第1245回 事物を記録することと、時間や場を記憶化することの違い

 

 私は、ピンホール写真は、中判フィルムを使っている。

 ピンホールカメラは、ファインダーもシャッターもないので、構図とか露光時間は、経験によって、だいたいこのくらいだろうと、あたりをつけて行なっている。

 最初は、どの場所が写っているのか、どのくらいの時間、針穴をあけておけばいいのかわからず、失敗も多かったが、6年間、ピンホールカメラだけで撮り続けているので、露光時間とかフレームでミスすることはほとんどなくなった。

 ファインダーや液晶画面で画像を確認して、シャッター速度と絞り値はカメラ任せで撮影し、すぐその後に撮った画像を確認できる最新のデジタルカメラとは撮影に対する心構えやスタンスがまったく異なってくるが、ピンホール写真は、現像した後、自分が思っていた以上に、よく撮れていて驚くことも多い。

 よく撮れているというのは、キレイに撮れているということではなく、写真を通して、その場に佇んでいた”時間”が、蘇ってくることだ。

 250分の1とか500分の1という人間の生理感覚ではとらえきれない高速シャッターで場面を切り取るカメラではなく、長時間、露光するピンホールカメラは、露光しているあいだ息を止めているよう集中している。集中して何か作業をしているわけではなく待っているだけなのだが、世界から何かを受容しているような瞑想的な集中であり、それが不思議なことに、針穴を開けて光を取り込んで焼き付けられた画像と何かしら呼応するものがある。

ものすごい風で、立ってられず、地面に平伏すようにして長時間露光し、ピンホールで撮った東尋坊

 


 話は変わるが、富士フィルムが販売しているチェキという昔のポラロイドフィルムと同じ原理のカメラがある。

 私は、写真に関わる仕事をしていながら、チェキのことをよく知らず、若い人のファッションアイテムだとしか認識がなかった。

 しかし、最近、親しくしている複数の写真家から、スマホカメラ全盛の時代なのに、チェキが若い人のあいだで非常に売れていて、それが世界的に広がっていると聞いて驚いた。

 1998年から販売を開始したインスタントカメラ“チェキ”は、2000年当時は、全体の9割が日本で売られていたらしいが、世界100か国以上の国と地域で販売され2018年には国内外における年間販売台数が1,000万台を突破しているのだという。

 チェキの描写は、銀塩フィルム特有のもので、最新のデジカメに比べて緩い写りだが、ユーザーからは、その場の空気感が写っていると好評のようだ。

 チェキで撮った写真は、パソコンでの修正がほぼ不可能という特徴があるうえ、1カットが70円とか80円もするらしく、”自分の思い通りになりにくい”という点で、最新機器のトレンドと逆行している。

 これまでまったく関心のなかったチェキについて、色々聞いていると、がぜん興味が出てきた。

 自分もチェキを買って作品作りをしようなどと思わないが、私がピンホール写真に取り組んでいる理由と、重なってくるところがあるのだ。

 スマホカメラもそうだが、映像分野は、より画像が鮮明になったものを進化だとみなしている。消費者に新しい商品を買ってもらうために、以前より画像が鮮明になったことが強調される。

 写真は近代の技術が生み出したもので、それゆえ近代社会の価値観が反映されることになるが、近代社会は、より明確さを求める価値観の上に築かれてきた。

 明確であることが世界の実態を忠実に表すために必要なことであると、科学万能の時代の人間は考え、科学者は、より明確な答えを求めて研究を続けている。

 しかし、明確であることは、本当に世界の実態に即したことだろうか。

 世界は、明確に線引きできるように分かれておらず、あいだに無限のグラデーションがある。私たちの心もまた、個人的な表面意識や潜在意識だけではなく、人類の記憶として引き継いでいる深層意識が、複雑精妙に積み重なって作られている。

 明確であることは、人間の都合によって整理しやすくしているだけにすぎないのではないか?

 テレビのコメンテーターにおいても、明確な意見を述べている人が頭がいいと思われがちだが、明確な意見を述べている人は、自分の立ち位置を固定して、その立ち位置を正当化するための情報材料を集めているだけだから、実は、あまり頭を使う必要がない。それゆえ、いつも同じことを言っている。これは、政権批判を売りにしていたメディアの社員の典型だ。

 私は、現在、ピンホールカメラで古代の聖域を撮影しながら歴史について考えることを続けているのだが、最近の歴史家は、「考古学的証拠がないものは、どんな説もイデオロギーだ」と言う人が多い。

 イデオロギーという言葉が出てくるのは、太平洋戦争の時に、戦争の正当化のために歴史観が利用されたことへの反省からきているのだが、証拠を突きつける正当化も怖いところがある。

 たとえばカメラは世界の一部しか切り取れないが、一つの場所に笑っている子供と泣いている子供がいても、泣いている子供だけをクローズアップして撮れば、その場所が悲しい場所だと主張することが可能になる。

 また、記録と記憶の問題もある。

 現代社会では、記憶違いもあるということで、記録の方が重視される。

 歴史に置き換えると、考古学的成果は「記録」であり、神話は「記憶」に該当する。

 以前、考古学的発見の捏造が世間を騒がしたことがあったが、たとえ捏造でなくても、一つの記録は、次の新たな発見によって覆される可能性があるわけだから、記録をもとにした思考の限定は、間違いのもとになる。

 それに対して、記憶は、神話もそうだが、曖昧なところが多く、どう解釈するかという問題がある。

 一人ひとりの記憶の場合も、その時の環境、条件によって変わってくる。だから神話は、書かれている事実を追うのではなく、そこにどういう人間心理が関わっているのかを読み取ることが重要になる。

 読み取る力は、洞察力や想像力と言い換えることができるが、機械が便利になりすぎると、人間から洞察力や想像力が奪われていく。 

 昔の写真家は、天気や光の状態を読み取って、絞り値やシャッター速度を決めていた。経験に基づく洞察力や想像力が実力の違いになった。しかし、最新のカメラでは、そんなことは必要なく、機械に任せていれば、誰でも適切な絞り値とシャッター速度で鮮明な写真が撮れる。

 しかし、それらの鮮明な写真は、心に引っかかるところがなく、いいね!と言われても、すぐに飽きられてしまうが、なぜそうなってしまうのか?

 おそらく、写真に限らず飽きてしまうものは、人間の想像力や洞察力に働きかけるものがない。

 心に引っかかる時というのは、想像力や洞察力が駆動している。何なんだろう?とか、なぜなんだろう?とか、未知の領域にアクセスする回路が少し開かれている。

 そして人間の記憶に長く留まり続けるのは、この、何なんだろう? なぜなんだろう?という感覚である。

 男女の付き合いにしても、学歴や職種や収入や体型といったものを重視する人は、「明確な記録」を自分の判断基準にする人だ。結婚詐欺師に限らず、どんな詐欺師も、そうした人の特徴を利用する。そして「明確な記録」を判断基準にする傾向が強い人は洞察力が磨かれていないケースが多いから、意外と簡単に騙されてしまう。

 それに対して、何なんだろう? なぜなんだろう? なんか気になるなあという曖昧な感覚を大事にする人がいて、こういう人は、「明確な記録」でマウントを取ろうとする人を警戒するので、詐欺には引っかかりにくい。

 人間は、人類のことを知能生物だと思っている。

 鋭い牙も爪も、分厚い毛皮も、強靭な足腰も腕力も持たない人類が、今日まで生き延びてきたのは、確かに「知能の力」によるのかもしれないが、その「知能」とは、どのような能力を指すのか?

 動物の場合は、本能的な直感力を失うと滅びに直結する。動物の本能的直感力に該当するのが、人間の想像力や洞察力だ。

 そして人間の想像力や洞察力が、動物の直感よりも生存のために強みを発揮するところは、一つの事象を、他の事象と連関させたり応用したりできるところだろう。

 この力によって、人類にとっての一つの経験は、一つの教訓だけで終わらず、他の無数の経験とつながって重層的な教訓となる。人間の「知能」の特徴は、この重層性にある。

 実は、神話の複雑さというのは、この連関や応用が積み重なった重層性にある。

 神話の中の一つのシーンは、ただ一つの事実の記録を示しているのではなく、一つの出来事が、想像力や洞察力によって、他の記憶的出来事と結び付けられている。この連関と応用のことを想像したり洞察することなく、神話を単なる事実証拠として扱うと、「神話は空想の産物にすぎない」と結論づけられてしまう。

 チェキが、なぜ若い人のなかで人気になっているのか?

 チェキを使う人は、写真の上手さを人に褒めてもらうことが目的ではなく、撮った写真を仲間と共有することが前提になっている。

 共有したいものは、場であり、時間であり、記憶だ。だから、明確な記録性よりも、その場、その時の空気感が大事になる。

 後になって振り返る時、自分の記憶に働きかけてくるものは、細部の明瞭さではなく空気感だからだ。

 古い家族写真などを見ると、神話的だと感じることが多く、その理由もよくわからないまま、私は、その感覚にできるだけ近づこうとして、古代の聖域をピンホールカメラで撮り続けてきた。 

 そして、チェキの写真もまた、古い家族写真に通じる空気感があるが、それが、若い人たちを中心に、世界的に人気であるという事実は、いったい何を示しているのか。

 曖昧なところが残っている方が、人間の心に長く残り続ける。神話もまた、同じ理由で、千年を超えて語り継がれている。

 近代社会は、様々な分野で明確さを重視したが、それは結果として、より明確なものを求める欲求を刺激しただけで、記憶の中に長く残り続けるものや、時代を超えて語り継がれるものを、減少させていっただけなのかもしれない。

 明確な記録で整理された世界に対する違和感が若い人の中で大きくなっていくと、神話的な世界が復活する可能性がある。しかし、気をつけなければいけないのは、神話が政治的に利用されることだ。詐欺的な行為を行なっている新興宗教も同じだ。

 それらに共通していることは、神話の単純化と明確化によって人間の想像力や洞察力を失わせるものであり、それはもはや神話ではなく、複雑さや曖昧さに対する耐性が弱い人を洗脳する手段でしかない。

 

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