第1096回 日本の古層vol.2   祟りの正体。時代の転換期と鬼(2)

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赤岩尾神社 祭神はカグツチ。柱状節理で知られる。平安中期、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼の4人の鬼ともに朝廷と戦った藤原千方は、 ここで必勝祈願をした。。

 日本の鬼伝説は、異なる時代にいくつかあるが、共通しているのは時代の転換期であることだ。

 桃太郎の説話ともつながる吉備の鬼退治は、第10代崇神天皇の時の四道将軍派遣の時であり、同じ時代に、京丹後でも日子坐王の鬼退治がある。

 それは、おおよそ4世紀中旬から後半で、大和朝廷の勢力が全国へと拡大していく時期と一致している。

 その次が、紀元600年頃、蘇我氏聖徳太子の時代で、聖徳太子の異母弟の麻呂子親王が、京丹後の鬼退治を行っている。この時代も歴史転換期で、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図られている。

 そして三つめが、紀元10世紀後半、酒呑童子と、その配下の茨木童子と四天王とされる四人の鬼が京丹後の大江山を拠点にしていたが、源頼光渡辺綱を筆頭とする頼光四天王によって征伐された。

 この10世紀というのもまた時代の転換期で、中央集権的な律令制が崩れていくなか、その流れを食い止めるために朝廷側の必死の防戦が繰り返されていた。

 三段階目の鬼退治の時期にどういうことがあったか、幾つもの記録が残っているので、ある程度、具体的に輪郭を描くことができる。

 9世紀後半から日本は天災が多く、記録に残る最大級の貞観の富士山の大噴火(864年)や、2011年の東北大震災がその再来と言われている貞観の大地震(869年)と大津波が起こった。

 全国的に疫病が流行し、京都では火災も頻発したため、それらの災いを鎮めるため、869年、祇園祭の起源とされる御霊会が行われた。

 当時の人々は、疫病や災害は恨みを残して死んだ人たちが怨霊となって祟るためだと考え、それらの怨霊を丁寧に祀れば守り神に転じるという発想があった。御霊会とは、怨霊の鎮魂のための儀礼である。

 現在の新型コロナウィルスによるパンデミックもそうだが、人智を超えたものが人間に及ぼす不条理をどう受け止めるかというのは、今も昔も変わらない人間の普遍的な問題である。

 ともすれば自らの欲で傲慢になる人間が、自分が行っていることを謙虚に省みる一つの装置として、怨霊の鎮魂儀礼が創造されたと考えることもできる。

 今では学問の神として崇敬される菅原道眞も、そうした儀礼によって鎮められた怨霊である。道眞が政争に敗れて太宰府に流されて悶死(903)した後に、京都を中心に様々な災いが頻発し、947年、北野天満宮で神として祀られることになった。

 祟り神は、もちろん菅原道眞が元祖ではなく、古代から天災の多かった日本において繰り返し登場しているが、興味深いことに道眞もそうだが現代においても大切に祀られている。そして、日本人の無意識のなかに、祟りを恐れる=恨まれるようなことをすると罰があたる、という心理が根付いている。

 祟り神として、日本の歴史上もっとも古い段階のもので広く知られているのは、奈良県三輪山に祀られているオオモノヌシ(オオクニヌシの和魂)だ。第10代崇神天皇の治世において疫病など災いが頻発した時、出雲の国譲り神話で知られるこの神が、崇神天皇の夢の中で自分を手厚く祀れば災いは鎮まると告げ、それを機に、畏怖と崇敬の対象となった。

 まさに、この崇神天皇の治世において四道将軍による鬼退治の物語が残っているので、この時は時代の大きな転換期で、新旧の攻防があったということだろう。

 時代の転換期に鬼退治と祟りの物語が生じていることを踏まえると、なぜ、菅原道眞と天神様が結び付けられて畏怖の対象となっているかを想像することができる。

 現在、全国各地で菅原道眞が祀られている神社は天満宮だが、それらは天神信仰の場でもある。

 天神様というのは菅原道眞のことと、ごく普通に思われているが、天神の方が道眞よりも古い。天神というのは、火雷大神のことである。

 そして、火雷大神というのは、『古事記』の記述の中で、カグツチを産む時に、その火で女陰が焼かれて死んだイザナミの、頭、胸、腹、女陰、両手、両足の8箇所に生じていた雷神のことだ。

 その姿に恐れおののいたイザナギは黄泉の国から必死に逃げきり、地上に戻った後に穢れを落とすために、禊を行う。その時に様々な神が生まれたが、その最後が、アマテラスとツキヨミとスサノオという今日でも最も知られた神々で、イザナギは、アマテラスに高天原、ツキヨミに夜、スサノオに海の統治を託し、そこから新時代が始まるという設定である。

 崇神天皇の時のオオモノヌシの祟りよりも前の時代の物語において、火の神カグツチの誕生によって死んだイザナミの身体に菅原道眞と同一視されている天神(火雷神)が現れ、それを見たイザナギは恐れおののき、禊を行い、そこから新時代が始まったということだ。

 つまり、カグツチの登場とイザナミの死を、鬼退治や祟りの物語の起源とみなすことができる。

 カグツチは、火之迦具土神であり、単なる火ではなく、輝く火と土と一体となっているように、火の勢いを増すための土の装置ということになる。

 野焼きの火よりも高温の火、つまりそれは竃の火だ。竃の高温の火によって硬く高品質な焼き物や金属の道具(とりわけ質の高い鉄)を作り出すことができる。

 すなわち古代の技術革新、産業革命が起こり、この時代の転換期に祟りの原因となる事態も生じる。その祟り(穢れ)を鎮めるために禊(祓い)を行うことで、次の時代の段階に移行したのだ。

 現代の日本でも通過儀礼として行われる禊や祓いは、怨霊を鎮める御霊会と同根である。

 新しい時代は常に多くのものの犠牲の上に成り立ってきたのだという歴史認識が、鬼伝説や御霊会へと昇華され、さらに禊や祓いを通して、後の時代を生きる者たちに今あることの有り難みと畏れ多さを受け継いでいく。それは、日本人にとって、古来から続く信仰の核心である。

 さて、第10代崇神天皇の時の鬼退治、四道将軍に関して、岡山に派遣された吉備津彦命と丹後に派遣された日子坐王や、その息子の丹波道主命に関しては、この4月に発行したSacred World 日本の古層Vol.1で言及したのだけれど、あとの二人、大彦命と、その息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)に関しては、依然として謎が多い。

 大彦命は越前から日本海側を通って東に向かい、武渟川別は、東海道を通り、二人は会津あたりで落ち合ったという物語になっている。

 越前の鯖江には舟津神社という古社があり、大彦命を祀っている。鯖江は、古代遺跡の宝庫で、弥生時代だけでも100基の墳墓や環濠集落跡も発見されている。

 しかし、大彦命の墓と古くから伝えられているのは、三重県で最大の古墳、伊賀の御墓山古墳で、その近くに大彦命とスクナヒコを古代から祀っている伊賀一宮の敢國神社が鎮座する。

 

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伊賀の鍛冶屋の地の古代祭祀場。鍛冶屋というのは鉄づくりと関係している。伊賀の地は、古代、琵琶湖があったところで、その湖底に蓄積した粘土は花崗岩を多く含み、高温に耐えうる焼物を作るのに適していて、この地の陶器は中世の頃より伊賀焼きとして有名だが、その特別な土は、古代、上質な鉄器づくりおいても重要な役割を果たした。

 伊賀は忍者の里として知られているが、この地では、鬼に対して特別な思いがあるのか、節分においても「鬼は外」とは言わない。鬼は、人と神との橋渡しをする存在と考えられているからだ。

 また、伊賀には、九基のだんじりと百数十の鬼行列が城下町を練り歩く上野天神祭がある。これは菅原道眞を祀る菅原神社の秋祭りだが、この鬼行列は、大峯に入山する修験者の列のようすを再現したことが始まりであるといわれている。

 この菅原神社は、伊賀出身の松尾芭蕉が、俳に身を立てることを決意して、処女作『貝おほい』1巻を社前に奉納して自らの文運を祈願した場所としても知られている。

  また、菅原神社の南2kmほどのところに、伊賀四十九院の旧跡がある。

 行基聖武天皇の勅を奉じ諸国に四十九院を創建したが、その一院が、ここだとされる。

 弥勒菩薩を本尊とし、平安中頃から修験道者が兵法、武術、忍術を教える学塾となっていた。

 668年に河内の渡来人の子として生まれた行基は、15歳で出家し、飛鳥寺薬師寺で学んだ。そのあと、各地を遊歴し、階層を問わず布教につとめ、そのあいだに弟子を増やし、その数は1000人を超えたとされる。その行基集団は、各地に橋を造り,堤を築き、田を開墾し、道場 (僧尼院) を建てたが、道場は畿内にあるものだけでも 49ヵ所に及んだ (四十九院) 。

 しかし、当時の仏教は、国家鎮護の道具であるとともに仏教を通じて渡来文化を得ることが目的とされていて、一般の民衆への布教活動が禁じられていたために、行基の活動は弾圧を受ける。

 この朝廷からの迫害の時、行基を守ったのが修験道行者、役小角(634-701)の配下の山伏たちであったとされる。

  行基への弾圧は、奈良時代、717 年4月の詔で明確になる。「行基や弟子たちが巷でみだりに罪福を説き、家ごとに説教して歩き、施物を強要し、聖道と称して民衆を惑わしために民衆が生業を捨てて行基に従ったのでこれを禁止する。」というものであった。

 しかし、その後、災害や疫病(天然痘)が多発したため、740年には九州で藤原広継による大規模な反乱が起き、仏教に救いを求めた聖武天皇は、方針を転換する。聖武天皇は、僧侶の最高の位である大僧正の第1号として行基を任命し、奈良の東大寺および大仏造立の実質上の責任者とした。

 伊賀は忍者の里だが、忍者は修験道とつながっており、修験道は鬼とつながっている。ともに、社会の裏に隠れた存在で、時に弾圧の対象となるが、時代の転換期に重要な役割を果たしている。

 この伊賀において、今日まで伝えられる鬼退治の物語が、藤原千方のものだ。

   藤原千方は、伊賀の地に行基が築いた伊賀四十九院で、修験道者から兵法、武術、忍術を学び、その第一号の兵法習得者であったとされるが、もともとは京都の藤原氏の貴族だったという設定である。

 時は、10世紀後半、丹波では源頼光渡辺綱による鬼退治があった時である。

 農村を逃げ出した農民たちが盗賊や海賊になったりして治安は乱れた。

 940年前後、瀬戸内海の海賊退治に派遣された藤原純友が、逆に海賊の頭となって反乱を起こした。同じ時、関東で平将門の乱が起こるが、平将門の父も、東国の治安維持のために関東へと赴いていた。

 当時、困窮する農民の逃亡などが相次ぎ、律令制の基礎であった人頭税は成り立たなくなってきており、醍醐天皇の時の延喜の治で律令制への回帰が目指されたが失敗に終わり、次の朱雀天皇(在位930-946)から律令制支配は完全に放棄される。 

 朱雀天皇の治世では富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多く、菅原道眞の怨霊も恐れられた。

 朱雀天皇の時より班田収授は行われなくなり、税制は、人頭税ではなく土地に対する課税・支配を基調としたものになっていくが、そうすると、地方にいる国司、受領が、土地を計測し、税を管理するうえで権限を持つようになる。

 なかには、自らの利益のことだけを考える国司も出てくる。

 10世紀の混乱は、中央から地方に下って税を徴収する国司・受領と、地方で力を蓄えてきた豪族などの間の緊張関係の中で起きるが、この頃はまだ朝廷の権威が、かろうじて残っており、朝廷の追討軍が編成され、なんとか乱は鎮められる。 

 伊賀の鬼退治伝説も同じ時代背景から生まれている。

 平安時代、朝廷で権勢を誇った藤原一族の青年貴族だった藤原千方は、一族の繁栄だけを考えて推し進められる荘園制度などに異を唱えたことから、当時、横行していた盗賊たちの鎮圧の任務を与えられ、伊賀・奥伊勢の地へと派遣された。

 そして、伊賀四十九院修験道者たちから兵法を習得したとされる藤原千方には、摩訶不思議な術を会得した四人の鬼とされる荒法師(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の四鬼)が従っていた。

 もともと、藤原千方と、四鬼は、農民のために盗賊を退治し、山を切り開いて開墾を推し進め、村人からは千方将軍と敬われていた。

 しかし、苦労して開墾した土地に重い課税をして利益を貪る国司と朝廷の政道を批判したため、朝敵の汚名を着せられ、朝廷軍と戦うことになった。

 その時、藤原千方が籠城したとされるのが、木津川支流の前深瀬川を遡って10kmほどのところある岩城、千方窟だ。

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藤原千方窟

 この千方窟は、上に述べた福井県鯖江大彦命を祀る舟津神社の真南であり、秀麗な山容で伊賀富士という通称のある尼が岳の麓である、尼が岳は、大阪湾へ流れ込む淀川水系の木津川と伊勢湾へ流れ込む雲出川分水嶺となる山である。

 藤原千方窟の中にある風穴は、ここから約4㎞離れた名張市滝之原の赤岩尾神社の風穴に通じていて、戦時における抜け道であったとの説がある。

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赤岩尾神社

 この戦いにおいて、大軍で押し寄せる朝廷軍に対し、藤原千方と四鬼は、知略と秘術を用いて対抗し、善戦するが、討伐軍の将が詠んだ和歌、「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき」によって朝敵とされたことを嘆いた四鬼は退散して、藤原千方は滅ぼされたとされる。

 藤原千方が朝敵であったために歴史書では記録されておらず、史実かどうかわからない。

 鎌倉時代末から南北朝時代の混乱期に書かれた「太平記」の「日本朝敵事」では、天智天皇の時代となっているが、藤原千方は、平将門を討伐した藤原秀郷の孫と設定されているし、修験者の祖、役小角は、天智天皇の後の天武天皇の時代に活躍するので、時代背景が大きく違っている。

太平記」は、平家物語に比べて一貫性がなく、完成度が低いとされるが、そもそも、史実の伝達よりも、平和を祈願し、怨霊鎮魂的な意義を備えた物語だという指摘がある。

 いずれにしろ、朝廷との戦いのあった時点から村人に慕われていた千方は「将軍」として、そして、四鬼は「忍者の祖」であるとして、伊賀南部や奥伊勢地方において、今なお脈々と語り継がれている。

 フィクションというものは、作られたものだから正しくないということにはならない。

 ノンフィクション(事実の記録)にしても、どの立場から書くかによって、同じ出来事が違うものになってしまう。古代中国王朝と匈奴、古代ペルシャとスキタイなどの関係においても、文字で記録した中国やペルシャが強者となり正当化されているが、例えば、毎年のように中国から匈奴への献上品が届けられており、実際は逆だったのではないかという歴史的解釈もある。

 現在の歴史学実証主義が権威となっているが、一つの証拠による正しさは次の証拠の発見によって簡単に覆され、それまで間違ったことを教えられ、そう信じさせられていたということが、あまりにも多い。

 歴史において大事なことは、実証ではなく、長く人々の心の中に生き続けるものには人間が信頼するに値する何かがあるという真実だ。その意味で、神話も真実なのである。

 神話に描かれていることは史実として実証できないと否定する歴史学者は、歴史における真実がわかっていない。歴史は、試験の答え合わせではなく、過去から現在そして未来へと受け継がれていく人間精神の永遠の軌跡なのだから。

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縦のラインの北は、福井県鯖江市。弥生時代からの史跡が多く、四道将軍の一人、大彦命を祀る古社、舟津神社がある。その下は、白鳥伝説と知られる古代製鉄の地、余呉湖、一番南は、大彦命の墓とされる三重県最大の御墓山古墳や、大彦命を祀る伊賀一宮の敢國神社がある伊賀の地の鬼退治の舞台、藤原千方窟。斜めのラインの一番北は、大彦命を祀る豊岡の古社、佐々伎神社、その東南が酒呑童子の拠点の鬼ヶ城、その鬼ヶ城と伊賀の鬼退治の舞台である千方窟の真ん中が、源頼光酒呑童子の首を埋めたとされる老ノ坂(京都と亀岡の境)の首塚大明神である。

 

 

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www.kazetabi.jp