第1035回 人権派ジャーナリスト広河隆一氏の性的暴行について

 まもなく新しい年が始まろうという時、とんでもない事実が発覚した。

 人権派として知られるジャーナリストの広河隆一氏が、最低でも7人の女性への性的暴力の責任をとる形で、「DAYS JAPAN」という雑誌を発行する会社の代表取締役を解任されたと発表があった。

 これまで、芸能プロダクションや高級官僚や政治家など、世俗的な利益や地位や名声を求める人々が集まりやすいところでは、この種のスキャンダルは珍しくなかった。

 しかし、人権を守るという旗を掲げて活動しながら、その活動に積極的に関わりたいと集まってくる人たちを罠にかけていたという今回の事態は、これまでの性的暴力とは別種の異様さがある。神父の児童性的虐待を連想させるところもあるが、人里離れた修道院での出来事ではなく、社会の中で大々的に正義をアピールしている現場で、しかも、犠牲になっていた女性が、明らかになっているだけでも7人という多さ、そしてその犯罪的行為を行っていた人物と、昔、深く関わりがあったゆえに、鳩尾のあたりが、キリキリとする。

 立場を利用して愛人になるように強要したというレベルを遥かに超えて、手当たり次第に女性たちの人権を踏みにじる行為を繰り返し、周辺の人々も、そのことを薄々察していたという。

 この異様な事態を作り出していながら、広河隆一氏は、その事実を認めた上で、ホームページにごく短い謝罪文を載せ、DAYS  JAPANの代表取締役を解任された、というケジメのつけ方を発表した。

 政治家や官僚などが、事実を認めず、地位に留まり続けるという執着を見せることが多いが、それに対してこの広河氏の迅速な行動を、潔い態度だと思う人は、よもや、いないだろう。

 この事件が公になる前から、DAYS JAPANという雑誌 は、あと数ヶ月で休刊することが決まっていた。しかも、この雑誌を発行する会社は、上場企業ではなく広河氏の個人会社にすぎない。

 高級官僚や大会社の幹部のように、そのポジションを追われることで金銭的にも大きな痛手を負うという状況と大きく異なる。

 DAYS JAPANという組織名と切り離された方が、広河氏にとっては楽なことで、その皺寄せは、組織に残る数名の人に、一挙に押し寄せるのだ。

 なかには、「今回の事件は広河個人の責任だけではない、DAYS JAPANという組織としての責任はどうなっているのだ!」と怒りの矛先をスタッフに向ける人もいるが、その人は、今回の出来事を世の中の政治家や官僚の不祥事と混同している。DAYS JAPANという既存の組織があって、その代表を広河氏が務めていたわけではなく、DAYS JAPANという組織は、広河氏個人の”願望”を形にするために広河氏が作ったものにすぎない。そして、その組織は、広河氏を崇拝した人たちによって支えられてきたが、そこには、広河氏の呼びかけで集まった大勢のボランティアや寄付者が含まれる。

 そして、哀しすぎることは、広河氏の願望には、自分自身が人権を守るために戦っている人たちの中でスターになり、芸能人のスターのようにスポットを浴びて女性にもてて、女性を自分の思うようにできる、ということまでも含まれていたことなのだ。

 自分が行っている表現活動などが、たとえ今報われなくても後の時代のために何かしらの意義あることにつながっている、そのことが他の何よりも大事、そうした使命に尽力していることに対して本当の意味で矜持をもっていれば、自分を厳しく律することもできる。

 しかし、広河氏は、モテたいという虚栄心や大勢の中で目立ちたいというプライドは高かったが、孤高の矜持はなかった。

 女性への性的暴力における責任の取り方として、被害にあった女性たちへの対応はもちろんだが、当面の問題として、定期購読のために前払いでお金を支払っている人たちへの対応がある。

 その対応を、 DAYS  JAPANに残る人たちで行うのは、あまりに酷すぎる。

 私も経験があるが、この残務処理は、地道ながら大変なものだ。何千人といる定期購読者で、あと何回分残っているかで金額も異なる。それを一つひとつ確認して指定口座に振り込まなければならない。

 今回の事件が公になっていなければ、広河氏は、「これまで正義のために戦ってきたけれど力尽きました、預かっている金額は、自分の今後のジャーナリズム活動の寄付金にしてもらえないか」といった内容のメッセージを読者に送りつけたかもしれない。寄付を募るという手法は、DAYS JAPANの創刊以来ずっと行われていた。

 広河氏は、ボランティアの支援をあてにして運営してきたので、たぶん幕引きも、ボランティアの手を動員しようと考えていただろう。

 しかし、こうした事件が起きて、その方法は通用しない。

 返金のための事務処理は、残されたスタッフに集中する。その時、裏切られたという気持ちの強い読者から、「これまで続けてきた定期購読のお金も返せ!」という非難を浴びるかもしれない。

 その非難が、DAYS JAPANに残る少人数の人々にふりかかることは、絶対にあってはならない。彼らもまた犠牲者なのだ。

 だから、この事件に対する広河氏の責任の取り方として、「DAYS JAPANの代表を辞める」などという生ぬるいものでいいはずはなく、雑誌休刊における返金処理など、最後の最後まで、広河氏自身が、代表の名をもって行うべきなのだ。定期購読者の全員に連絡をとり、謝罪をし、返金の手続きをすべきだと思う。果たして、前受け金として預かったお金が残っているかどうか心配だが。そのうえで、被害にあった女性たち全てに向き合わなければならない。

 

 私は、20歳の時、大学を辞めて海外放浪をする前、広河氏の「パレスチナ」という新書本を読んだ。その影響もあって、放浪中にアラビア語を学んで、アラブ諸国をまわろうと決め、チュニジアのブルギバスクールに僅かな期間だけれど通った。

 なので、2003年の4月に「風の旅人」を創刊した時、すぐに広河氏に連絡をとった。そして、2003年8月発行の第3号から、2004年2月発行の第6号まで彼の特集を組んだ。イスラエルへの取材のため取材費も準備した。

 それら風の旅人の4冊で編集した広河氏の写真や文章は、たとえ戦乱の犠牲者のことを伝えるものであっても、抑制がきいたもので、それゆえ、心に突き刺さるものだったと思う。

 その期間、広河氏と何度も会い、話をし、その中で、広河氏の雑誌創刊の夢のことを聞かされた。

 1988年4月号から1990年1月まで講談社から発行されていた「 DAYS JAPAN」という雑誌があり、アグネスチャンの講演料問題という奇妙な理由で廃刊に至ったが、広河氏は、あれと同じようなジャーナリズム雑誌を作りたいと言っていた。

 2003年当時は、そうした雑誌の発行はとても無理だと思われていたが、私は、そういう時代に敢えて「風の旅人」という雑誌を創刊し、広河氏は、その内容を高く評価してくれた。そして、その運営のノウハウを教えて欲しいということだった。

  DAYS JAPANの発行後、広河氏が雑誌創刊のいきさつを語る時、かつての DAYS JAPANの廃刊のいざこざが落着いた時、再び、当時の有志が集まって始めたようなことを言っていたが、実情は違う。すでに、廃刊から13年が経っていたし、当時、広河氏のまわりの人たちは、みんなジャーナリズムの新雑誌の創刊など不可能だと決めつけていた。彼の仲間が集まった時も、みんな反対するか無視をし、私一人だけが、それは可能なのだと主張した。というのは、2003年というのはデジタル製版が本格化しつつある時であり、それまで、たとえば風の旅人の場合は150ページほどあるが、その製版代がアナログ時代は800万円、さらに版下制作、写植や修正代などを含め、印刷や製本にかかる前に1000万円ほど必要だったコストが100万円もかからなくなっていた。さらに、メールの発達などによって、編集部員の負担は減り(手書きの生原稿を打ち直す必要もなくなっていた)、その数も少なくてすんだ。私は、実際にそのような新しい方法で運営していた。

 デジタル製版のクオリティに不安があったが、風の旅人の印刷クオリティで広河氏は納得し、その方法でトライする決意をした。

 さらに、売れなければ返本され、なのに40%以上もコミッションをとるトーハンや日販などの書籍流通に依存せず、新しい定期購読者の獲得のために書籍流通を行うという割り切りで、定期購読者を全読者の半数くらいにもっていけば、制作コストも大幅に安くなっているゆえに、かつての雑誌のように十万を超える発行部数の必要はなく、15000部くらいの発行数で、広告出稿をとりにくいジャーナリズム雑誌でも十分に運営が可能だというシミュレーションを彼に伝えた。そして、印刷見積もりをとり、ページ数を決め、効率のよい紙取りができるサイズ(風の旅人と DAYS JAPANは、ページ数は風の旅人が倍以上あるが、判型は同じ)で、広河氏の DAYS JAPANは船出をした。2004年4月だった。さらに、資金協力を仰ぐために、風の旅人をよく読んでくれていた大企業の創業社長に広河氏を紹介し、多少の資金も得ることができた。私は、創刊号の校正刷りも確認した。

 そして、DAYS JAPANの創刊後は、風の旅人とのあいだで、志を同じくするものどうし、お互いの雑誌で紹介し合おうという話もした。

 そのようにDAYS JAPANの創刊までの準備に深く関わった私は、創刊号の巻末に名前が記された。

 しかし、DAYS JAPANの創刊後、それまで絶対に無理だと言い続けていた人たちが、動きだしたトロッコに乗り込むように入ってきた。

 そして、第2号から、私の名前は消え、広河氏が依頼をして承諾した有名人の名がズラリと並び、「DAYS JAPANはこういう人たちに支えられています。だからあなたも賛同してください!」という内容のキャッチが強調された。

 お互いの雑誌で紹介し合うことは、私は果たしたものの、広河氏は、一度も実行しなかった。

 さらに、風の旅人の第9号(2004年8月発行)で、セバスチャンサルガドのページを作ると伝えた時、サルガドを崇拝する広河氏は、自分も DAYS JAPANの中で紹介したい、だから連絡先を教えて欲しいと言い、私は、その申し出を受けたものの、風の旅人の第9号よりも1ヶ月早い発行のDAYS JAPAN(2004年7月発行)の中で、風の旅人で掲載する予定の写真、とくにポスターでも使うメインの写真は使わないで欲しいと彼に伝えたものの、あっさりと裏切られ、その写真がデカデカと掲載されていた。

 DAYS JAPANの創刊以来、その編集内容に対して、私はすでに違和感を覚えていたが、このサルガドの件で、私は彼を信用できなくなった。感謝とか恩義といった、人間関係の基本が通じないような気がした。

 広河氏は、戦場での悲惨なシーンを積極的に掲載するという方針だった。しかし、当時、私は、「戦場で死体を撮った方が金になる」と言い切る報道写真家のことなども知っていて、目を奪う悲惨な写真の背景が気になっていた。

 また、見るものの思考を停止させるような衝撃性よりも、見るものが想像力を働かせて思考し、当事者意識を持てるような誌面づくりの方が大事だと私は考えていた。想像力を喪失して思考停止に陥り、自分が非難する相手は悪で、自分は善という線引きをすることがもっとも恐ろしい結果を生むことがある。歴史をふりかえっても、そうした例は数多くある。

 DAYS JAPANを発行する前、一人のジャーナリストだった広河氏は、もっと抑制のきいた表現を行っていた。だから、私は、彼の文章と写真を、風の旅人に掲載していたのだ。

 しかし、 DAYS JAPANという組織を持ってからの彼は、心に語りかけることより、人の目を惹きつけること、人の目を奪うことに重点を移していったように思う。

 そして、一人のジャーナリストの時は、自分の作品を各出版に持ち込んで売り込み、その相手が、たとえ未熟者でも選択権を持っているという状況に耐えなければいけなかったが、自分が雑誌媒体の所有者になると、自分のところに作品を売り込みたい人がやってくる。そして、ジャーナリズム大賞などという権威的な機関をつくれば、自分の価値観で人をジャッジするという強い立場に立てる。そういう権力を持ってしまうと、人は傲慢になる。権力を批判する立場だった人が権力を持つ側になると、180度変わってしまうことは、歴史を振り返ればいくらでもサンプルがある。

 私は、風の旅人の運営において、どんな人間の中にも潜んでいる、そうした権威主義、権力主義を警戒していた。警戒していてもそれが出てしまうこともあるけれど、自分の中にもそうした根があるかどうか自問しているかどうかによって、行動は大きく変わってくる。

 私は、風の旅人の誌面の中で、作家や写真家のプロフィール、肩書きや経歴を掲載しなかった。名前と生まれ年と出身地の記載だけにした。また、高名な写真家たちから、風の旅人の賞を作るようにとアドバイスされたが、断った。

 アウトプットされたものだけを見て判断することが大事なのに、肩書きや経歴や賞の受賞云々で物事の価値を判断してしまうこと、また、そのように人々の判断を導くものが世間にはあまりにも多く、私は、そこに与したくなかった。

 DAYS JAPANが創刊されてからの広河氏のやり方は、反体制を旗に掲げているものの、私には、それまで体制がやってきたことと方法論が大して変わらないように感じた。そのことも、彼に近づかないようになった理由だった。

 DAYS JAPANの創刊後、その編集部で働く女性たちの何人かとは会ったり、話をしたことがある。(編集部で男性に会った記憶がない)。編集スタッフは、広河氏に命じられらのか、自主的なのかわからないが、風の旅人の定期購読もしてくれていた。

  DAYS JAPANで働いていた人たちや、ボランティアとして支えていた人たちは、当然ながら、真面目な人たちだ。金儲けのために人を利用しようとする人たちは、他に相応しいところに行く。

 ただ、そうして集まった人たちは、DAYS JAPANの情報の深さや情報の伝え方の適切さ、権威主義的な広河氏の矛盾を、どれだけ見極めていただろう。

  DAYS JAPANの情報の質や伝え方のことは考慮されず、広河氏が発する正義のメッセージが、正義の所在がよくわからなかった時代のなか、多くの真面目な人を惹きつけていたのだろうと思う。テレビや新聞や週刊誌など、情報の質や情報の伝え方が、議論の余地もないほど酷いものが多すぎるので、唯一、DAYS JAPANが、まともに見えたのかもしれない。

 人の目を奪うためのやり方を躊躇なく実行し続けた広河氏の作る「 DAYS JAPAN」は、私が作っていた「風の旅人」などより遥かに有名になり、その有名力という権力によって、広河氏は、ますます傲慢になってしまい、自分が行っていることに対して何も判断できなくなるほど、思考と感性が麻痺してしまった。

 そして、いつしか、自分の欲望を満たすために、自分の権限と力をどう使うかを覚えて、味をしめてしまった。卑劣な芸能プロダクションの社長のように。

 芸能人の世界のように、表の顔と裏の顔を使い分けることで世俗的に成功するというところではなく、ジャーナリズムの世界で、「この人に見捨てられたらやっていけない、だから従うしかない」と思い込ませてしまう催眠術は、広河氏自身がかけたものか、それとも、この時代そのものに、そのように人を錯覚させる魔力があるのか。マスコミは、芸術家やジャーナリストもタレントのように扱い、そのように扱われることが表現者自己実現の達成のようになり、その姿に憧れて後を追う人が増えた。

 思えば、私も20歳の時、将来何をすればよくわからず、広河氏の「パレスチナ」を読み、ジャーナリストのような仕事で活躍できるような人間になりたいと思ったことがあった。また、人生の目的として、広河氏が掲げているような崇高な使命が欲しかった。

 詐欺師は、時代の変化の中で形を変えていく。人権という聖域だと考えられていた場所で、今回のような事件が起きたことに対して、真摯に人権のため活動を続けている人たちが、一番、途方にくれているだろう。被害にあった女性たちも、そばにいてそれを阻止できなかった人たちも、自分が巻き込まれてしまった渦の正体がよくわからず、だから、被害者なのに自分に責任があるかのように思いこんで、苦しみを増大させてしまう。

 今回の事件を受けて、様々な媒体で、このたびの出来事について様々な人が意見を述べている。

 自分の強い立場を利用して何人もの女性を陵辱し、傷つけてきたセクハラ、広河氏の行ってきたことの酷さ、おぞましさ、そして許し難さ、また被害にあった女性たちの苦しみ。立場や、広河氏との関わりによってその発言の内容は異なってくる。

 そして私は、私の経験の範疇でしか彼のことを語ることができない。

 忘れもしない今から36年前、1982年の夏、私は20歳だった。その5月、イギリスとアルゼンチンのあいだでフォークランド戦争が起き、その夏、イスラエル軍によるベイルートへの大爆撃があった。私は、そのニュースをチュニジアで見ていた。広河氏の「パレスチナ」によって導かれた場所だった。イスラエルキブツにいた時に第三次中東戦争が始まって、その経験をきっかけにジャーナリストになった広河氏の軌跡をなぞろうとさえ考えていた。

 このたび、一体何が起きたのか、自分の中でまだ整理できていないけれど、広河氏の存在は、20歳の時の諸国放浪の時、40歳の時の風の旅人の創刊の頃、私の中に深く関わってくる何かがあった。

 正しさというのは一体何なのか。時計を戻すことはできず、そのため、人は後悔に苦しめられる。しかし、自分がやってしまった取り返しのつかないことを心から反省し、いっさいの虚栄を捨て、懺悔のためにだけ生きることも、人間には可能だろう。

 人権は、声高く叫んで主張するスローガンではなく、これが善でこれが悪だと言葉で簡単にくくれるものではなく、心の琴線ではかるものだ。

 想像力を麻痺させ、思考停止状態になってしまうと、それはただの盲信、程度によっては狂信になってしまう。

 残念ながら、広河氏の人権に対する想像力や思考力は鈍麻してしまっていた。謝罪文で彼が使っている”不実”(愛情や誠意のなさ)という言葉にも、人権や、このたびの女性の被害に対する彼の麻痺感覚が現れている。

 彼の行ったことは、誠意の問題ではなく、今後の展開によっては刑務所行きの可能性もある暴力的な犯罪である。真面目な人が正しさの砦だと信じて逃げこんだ場所は、実際には、権力者の横暴によって人権を踏みにじる場所だった。広河氏は、そういうことを行っていた。その恐ろしい現実認識から始めて、罪の償いをしていくしか道は残っていない。 

 今回の問題は、広河氏個人の資質の問題が大きいと思うが、正しさにはこのような危険性がつきまとっているという認識を共有しておくことも大事だという気がする。

 最後に、こうした問題について文章で伝えることは、とても難解。いくら長文で書いても、入りきらないことがいっぱいある。風の旅人と DAYS JAPANの両方を読んでくれている人であれば、文章になりきれない微妙なニュアンスも読み取ってもらえるかもしれないけれど、そうでない人は、この文章の中だけで物事を判断するしかない。

 そうした言葉の限界を強く感じるから、人は、もっと丁寧に作り込んだ表現を必要とするのだと思う。しかし、丁寧に作り込んだ表現に丁寧に向き合ってくれる人が減っていることも事実。自分の表現を磨くのではなく、人のアウトプットするものを見て、あれやこれやと自分の好きなように採点する人ばかり増え、丁寧な物作りをしたり丁寧に物事に取り組むことが、とても難しい環境だと思う。

 やっていることが正義かどうかで判断するよりも、物事や人に対する向き合い方や取り組み方が、どれだけ丁寧に行われているかを判断することの方が、大事かもしれない。