第1266回 北九州と常陸と四国をつなぐ国づくりの糸

大洗磯前神社茨城県大洗町

 たった一つの場所のことを書くだけなのに、その一つの場所は無数の事柄と関わってきてしまい、手短に書けなくなってしまった。あまりにも長い、一つの場所に関する取材メモ。

 今回の旅で房総半島から茨城の鹿島灘を北上し、辿り着いた茨城県の大洗の海辺。

 鹿島灘のこの聖域が、菅原道眞の怨霊騒ぎともつながってくる。

 鹿島灘は、北から流れてくる親潮と、南から流れてくる黒潮がぶつかり合う潮目である。そのため、この場所が水産資源の宝庫であることはよく知られているが、エンジンのなかった時代の船の航海においても、二つの潮流は重要な意味を持っていた。

 黒潮などの流れは、一方向のように思われているが、勢いよく流れる一方向の潮の外側には、ゆるやかだが、逆向きの潮が流れており、それを熟知していれば、潮に乗って行き来ができる。

 鹿島灘鹿島神宮の真北40km弱のところに大洗磯前神社が鎮座している。この神社の創建は古く、式内社であり、そのなかでも特別な名神大社である。

 この神社の存在が特別な意味を持っているのは、平安時代清和天皇の時、貞観13年(871年)に編纂された歴史書である『日本文徳天皇実録』に、次のような記事が載っているところにある。

「ある夜、製塩業の者が海に光るものを見た。次の日、海辺に二つの奇妙な石があった。両方とも一尺ほどだった。さらに次の日には20あまりの小石が怪石の周りに侍坐するように出現した。怪石は彩色が派手で、僧侶の姿をしていた。神霊は人に依って、われは大奈母知(おおなもち)・少比古奈命(すくなひこなのみこと)である。昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきたと託宣した。」

 この記事にある大奈母知=オオクニヌシと、スクナヒコナの降臨の場所が、今回、ピンホールカメラで撮った大洗磯前神社の神磯の鳥居であり、この岩礁の上は現在でも禁足地となっているが、江戸時代にも、この風景を見るために多くの人が訪れていたという。

 この神磯への神の降臨が、地方の伝承ではなく、中央政府が作成した公式の歴史書に記されていることに深い意味がある。

 海辺に石が出現し、それが増えているという記述は、地盤が隆起したことを表しているのだろう。最初に光が出てくるが、これは、大地震の時に発生する地震発光現象のことだと思われる。

 房総半島でも、関東大震災など大地震の時に隆起した場所が多く見られるが、房総から鹿島灘宮城県沖合にかけての一帯は、海底プレートの影響を強く受けるところであり、2011年3月11日の東北大震災の記憶も生々しい。

 この東北大震災で起きた原子力発電所の事故の検証において、どの規模の津波が想定されていたかという議論が起きた。そして平安時代貞観の大地震で起きた津波のレベルまで想定するかどうかという判断で、東電が、それを行わなかったために大惨事が起きたという話になった。

 貞観地震は、869年に、2011年の東北大震災の時と重なる地域に津波の大被害をもたらした地震であるが、大洗磯前神社の神磯に言及している『日本文徳天皇実録』は、この大地震の2年後に編纂されている。

 そして、次に気になるのは、大洗磯前神社の神磯に降臨したことになっているのが、オオクニヌシスクナヒコナで、「昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた。」と託宣していることだ。

 これは一体何を意味しているのか?

 貞観時代というのは、大津波だけでなく、864年(貞観6年)から866年(貞観8年)までにかけて発生した富士山の大規模な噴火活動も記録に残されており、これは有史に残る富士山の最大の爆発で、この時に、青木ヶ原の樹海などの溶岩地帯も形成されたとされる。

 つまり貞観というのは、極めて深刻な天変地異が連続的に起きた時代だった。

 そして、『日本文徳天皇実録』という正史の編纂は、菅原道眞の父の菅原是善が主要メンバーであるが、菅原道真が父に代わって序文を執筆したとされている。

 大地震や大噴火など凄まじい天変地異が続いた貞観の時代の混乱の後、天皇の血統に大きな変化が起きる。

 源氏の身分にあった宇多天皇の突然の即位だ。宇多天皇の母は、渡来系の東漢氏に連なる当宗氏の血を受け継いでいるが、天皇になるはずのなかった宇多天皇の即位の背後には、当然ながら、何かしらの力が働いている。

 宇多天皇は、菅原道眞を抜擢して政治改革に乗り出すが、改革の反対派によって道眞は九州に左遷されてしまう。

 しかし、道眞の死後、怨霊騒ぎが起きて時代は動く。

 菅原道眞の祟りについて考えるためには、道眞の怨霊騒ぎの後に何が起きたかを考えればいい。

 怨霊騒ぎの中、病気がちの醍醐天皇にかわって宇多上皇は、道眞と親しかった藤原忠平を中心に改革を進めた。そして醍醐天皇の死後に即位した朱雀天皇の母は、道眞の祟りを極端に恐れていたとされるが、この朱雀天皇の時代から、道眞を左遷した勢力によって行われた班田収授は一切行われなくなった。つまり、人頭税を柱にした律令制は崩壊したのだ。

  日本史の中に刻まれるべき宇多天皇と菅原道眞のミッションは、ここにある。

 ところで人頭税というのは、人の数に対して税金を課す税制である。

 しかし、この税制は、重い課税から逃れるための農民の逃亡につながり、朝廷の税収は減少するが、逃亡農民を抱え込むことで荘園経営を行なっていた一部の貴族だけが潤うという状況になった。

 朝廷に仕えながら荘園を持たない一般貴族は、収入が減少したためか、地方にくだって受領(地方の行政責任を負う筆頭)になるものが増えた。これが後に武士になっていくが、かろうじて人頭税が維持されているあいだは、中央から地方に派遣される貴族官僚が、それらの受領の上の立場であり、税に手心を加える見返りに賄賂などを要求し、腐敗の温床になっていた。

 平将門の乱(935年)は、こうした中央官僚の賄賂要求を武蔵国が跳ねつけたことが、最初のきっかけである。

 人頭税に変わるものが地頭税であるが、これは人頭税より複雑な税制のため、土地の計測や収穫高の管理は、地方行政を行なっている者に委ねざるを得なくなる。そのため、地方の豪族の権限が大きくなるし、灌漑その他に力を入れることで、自分たちが豊かになる道が開ける。中央官僚の時代から地方分権の武士の時代への転換が、税制改革によってもたらされた。

 その引き金が、宇多天皇の突然の擁立であり、菅原道眞の抜擢と改革であり、この歴史的転換を最終的に成就させる力となったのが道眞の怨霊騒ぎだろう。

 この流れの背後にいた勢力は、人頭税を軸にした律令制に代わる体制を望む者たちや、この時代の流れに逆らえないことを弁えていた人たちということになる。

 彼らが、天皇になる予定ではなかった宇多天皇の擁立のために力を結集し、菅原道眞の改革を支援し、人頭税時代の維持を目論む反対派によって道眞が死に追いやられた後は、祟りという騒ぎのなかで、反対派を滅ぼしていったのだろう。

 菅原道眞が亡くなった903年、道眞の子の道武が、自ら道眞の像を刻み、廟を建てて祀ったのが東京都国立市谷保天満宮の創建とされる。

 901年に菅原道眞が太宰府に左遷された時に、道眞の邸宅があった京都の亀岡北部の園部で、道眞と深い交流のあった園部の代官・武部源蔵が、道眞の邸内だったとされる場所に小祠を作り、密かに道真の像を安置したのが日本最古の天満宮とされているのだが、国立市谷保天満宮も、それと変わらず古い菅原道眞の聖域であり、919年の太宰府天満宮や、947年の北野天満宮に比べて、はるかに古い。

 なぜ、菅原道眞の息子が、東京の国立にいたのか? 

 この谷保天満宮は、武蔵国の中心だった府中の国府があった所から僅か3kmほどの所であり、武蔵国が、菅原道眞の左遷によって立場が危うくなっている息子を保護していたのではないか。

 この後も、武蔵国の武蔵武芝が、中央から派遣された官僚の源経基の賄賂要求を拒み、これが後の平将門の乱へとつながっていくが、興味深いのは、武蔵国を治めていた武蔵国造は、日本書紀によれば、天穂日命アメノホヒ)を遠祖としていることだ。

 というのは、土師氏の出身である菅原道眞の遠祖も、天穂日命アメノホヒ)なのである。

 アメノホヒという神様は、タケミカヅチなどよりも早い段階で高天原からオオクニヌシの元に遣わされたが、オオクニヌシを説得しているうちに、心を変え、オオクニヌシの元で働くことを選択した神様だ。(その時点で国譲りは、時期尚早だったことを意味している。)。

 そして、この武蔵国造が関東に多い氷川神社を祀っていたのだが、氷川神社の祭神は、スサノオクシナダヒメとオオナムチ(オオクニヌシ)という出雲系の神々である。

 ここで、話を冒頭に戻すが、菅原道眞が序文を書いたとされる『日本文徳天皇実録』において、鹿島灘大洗磯前神社の神磯の岩礁に、大奈母知(おおなもち)と少比古奈命(すくなひこなのみこと)が降臨して、昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた」と託宣したという内容と重なってくる。

 宇多天皇と菅原道眞による改革の前、人頭税を軸にした律令体制は崩壊しつつあったが、特に貞観の時代に起きた富士山の大爆発や、東北から千葉にかけての太平洋側に大被害をもたらした大津波によって、東国の人民の暮らしは窮地に追い込まれたはずであり、それらの地方の治世者は、中央政府の管理下に置かれた状態ではなく、自立的に、状況を立て直す必要に迫られていたのではないかと思われる。

 それまでの人頭税に基づく中央集権的な官僚体制では、危機を乗り越えられなかった。

 『日本文徳天皇実録』に「大奈母知(おおなもち)と少比古奈命(すくなひこなのみこと)が降臨して、昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた」と託宣したとあるのは、その危機を乗り越えるための改革と結びついている。

 菅原道眞の使命も、そこにあった。

 そのように仮定すると、国譲りが何であったのかも、わかりやすくなる。

 国譲りは、タケミカヅチオオクニヌシに対して投げかける言葉、「汝がうしはける葦原中国は、我が御子のしらす国である」に象徴される。

 すなわち、力のある者が全てを牛耳るのではなく、全ての者に平等に、知恵の恩恵が行き渡るようにすべきだということであり、それは律令制の精神であった。

 しかし、そうした理想的な状況というのは、生産力などが十分に高まった状態であることが条件であり、生産力を高めるためには、自分がやった分だけ見返りがあるという個々のモチベーションが重要で、それは結果的に競争の世界、すなわちウシハクとなる。

 オオクニヌシとスクナヒコが象徴しているのは、そういう競争世界での切磋琢磨であり、それが、神話の中の「国づくり」であった。

 だが、その結果として争いごとも増えた。力のある者が独占する「ウシハク」の時代だからだ。その争いごとを終焉させるために「シラス」の国の秩序世界が作られた。それが律令制であり、その過渡期である奈良時代には各地で抵抗があったが、平安時代となって、しばらく戦争はなくなっていた。

 しかしながら、その律令制の矛盾が各方面で噴出していた。

 そして、9世紀、貞観時代の天変地異が起こり、もはやその矛盾に蓋をすることができなくなった。

 菅原道眞の時代は、まさにそういう時代であった。

 鹿島灘大洗磯前神社の神磯にオオクニヌシスクナヒコナが降臨したという記録は、その転換点を象徴している。

 そして、この2神の降臨の場所が、なぜここなのかと考えるためには、貞観の大津波の被害地域であったからかもしれないが、ここが、那珂川の河口域にあることが気になる。

 那珂川というのは、北九州の博多を流れる川と同じ名であり、博多は、日本最古の湊で、太古の昔から、大陸との交易や外交の中心であった。

 そして、表記は異なるが、徳島県南部にも那賀川があり、この流域は、卑弥呼の時代に遡る若杉山の辰砂の採鉱遺跡がある。

 これまでのエントリーで何度か書いているように、辰砂(硫化水銀)は、海人との関わりが深い。辰砂は、防水効果と防腐効果があり、船体に塗るために使われ、辰砂の赤い色が血液とつながるのか、魏志倭人伝に書かれている倭人たちは、辰砂で文身(刺青)をしていた。

 魏志倭人伝では、「卑弥呼のクニでは辰砂が採れる」と、敢えて書かれている。

 上に述べたように、鹿島灘は、黒潮親潮が出会う場所で、古代、日本各地から海人がやってきた場所だった。

 そして、茨城県大洗磯前神社が鎮座する場所の那珂川を遡っていくと、「ゆりがねの里」として知られる黄金の産地へと至る。

 この地では今でも砂金取りのイベントが開かれるが、那珂川町那珂川と合流する武茂川(むもがわ)流域の黄金が奈良の大仏などにも用いられたとされるなど、ここは、古代から有数の黄金地帯だった。

 しかし、この地域は、黄金だけでなく辰砂を豊かに産出する所でもある。

 那珂川町の陶芸で小砂焼(こいさごやき)が知られているが、これは那珂川町小砂の陶土を使った焼き物であり、黄色の金結晶や、辰砂のほんのりとした桃色の色どりが有名である。

 そもそも、辰砂と黄金は、親銅元素に分類される似た性質の鉱物で、地下のマントルからの熱水鉱床として地表近くまで上昇して鉱脈を作るが、その鉱脈がさらに隆起するなどして地表に現れることがある。辰砂や砂金は、そのような場で採取される。金と辰砂の産出は重なっていることが多く、茨城の那珂川の上流域は、まさに黄金と辰砂の産地なのだ

 さらに、茨城の那珂川中流域にある坪井上遺跡は、縄文時代中期(BC2000年頃)から奈良・平安時代までの複合遺跡だが、ここからは富山県糸魚川のヒスイを使った大珠が8点も発見されており、これは1箇所で発見された数としては国内最多である。しかも、この遺跡からは、新潟の縄文土器の特徴である火焔式土器も出土している。

 この場所は、縄文時代に遡り、日本各地とつながっていたのだが、それは黄金や辰砂の産地であるとともに、黒潮親潮がぶつかるところなので、日本の東西南北から潮流に乗った海人が辿り着きやすい場所であったからだろう。

 茨城の那珂川下流域の虎塚古墳は、7世紀初頭に作られたものだが、東日本では代表的な装飾古墳である。

 装飾古墳は、北九州や熊本に集中的に見られる古墳で、石棺や石室などに彩色によって文様や絵画などの装飾を施したものだが、虎塚古墳の赤色で描かれた装飾の色素は、ベンガラであり、九州に多く見られる装飾古墳と同じである。

 埋葬施設の作り方は、死生観などが反映されるために、装飾古墳を作ったのは共有の文化を持つ集団である可能性が高く、同じ那珂川という名を持つ九州と茨城のつながりが想像できる。

 すると、茨城の那珂川の河口域の海岸に、天変地異が相次ぎ律令制が崩壊しつつある9世紀、オオクニヌシスクナヒコナが、再び、国づくりのために降臨したという伝承は、かつての国づくりにおいて、同じ那珂川那賀川)の地名を持つ北九州と徳島と茨城を結ぶ勢力が軸になっていたということを反映しているのではないだろうか。

 その勢力は辰砂とも深い関係のある海人であろう。

 平安時代の海人の反乱は、平将門の乱と同じ頃に起きた藤原純友(939)の乱に象徴される。

 藤原純友は、海賊の征伐のために派遣された人物だが、海賊の頭領になって、朝廷に反旗を翻した。

 しかし、藤原純友の乱の前、まさに860年代の貞観の大噴火や大地震があった頃から、海賊に関する記録は多く残っていた。

 貞観四年(862)5月に、海賊によって備前国の官米80石が略奪され、貞観九年(867)、伊予国宮崎村に海賊が群居して盛んに略奪を繰り返すので、公私の航行が途絶えてしまう状態だという情報が朝廷に伝えられている。

 律令制の崩壊につながる農民逃亡だが、逃亡した農民で海賊になる者も多かった。

  894年、菅原道眞は、遣唐使の廃止を提言し、それ以降、遣唐使は行われなくなったが、遣唐使の船が海賊に襲われる可能性が非常に高くなっていたのではないだろうか。

 朝廷は、地方の行政担当者達に、自国内の警備に徹するだけでなく、各国が連絡をとりあい共同して海賊追捕にあたる必要があることを布告したようだが、律令制の軍事ネットワークでは、神出鬼没で離合集散する海賊の動きに対応できず、コントロールができなくなっていた。

 税制だけでなく軍事面においても、律令制による治安維持は、もはや限界にきていたのだ。

 こうした状況の中、菅原道眞の怨霊騒ぎの真っ只中の936年、伊予の国の守となった紀淑人の海賊に対する策は、懐柔策だった。

 彼は、海賊たちに田畑と種子を与えて農業につくことをすすめた。

 また、耕作地の狭い土佐の話として、自分たちが住んでいる浦に種を蒔いて苗代を育て、これを船に載せて運び、苗を植える人を雇い、鎌や鋤などの道具も船に積んで、耕作に都合の良い場所へと移動し、栽培を行なったという話も記録されている。

 これらの記録から、もはや、律令制の秩序維持の方法である農民を土地に縛り付けるという発想では、対応できない時代環境になっていったことが、よくわかる。

 逃亡農民を囲い込んで荘園経営を行なっていた一部の有力貴族を除き、朝廷が、人頭税ではなく、その土地の生産能力に応じた税制にすべきだと考えるのは自然なことで、菅原道眞や宇多天皇は、そうした改革を進めていたのだろう。しかし、この改革は、生産力を高めることにつながるが、同時に自立した各地域の力を強めることにつながる。そうなると、中央集権的な体制は維持できなくなり、群雄割拠の戦乱の時代となる。つまり中世の武士の時代は、激しい天変地異のあった9世紀後半、突然、源氏の身分から天皇に抜擢された宇多天皇と、菅原道眞の改革および道眞の怨霊騒ぎによって準備されたということだ。

 タケミカヅチが、「あなたの国は、強いものが全てを牛耳るウシハクの国だからダメなんだと」と表現したオオクニヌシの国づくりの流れは、歴史の中で繰り返されるのである。

 9世紀の後半、菅原道眞が序文を書いた『日本文徳天皇実録』における、「大洗磯前神社の神磯にオオクニヌシスクナヒコナが降臨し、人々を救うために再び帰ってきたと託宣した」という記述は、その歴史の転換点を象徴している。

 ちなみに、源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて後の醍醐天皇を産む藤原胤子は、山科の豪族、宮道列子の娘だが、この同母同父の兄弟が藤原定方で、彼の娘が、紫式部の父方の祖母である。

 紫式部は、父を通じて、その歴史変化を学んでいるはずであり、「源氏物語」を深く読み解くうえでも、そのことが重要な鍵になってくる。

 源氏物語というのは、全体で54帖もある壮大な物語だが、これを全て読んだことがない人は、光源氏に象徴される貴族の栄華が主題だと思っているが、41帖で光源氏が幻のように消えた後に、播磨地方の受領であった明石入道の一族が繁栄して終わる物語であり、この明石一族は、海人の崇敬を集める住吉神の加護を受けていた。 

 源氏物語というのは、華やかなる貴族の時代の終焉に対する鎮魂を、「もののあはれ」で表現し、海人の神に守られた新たな勢力の興隆が示されているのである。

 北九州の那珂川の河口域には、筑前国一宮の住吉神社が鎮座している。航海守護神の住吉神社は、全国に2,300社以上あり、大阪府住吉大社が総本社とされることが多いが、『筑前国住吉大明神御縁起』では、筑前住吉神社が始源とされる。

 つまり、源氏物語は、九州の那珂川を起源とする海人の神を、明石入道の守護神としているのである。

 卑弥呼の時代の辰砂の採掘と重なっている徳島の那賀川と、貞観の天変地異後の改革と関係してくる茨城の那珂川と、九州の那珂川が、偶然とは思えない糸でつながっているのが感じられる。

 

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