第1244回 多くの人は、耳を傾けないだろう話

京都市太秦 蛇塚古墳

 おそらく、多くの人は、耳を傾けないだろう話。

 しかし、多くの人が、自分には関係ないと思っていても、最後には自分と深く関係してくることがある。

 おとといから、長男が彼女と京都観光に来ており、いわゆる名所は既に行ったことがあるようなので、昨日、太秦周辺を案内した。

 日本でも有数の石室の規模を誇る蛇塚古墳とか、広隆寺とか。

 広隆寺弥勒菩薩の半跏思惟像は、日本国内でも特に人気の高い仏像の一つで、国宝彫刻の第一号として教科書にも取り上げられ、飛鳥時代を代表する彫刻として誰でも知っているものだ。もし、東京の国立博物館などで展示があれば、モナリザがやってきた時のように人出がすごいことになると思うが、なぜか広隆寺は、いつもひっそりとしており、いつ訪れても、半跏思惟像の前に座り込んで長時間、過ごしている人がいる。

 広隆寺の近くに帷子ノ辻がある。辻は、十字路のことだが、六道の辻のように冥界への入り口である場合が多い。

 帷子ノ辻もそうで、帷子(かたびら)は、ひとえの衣服で、人が亡くなって入棺する時に着せる死に装束でもある。

 太秦帷子ノ辻は、平安時代嵯峨天皇の皇后で絶世の美女だったとされる橘嘉智子が、「自分の死後は亡骸を埋葬せず、どこかの辻に捨てて鳥や獣の餌にして、その朽ち果てていく様子を絵にするように」と言い残し、実行された場所と伝わる。

 その皇后の遺体の朽ちていく様子を9つに分けて描いたとされる「九相図」が今に残っている。

 橘という名は、県犬養氏の改名であり、県犬養三千代が、藤原不比等の後妻で、聖武天皇の皇后となった光明子を産み、二人のあいだの子が女帝の孝謙天皇だ。

 さらに県犬養三千代藤原不比等と一緒になる前に産んだ娘、牟漏女王が、藤原北家の祖である藤原房前に嫁いで、その子孫が、藤原四家の中でもっとも栄えた藤原北家になった。

 孝謙天皇は結婚せず、世継ぎを生まなかったため、県犬養(橘)の血統は絶たれたが、その後、橘嘉智子が嫁いだ嵯峨天皇が、桓武天皇が亡くなった後の政変に勝利して即位し、二人の子が皇統を継ぎ、橘嘉智子の血縁である藤原北家が勢力を持つようになった。

 その後しばらくは、橘嘉智子の産んだ子や孫が皇位を継ぎ、藤原北家が朝廷内で権勢をふるう。

 古事記の編纂を含め、藤原氏の栄華を、藤原不比等の陰謀云々で説明する人が多いが、そんな単純なことではなく、県犬養(橘)氏が、大いに関わっている。

 この藤原氏の栄華に大きな陰を落としたのが、10世紀の菅原道眞の祟りだ。

 菅原道眞の祟りによって多くの有力藤原氏は勢力を失い、唯一繁栄したのが、菅原道眞と親しかった藤原忠平の子孫であり、この一族は、菅原道眞の祟りを利用し、さらに貴族に代わって勢力を増大させていった武家源氏とタッグを組み、貴族の時代の最後の輝きとなった。それが藤原道長だ。

 ゆえに、藤原道長の時代というのは、藤原貴族の絶頂のように思われているが、事実としては、道長と持ちつ持たれつの関係だった清和源氏の勢力拡大を許すことになり、貴族から武士の時代への転換を加速させることになった時代ということになる。

 この転換のきっかけの菅原道眞は、日本三大怨霊の一人であるが、彼を重用して政治改革を進めようとしたのが宇多天皇だった。

 宇多天皇は、もともとは源氏の身分であり、天皇になる予定ではなかったが、急遽、なんらかの政治的力が働いて天皇になった。その政治的力が何だったかを考えるためには、菅原道眞の怨霊騒ぎで何が起きたかを確認すればよく、結論から言えば、律令制の終焉だ。道眞の祟りを非常に恐れたのが宇多天皇の孫にあたる朱雀天皇の母であり、この時代を機に、律令制の根幹であった班田収授は行われなくなった。

 そして、宇多天皇の母親は、渡来人の東漢系当宗氏

(坂本氏系)の班子女王(はんしなかこじょおう)で、彼女の父が、桓武天皇の第12皇子、仲野親王で、彼が帷子ノ辻と関わってくる。

 当時、朝廷は財政難だから、第12皇子なんか養ってくれない。そのため、仲野親王は、財力のある渡来系氏族の後ろ盾が必要だったのではないかと思われる。そして12皇子という世継ぎから遠い人物を支援する側にも、当然、魂胆がある。

 仲野親王東漢氏系の女性のあいだに生まれた班子女王(はんしなかこじょおう)は、後の光孝天皇に嫁ぐことになった。

 光孝天皇は、天皇になる予定の人物ではなく、55歳までのんびりと生きていたが、陽成天皇が廃位されて急遽、天皇にされた。これは、光孝天皇天皇に相応しい人物であったからではなく、彼の息子の宇多天皇への道を作るためであり、光孝天皇は、その3年後に死んだ。

 このようにして、12番目の皇子である仲野親王を支援した東漢氏系の氏族は、宇多天皇の即位によって報われることになる。

 菅原道眞の重用と、その改革。旧勢力の抵抗と菅原道眞の九州への左遷、その後の道眞の祟り騒動、そして律令制の終焉と新勢力の台頭は、一連のものだ。

 もともと有名な坂上田村麻呂をはじめ、軍事勢力であった東漢氏(坂本氏)は、武士が台頭する時代、武士の中に組み込まれていった。初期清和源氏の武力部門は、東漢氏系の坂本氏が担っていた。

 後の時代、源義経をかくまった奥州藤原氏は、藤原秀郷の末裔とされているが、男系の系譜では東漢氏系の坂本氏である。名門の藤原の名を継ぎ、坂本は表に名前が出ないようにしたのだ。

 こうした後の時代の流れからも、宇多天皇と菅原道眞(怨霊騒ぎ)による改革で律令制が崩壊していった背景に、桓武天皇の12番目の皇子である仲野親王を支えた東漢氏系氏族がいたとしても不思議ではない。

 この仲野親王の古墳とされるものが、橘嘉智子が死んだ後に自分の遺体を放置せよと言い残して、それが実行された帷子ノ辻に築かれている垂箕山古墳とされる。

 皇室系の墓ということで、宮内庁が管理しているが、これが本当だとすると、橘嘉智子の遺体が放置された時期の前後に、この場所に古墳が築かれたことになるが、それはありえない。

 なぜなら、この古墳は巨大な前方後円墳で、桓武天皇も、その息子で皇位を継いだ嵯峨天皇を含め、円墳であるし、垂箕山古墳は、皇位を継いだ人物の墓よりも巨大だからだ。実際に、この古墳の建造は6世紀とされ、仲野親王よりも300年も古い。近くにある巨大な横穴式石室の蛇塚古墳と近い時代である。

 この古墳と仲野親王が結び付けられている理由は、おそらく、この垂箕山古墳がある帷子ノ辻が、仲野親王を支援した勢力(東漢氏系)の拠点であり、その勢力の中心人物の古墳が、6世紀に築かれていた。そして、その勢力が支援した仲野親王が、この古墳に合葬されたからかもしれない。

 しかし残念なことに、天皇の皇子の古墳だと宮内庁が決めてしまっているため、考古学的調査を実施して調べることができない。宮内庁が、歴史を止めてしまっている。

 ちなみに、近くの蛇塚古墳は、太秦周辺に秦氏の痕跡が多く残っているので、一般的には秦氏のものとされているが、それはたぶん違う。渡来系=秦氏というステレオタイプの発想が世の中には多いが、垂箕山古墳との位置関係から、東漢氏系のものではないかと思われる。秦氏系関係でこれほど巨大な石室を持つ古墳は存在しないのに対して、東漢氏は、蛇塚古墳のような巨大石室の古墳を築いている。その代表が、蘇我馬子の墓でないかとされる石舞台古墳をしのぐ国内最大級の石室を持つ真弓鑵子塚古墳(飛鳥檜前)だ。石室以外にも、東漢氏の手によるとされる石庭も、いくつか残っており、巨石を扱う技術に長けていた可能性がある。

 それはともかく、この垂箕山古墳の脇に少し入って、息子たちに軽く説明をしていた。

 すると、通りすがりの年配のご婦人が、「入ってはいけないんですよ」と大きな声を出す。

 その根拠は、古墳の入り口に、宮内庁管理という看板と、「むやみに立ち入りを禁ず」とあることだ。

 しかし、明確な天皇陵と違い、古墳の周りに厳重に柵があるわけではない。宮内庁も、実際に皇室系のものかどうかわからないためか、天皇陵のように「立ち入り禁止」とせず、「むやみに」と付け加えている。「むやみ」に、というのは、無分別の行動を禁ずるということであり、古墳の脇で、歴史の話をすることが、無分別であるはずがない。

 でも、そのご婦人は後に引かない。それで、「この古墳がどなたのものかご存知ですか?」と聞いたら、「知りません。でも、ダメなものはダメでしょう」と言う。理由はよくわかっていないようだが、ご本人は、自分を正義だと思って、言っている。

 つまり宮内庁というお上が、なんか理由はよくわからないけれど、ダメと言っているみたいだから、ダメなんだよと。

 私は、立ち入り禁止ではなく、むやみに立ち入りを禁ずの意味を説明し、誰の古墳とされているか説明し、なぜここにあるのかを若い二人に話しているのですよ、一種の歴史の研究調査ですよ。と答えたら、「調査なら仕方ありませんね」と言い、引き下がった。

 古墳の前にお住まいの住民は、庭に出て何かしていたが、私たちの行動に何か言うわけではなく、なぜか通りすがりのご婦人が、非難してきた。

 この長文をここまで読んだ人はほとんどいないだろうが、なぜこういう話を持ち出したかというと、けっきょく、物事にじっくり向き合わず、ちょっとかじっただけで、ダメとか良いとか自分の中で決めつけてしまっている人が多いことが懸念されるからだ。

 今のコロナ騒ぎのなかにも似たようなケースがある。

 人との距離を置いているのに、炎暑のなかマスクをしていないだけで、怪訝な顔でこちらを見たり。

 民主主義というのは、ある意味で怖い。無知なまま流されやすい膨大な人を味方につければ、強権を発揮できる。ダメなものはダメなんだよと。それこそ、どこかの国を悪者に仕立てることも可能だし、政治とは別に日常的なことでも、「あの家の子には近づいてはダメよ」みたいなことも起こる。

 人間の悪や間違いというのは、多くの場合、こうした「かってな思い込み」「かってな決めつけ」ではないかと思う。それがとくに厄介なのは、その思い込みや決めつけを、学者などを権威化することで行われること。

 戦時中には、必ずそれが行われるし、コロナ禍でも同じだ。

 歴史の権威です、などと持ち上げられてメディアに登場する人の話も、その大半が、いい加減なものだ。

 

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