伝わらない大事なこと

 今朝の朝日新聞朝刊で、引きこもり支援団体の寮で26歳の男性が死亡する事件が伝えられている。「手足を拘束?26歳死亡」と大きな見出しをつけて。

 それで、その男性の両手足などに多数のすり傷や打撲の跡があったと説明し、断続的に拘束が繰り返されたことが死亡につながった可能性があると結んでいる。

 そうした記述のもと、この引きこもりなどの若者支援団体の名前が公表されている。つまり、この支援団体の手によって、この引きこもり男性に対する虐待行為があって、それで死に至ったということを伝えようとしているのだ。

 こうした記事を掲載する側は、「客観的事実としてあったことを正確に伝えている」と主張するだろう。しかし、こうした事件の場合、誰が見てもわかる客観的事実として伝えられることよりも、伝えられないことの方に大事なことが隠されているのではないか。

 この男性の家族は東京に住んでいるようだが、おそらく自分たちでは対応できなくなり、名古屋の支援団体に26歳の男性を預けた。そこで、その男性は、職員に対して、たびたび暴力をふるったらしい。これ以上の詳しいことはわからない。そのわからないことの方に、結果として死んでしまったことよりも大事なことが秘められている可能性が高い。人を殺そうと思って、若者支援団体のスタッフになろうとする人なんていないだろうから。

 家族が手に負えなくなって他人に委ねて、その人が何かしらのアクシデントで死んでしまって、背景にどんなことがあったか掴み切れていないのに、支援団体の名前まで出して、そのことを重大事件で犯罪行為のように伝えることの意義がいったいどこにあるのだろう。

 「それでも私たちは言葉の力を信じている、ジャーナリスト宣言!!」などといって気取っている朝日新聞は、報道を通じていったい何をやりたいのだろうと疑問に思う。

 「人が一人死んだことは事実で、事実として確実にあったことだけを伝える」というのが、彼らの正義なのかもしれない。しかし、真の意味で客観的事実というものは存在せず、どんな情報も、結果的に、伝えたい側が伝えたいところだけ抜き出している、もしくは、見たい側が、見たい部分だけを抜き出しているのだということが、彼らにはわかっているのだろうか。

 そして、その傲慢で一面的な「事実」を積み上げられて、大事なことが益々見えにくくなったり、行いにくくなることがわかっているのだろうか。

 本当に大事なことは、表面的に現れる「事実」ではなく、その背後の「実体」だろう。真の意味のジャーナリズムは、表層の「事実」を追うことではなく、実体に迫ることだろう。

 一方で、引きこもりの若者問題などと銘打って神妙ぶった特集を行い、もう一方で、事故を起こした支援団体の名を公にし、あげつらう。実体のないところで弁を弄するだけだと、「言葉」は益々信用置けないものになってしまう。

 その種の行為は、「それでも私たちは言葉の力を信じる」というメッセージとまったく逆行したものであるということが、彼らにはまるでわかっていない。

 この事件の横に大きく掲載されている中2殺害事件にしても、現場のパチンコ店の空き店舗をカラー写真で大きく載せて、「誰でも入れた廃店舗」とデカデカとタイトルをつけて、「明るい子だった、信じられない」、「この店舗に出入りしていた」「こんなところ、放置しておいちゃいけないよな」と、マイクをつきつけられた友人達が口にしたことの断片をダラダラと紹介している。「事実」として、そのような店の中で事件が起きて、「事実」として、友人達がそのようにコメントしているのだろうけど、こうした演出を通して、この事件の実体をどう伝えたいのか、まるでわからない。

 モノゴトは、伝え方によって、いかようにも変容する。そのことを肝に銘じて、表現することのおこがましさを感じながら、それでも表現せざるを得ないという思いのなかで、慎重にモノゴトを考えて伝えていくことが、「言葉の力を信じる」人の最低限のマナーだと思う。