークの重要な場である。

 行基の場合、江戸時代に伊能忠敬が精密な日本地図を完成させるまえに使われていた行基図という地図があるように、全国的な足跡があるのだが、その行基図は、山城を中心にした水上ネットワークがもとになっている。

 そして、行基の墓がある平群の地は、竜田川大和川に合流するポイントであり、三輪山から伊勢、平城京、大阪を結ぶ水上交通の要だった。

f:id:kazetabi:20220331120639j:plain生駒山の東麓の竹林寺にある行基の墓。

 さらに、この3人の特徴は、当時の政権との関係が深いこと。禅などのように権力者によって保護された宗教や、浄土教のように政権によって危険視された宗教もあるが、役小角行基空海は、その神通力と組織動員力が、当時の政権によって頼りにされている。

 嵯峨天皇の時代、朝廷の空海に対する信頼は絶対的だったし、天武天皇の頃は役小角、そして、奈良時代聖武天皇の時代は、行基が、その力を求められた。

 行基の場合、その活動の初期段階においては朝廷の弾圧を受けた。その理由は、律令制というのは人頭税を基本としているから、人々が土地から離れるようなことがあっては困る。しかし、行基を崇敬する人々は行基集団となり、行基と一緒に行動し、各地に、橋を作ったり溜池をつくったりするなど様々な社会活動を行なっており、それは律令制の秩序を揺るがすものだった。

 朝廷の行基に対する対応に大きな変化が生じたのは、730年代後半の天然痘の大流行だった。この疫病によって、当時の人口の半分から3分の1が失われた。そして、740年、九州で藤原広嗣の乱が起きた。

 この乱は、九州に左遷された藤原広嗣の朝廷に対する不満が原因で起きたと説明されることが多いが、それは違う。

 なぜなら、この乱の鎮圧のため、東海道東山道山陰道山陽道南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じられており、左遷された一貴族が、赴任して間もない九州の地で、それほど大規模な反乱軍を組織化できるわけがない。

 しかも、藤原広嗣は、狼煙を合図に九州の兵を徴収しており、事前に細かく打ち合わせができていたということだ。

 普通に考えれば、この乱の背後の問題は明確であり、律令制を全国に広げていく過程の中で、九州において、律令制を受け入れられない勢力が多く残っていたということだろう。

 藤原広嗣は、その勢力を利用したのだ。

 学校教育などで、日本が唐にならって律令制を導入したなどと覚えさせられるが、公地公民政策というのは、それまで先祖代々守ってきた土地を朝廷に差し出して、それを借りるという制度であり、現代でいえば、ある日突然、共産主義社会になるということだ。

 そんなに簡単にすむことではないだろう。

 645年に乙巳の変があり、その時から紆余曲折を経て、少しずつ実現にこぎつけていたわけだが、奈良時代前期には隼人の反乱のように九州南部での抵抗が記録に残っているし、平安時代の始まりにおいては、坂野上田村麻呂の蝦夷征伐を行われている。

 701年に大宝律令が施行されてすぐ日本全土が律令社会になったわけではないことは明らかだ。

 ゆえに、740年の藤原広嗣の乱も、律令化の過程において発生した九州での大規模な抵抗だろうと思う。 

 興味深いのは、その時に、聖武天皇がとった行動だ。

 天然痘の猛威があり、九州での反乱があった740年、聖武天皇生駒山の麓の知識寺を訪れ、行基集団の人々が作りあげた僧院と盧舎那大仏に感激する。

 国家権力とは無関係の自由意志による信仰の力を思い知った聖武天皇は、この力こそが、厳しい局面にある国の運営に必要不可欠の力だと悟った。

 その後の聖武天皇の行動、伊賀から伊勢方面、近江方面への移動と、恭仁京への遷都などは古代史の謎だが、聖武天皇が辿ったルートは、壬申の乱の時の天武天皇と同じであることが、さらに謎を深めている。おそらく、この両天皇に付き従っていたのが、山岳の道と水上の道に通じる修験者たちだったのだろう。

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生駒山中、役行者が開いた寺で、行者の母親も入山修業したとされる千光寺

 聖武天皇は、彼らと行動をともにしながら、行基集団の力を借りて、東大寺の大仏造立のアイデアをまとめ、行基を、僧侶のトップの地位の大僧正に任命する。

 そして、聖武天皇は、東大寺の盧舎那大仏を作るにあたって、朝廷の権力によって民を酷使して作るのではなく、誰でも構わないから、たとえ1本の草、ひとにぎりの土でもこの事業に協力したいという者は無条件でそれを許すことを決め、その場合、事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。という内容の詔を出した。

 つまり、聖武天皇を中心とする律令政府は衆生救済のための大仏作りのために、人民が自分の土地を離れて参加することを許可したわけだが、行基にとっても、自分たちが弾圧されてきた活動を朝廷が公的に認めるということで、両者ともに望むところとなった。

 結果的に、のべ260万人が工事に関わったとされる東大寺盧舎那大仏は完成するが、その際において、おそらく行基たちのアイデアだろうが、八幡菩薩神によって大仏が守護されるという物語が創造される。

 九州のローカルな信仰だったヤハタ神(8世紀初頭、隼人の反乱を鎮圧した際に起きた殺戮後、その魂を鎮めるために始まった)が、藤原広嗣の乱の鎮圧と重ねられ、さらに大仏造立の支援をするという神託で人民を奮い立たせ、大仏完成の時、平群の地から神輿にのって平城京入りをする大セレモニーが演出され、人々の前に八幡菩薩神の存在が植えつけられた。

 現在の八幡神社には神功皇后応神天皇も祀られているが、この両神は、のちに新羅との関係が悪化し、八幡神が対新羅の国家守護神になる過程で三韓遠征の神功皇后伝承が重ねられたものであり、もともとあったものではない。

 いずれにしろ、現在、日本の神社のなかでもっとも多い八幡神社の歴史は、この時に始まった。

 日本書紀古事記に出てこない八幡神というのは、神道の神ではなく、八幡菩薩という名のとおり神仏習合の神であり、まさに、その後の日本の宗教ビジョンを象徴する神様となる。

 それはまさに、天然痘の大流行という奈良時代パンデミックから生まれた再生のビジョンの過程で創造された守護神だとも言える。

 この八幡神は、860年、平安京守護のために京都の石清水八幡宮に勧請されたが、木津川、桂川宇治川が合流するこの場所は、紀氏の領地であり、紀氏が、石清水八幡宮の歴代の神職世襲してきた。

 その後は、清和源氏が東北を鎮圧する際、八幡神を守護神とし、源頼朝が鎌倉の地に鶴岡八幡宮を築くのだが、初代から明治維新までの神職を大伴氏が世襲してきた。

 大伴氏は紀氏と同族であり、紀氏というのは、古代、瀬戸内海の海上ネットワークに関係していた有力氏族だ。その水軍力によって、各地の反乱を鎮圧し、朝鮮半島の戦いにも主力部隊として参戦している。

f:id:kazetabi:20220331155437j:plain平群の三里古墳。

 行基と縁の深い平群の地に、三里古墳があるが、すぐ近くに紀氏の祖神を祀る平群坐紀氏神社が鎮座する。三里古墳は、石室の中に石棚が設置されており、このタイプの古墳は、和歌山の紀ノ川下流にある総数800基という日本最大の群集墳である岩橋千塚古墳群に特徴的に見られ、それ以外では、瀬戸内海を取り巻く地域に集中的に存在している。いずれも6世紀中旬から7世紀中旬のもので、これらの地域を結ぶ海人ネットワークと関係があると考えられる。

 大仏造立と八幡神の創造のきっかけとなった藤原広嗣の乱が起きた時、紀飯麻呂が副将軍に任命されるなど、紀氏は、この乱の鎮圧に大きな役割を果たしているのだが、紀氏の祖は竹内宿禰という神功皇后三韓遠征の時の参謀である。しかも、八幡神が神輿に乗って東大寺入りを果たす出発点が紀氏の拠点である生駒山麓の平群なので、八幡神の創造の背後には、平群に墓がある行基とともに紀氏(大伴氏)も関わっており、それゆえ、宇佐八幡宮鶴岡八幡宮という日本を代表する八幡神社神職を、この氏が担い続けてきたのかもしれない。


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