「愛」と「歴史」と「国家」と・・・・

 愛する思いを伝える方法はいろいろあるだろうが、「愛する」という言葉を明文化する瞬間、心の中に秘めた大切な機微が消えてしまう可能性がある。愛という言葉を具体化しようと力みすぎて、相手の事情も省みずに、性急な行動をとってしまうことがある。

 相手が自分の「愛」に応えてくれない場合など、もう後には引き返せないような気持ちで強く迫ったり、焦がれるような気持ちに絶えきれず、暴力的な自分をさらけ出したり、相手を深く憎んでしまうこともある。

 そのような激しい衝動や無分別な行動を純粋な愛などと称賛する人もいるが、その「愛」と称せられる暴走によって、相手を深く傷つける可能性があることを知っておく必要がある。

 「愛」を明文化し、その確証を求めることは、「愛」を大義名分とした強迫でしかない。

 愛する気持は自然に生じること。それを明文化して敢えて意識させるなどというのは、とても不自然なこと。ましてや、国を相手に「愛せねばならない」などと法制化されると、その言葉は、国家統制の手段にしかならない。

 

 愛する気持ちは、人それぞれの記憶の中で育まれていく。

 人それぞれの記憶は、喜怒哀楽、畏れ、不安、悔恨など、その人ならではの感覚と深く結びついている。

 あるものの面影が自分の心の中で大きな位置を占め、自分の感情に働きかけ、かけがえのないものになっていく時、そのものを深く愛していることを実感する。その対象となるものは、恋人や、友人や、自分の家族や、大切にしている物や、馴染みの風景であったりする。そうした「愛」の感覚は、「愛」という言葉に簡単に置き換えることはできず、他の何かに反映することで、微妙に察せられるものである。

 言うに言われぬせつなさのなかで「愛」が吐息のように洩れる時は、微妙な震えだけが相手に伝わり、その余韻が記憶に残る。その時に自分が感じている、身体が痺れるような、呼吸が止まりそうな胸苦しい感覚は、こちらが真剣であればあるほど相手に伝わる。仮に相手がこちらの「愛」に応えることができない事情があったとしても、せつない思いは共有され、その瞬間に「愛」は成就している。

 20世紀になり、二つの大きな大戦があり、多くの人が殺された。マスメディアの発達によって一生の間に知ることのできる天災や人災の数は、莫大なものになった。コンピューターをはじめ、物事を客観的に整理して記録する手段は著しく発達した。

 しかし、それらの夥しい記録は、血の通わない断片となって堆く積み重ねられるばかりで、一人一人の人間の記憶となっていない。記憶されない出来事だらけの世界は、一人一人の人間にとって無関係なものとなってしまう。

 無関係だから、心の痛みもない。心の痛みが伴わないところに「愛」は育たない。

 今日の社会は、「愛」を問題にする以前に、情報の伝え方を見直すことから始めなければならないのではないか。伝えられている情報の背後にあるものを、読み解く努力から始めなければならないのではないか。日本の伝統や文化という言葉を安易に使って、わかったつもりになるのではなく、私たち一人一人の記憶と日本の何がどう関係しているのか、深く考え直す必要があるのではないか。

 人間がつくりだす多くのものは、その時々の人間の事情を反映した仮初めのものにすぎないことは人間の歴史が示しているが、ごく稀に、芸術や宗教や道具など、時代を超えて生き続け、私たちの感覚に働きかけるものがある。

 その感覚を通して、私たちは、人類の記憶の中に伝えられてきた普遍的な何かを共有することができる。

「風の旅人」のVol.20(6/1発行)のテーマ ALL REFLECTIONからVol.21(8/1発行)のテーマ、LIFE AND BEYONDへと続く流れは、私たちが生きる世界のリアリティを、客観的記録や概念を超えて、心身の感覚を通して記憶の中に探ろうとする試みである。

 全ての生物のなかで人間だけが「歴史」を持つが、その意義は、過去の事実関係を知ることではなく、私たちが一人一人の生死を超えて、人類の歴史の中を生きていることを切実に感じとること。その歴史は、繰り返し円還するものであることを察すること。

 歴史を振り返れば、「愛」や「平和」が形骸化する時、「正義」が主義主張となって、暴力的な行動に結びつきやすいことがわかる。

 人類の経験が一人一人の切実な記憶となるためには、知識を振りかざした概念的な議論や、無味乾燥な客観的記録を整理するばかりでなく、喜怒哀楽、畏れ、不安、悔恨など、人間らしい感覚で歴史と付き合うことが大事なのだろう。

 そのような姿勢で歴史と付き合うことは、人間がやるべきことと、やってはならないことを痛みとともに知ること。

 人類の歴史が切実なまでに一人一人の記憶となる時、人種、国家、宗教、経済的な利害関係も超えて、人間は一つになる可能性をもっている。ほとんど絶望的な可能性であるけれど、それ以外の道が、いったいどこにあるのだろう。