第1265回 人間の流儀

 昨日の夜遅く、テレビをつけたら、京大総長でゴリラ研究で知られる山極壽一さんが出ていて、人間の暴力性の起源と理由についての話を展開していたので、しばらく聞き入っていた。

 山極さんは、ゴリラという生物は暴力的だと思われているけれど実際は平和を望む生物で、平和のための方法論を身につけているという話をし、とくに相手とじっくり向き合うことに特徴があると。それに対して人間は、野生動物の脅威から逃れるための集団化のなかで多数とのコミュニケーションが必要になったために言葉を獲得してしまい、その結果、言葉の性質である対象のイメージの拡張(あいつは豚のように汚い等)によって、憎悪なども大きくなり、暴力的な行動が起こりやすくなるという話を展開し、ネット社会のことなどにも触れながら、暴力性を抑えるために身体的な向き合い方が必要だという話になった。

 つまり、言葉を身につけてしまったことによる身体性からの乖離が、人間の暴力性の理由であるとの考察だが、言葉と身体性のあいだに横たわる問題は、太平洋戦争後の経済優先の社会の中を生きてきた山極さんと同じ世代の有識者が述べてきたことで、とくに新しいものではない。養老孟司さんのミリオンセラーなども、そうした領域のものだ。

 そして、すでに多くの人が、そのことを認識しているので、山極さんや養老さんの言葉によって、その認識が後押しされ、「そうだよな」と納得したり共感したりする人は多く、出版不況のなかでも、この類の本は割とよく売れる。

 しかし、「言葉がそれほど信用に値するものではないから身体性をより大事にするべし」という啓蒙を言葉で行うのは、自己言及のパラドックスになってしまう。「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言っている」のと同じで、この問題は古代から深く考えられてきて、空海をはじめ、言葉のこの問題を乗り越えるための言葉を創造してきた先人がいる。

 身体性というのは、言うに言われぬ感覚であり、言葉の力によってシンプルな解答に落とし込んで導く行為じたいが、身体性を損なう言葉の悪業だとも言える。

 しかし、シンプルな解答に落とし込んだものでないと、世間ではウケない。とくにテレビメディアでは、短時間で、言葉による結論が求められ、そのニーズに応える者が、賢者ということになる。

 脳の研究者、生物の研究者、歴史の研究者など、その道の専門家という肩書きを使った上で、言葉によるシンプルな落とし込みがなされた人生訓が、身体性を遠ざけるバーチャル空間であるテレビなどでは重宝される。

 本物の賢人、たとえば故白川静さんなどがテレビで出て語っても、多くの人にとっては、何を言っているのかさっぱりわからないだろう。

 しかしそれは、内容が難しすぎるからという理由ではない。

 話を聞く前にすでに意識のなかで準備できているところに向かって言葉が発せられている場合、多くの人は理解できるが、そうでない場合、理解しようとさえしない人が多いのだ。

 けっきょく、テレビや SNSなどで伝えられるような断片的な話を教訓にしてすませる人は、自分の意識にそった内容でないと理解しずらいという状況に耐性が養われていないため、それが不満や怒りに転化する人もいる。わからない自分が悪いのではなく、わかりやすく説明できないお前が悪いのだと。

 言葉の問題というのは、言葉それ自体が悪なのではなく、言葉が、自分個人の現実範囲の処世的なことに重きを置かれて使われる傾向にあることから発生しているように思う。

 人間は、言葉を身につけてしまったのだから、その人間に対して、「言葉よりも身体を優先すべし」と言葉で説得したところで、言葉から逃れられるわけではない。

 問題があるのは、言葉ではなく、言葉の用いられ方だろう。だから、言葉の害を訴える人は、言葉の用いられ方に対して、もう少し気を配る必要がある。

 いくら、世間的には正しい世界平和や温暖化問題を唱えていても、それを唱えている人の意識が、「個人の現実範囲における処世的なこと」に留まっている場合が多い。

 そして、正しいことをしているという自己の満足や充足感のために行われているうちに、正義を唱え、悪と戦うヒーロー像が、自己アイデンティティになると、自己正当化と自己保身という欲求も生じる。そのスタンスが世間に認められたりすると、自分が世界のルールのように錯覚してしまい、そこから様々な暴力が生まれ、とくに自分より立場の弱い者、声の小さな者への暴力を、暴力とも感じなくなる。自分を崇拝してくれる女性への性暴力なども当然そこに含まれる。

 空海の言葉に、「悪平等、善差別」というのがある。

 ほとんどの意見には、それなりの理由があり、その場かぎりでは正当なものだ。その個々の正当は、平等に存在している。しかし、それは、立場変われば正当が変わることを意味し、だから、対立は起こる。ロシアとウクライナの正当の主張も同じ。だからこれは、悪平等ということになる。

 大事なことは、善の顔をしたものの本質を、どう見極めるかということ。

 その判断を身につけるために、空海は、修験という身体的実践を重視した。

 修験の身体的実践を、心身の鍛錬のように捉えている人が多いが、そうではなく、言うに言われぬ世界のリアリティが思考(言葉)の軸になるまで、処世(目の前の現実)を超えて、世界そのものと向き合い続けることだろうと思う。

 言葉の否定では、人間の意識は変わらない。

 現代社会における言葉の問題を意識している人ならば、「個人の現実範囲における処世的なこと」から離れて、言うに言われぬ世界のリアリティが思考(言葉)の軸になるような言葉を発信することに努めるしかない。

 そうした言葉は、言葉の背後にある文脈が重要だから、自ずから、その人特有の文体とならざるを得ない。

 私は、いわゆるサル学では、河合雅雄さんの言葉が好きだったので、風の旅人でも、河合雅雄さんに、「ヒトが人であるため」という連載を依頼した。

 カタカナの「ヒト」というのは、生物学上の種としての存在を意味する。それは、たとえば、鋭い牙や爪の代わりに人間が生存のために身につけた能力を含んでいる。

 それに対して「人」というのは、その生物学上の容れ物に人間精神が入った存在だ。

 だからそれは言葉による思考も含む。

 人間が、人間特有の暴力性をなくすためには、人間が身につけてしまった言葉を捨てるのではなく、言葉を用いて組み立てられた精神によって、それを乗り越えていくしかない。

 しかし、そうした言葉は、多くの人がすでに意識の中で準備できているものではないから、受け入れられにくい。

 私は、河合雅雄さんや、動物行動学の日高敏隆さんという、学問のジャンルでは理系の人に、「どちらかというと文系のテーマを、理系の言葉で書いていただくよう促していた。

 お二人は、難問だと言いながらも、四苦八苦して言葉を編んでくれた。

 そして、この時の日高さんの連載が一冊にまとめられて「生きものの流儀」(岩波書店)という本になった。

 

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 この本の後書きに、日高さんは、次のように書いている。

「知っている方も多いと思うが『風の旅人』という雑誌がある。

 旅行のPR誌ではなくて、要するに「人間とは何か」、「人間と人間以外の世界との関係とは何か」を追究していこうという、美しい写真の入った、しゃれた哲学誌である.

 編集長の佐伯剛氏から、思いがけない手紙がとどいた.この雑誌に書いてほしいというのである。

 ぼくにいったい何が書けるのだろうか? まったく自信がなかったが、とにかく大変深みのある雑誌なので、ついに引受けてしまうことになった.

 一応はいわゆる「理系」、「自然科学系」であるぼくは、かつて京都大学の理学部長もつとめていたこともあったが、いろいろな疑問がふくらんでくるばかりであった.

 「理学部は真理を探究する」と皆おっしゃる。けれど、世の中に「真理」などというものがあるのだろうか? 「大切なのは科学的事実の発見だ」ともよく言われる。では「科学的事実」とは何なのか? そもそも「事実」とは何なのか? 世の中に「事実」なんていうものがあるのだろうか?

 人間は何か「現実」のものを見たり感じたりしたときに、どうやら必ずその「説明」を必要とする動物らしい。そのことをぼくは、ずいぶんと昔から感じていた.

 しかし、その説明とは、その現実に対して人間がもつイリュージョンにすぎないのではないか? けれどそのようなイリュージョンがなかったら、人間は「現実」を認識できないのではないか? 

 結局のところ、「何が現実か」という連載になったとき、佐伯氏からは、毎回無理難題としかいいようのない難しいテーマが与えられた.それは「意識とは」、「愛とは」、「命とは」、「心とは」、「幸福とは」というような問題に至っていった.

 そのたびにぼくは、苦しみ、苦しまぎれにイリュージョンを組み立てて、それらのテーマに応えようとした。」

 日高さんは、苦しみ、苦しまぎれにイリュージョンを組み立てて、それらのテーマに応えようとしたと書いているのだが、簡単な言葉に落とし込めないという状況を認識しながら、それでも言葉を編んでいこうとする時、その人ならではの味のある、独特のユーモアに満ちた文体が生まれる。

 河合雅雄さんは、サル学のパイオニアとされるが、その分、長い間、学会では無視されてきた領域であり、言葉の受け手がすでに準備できているような言葉を編むわけにはいかず、それが結果的に、河合さん特有の文体を育んでいった。

 上に述べた「悪平等、善差別」という空海の言葉の、善の顔をしたものと本当の善の区別は、文体や文脈に包含されているものを見極めることにある。

 言っていることの正しさよりも、言われていることの背後に、どれだけの奥行きや広がりや、様々なつながりが感じられるかだ。

 ゴリラから人間になってしまった以上、言葉を捨てるわけにはいかないが、表に出ている言葉の裏に人の精神を読み取ることが、ヒトが人になるために外せない道だろうと思う。

 

 

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