第1036年 とても残念な日本の精神的光景。

 

f:id:kazetabi:20190107131112j:plain

 とても残念な日本の精神的光景。
 桂川の河川敷には広大なグランドと、草原の広がりがある。正月休みということもあり、草原の上で凧揚げを楽しむ親子がいたり、キャッチボールをする父と子、また、正月休暇で、ミニサッカーの娯楽を楽しむ大人がいた。
 それぞれが、それぞれの時間をエンジョイしながら、それぞれの場所に関しては、適度な棲み分けを行えばいい。本能的に、距離を保ちながら、それができる余裕が、広大な河川敷にはある。
 しかし、大人と子供がキャッチボールをしていて、子供のやることだから手加減ができず、手元が狂って、そのボールが、サッカーをエンジョイしているフィールドに転がっていくことだってある。
 そういうことに、いちいち目くじらを立てる必要はない。
なのに、突然、そのサッカーをエンジョイしている大人のうち、一人の女性が、「私たちは、この場所を、予約して、お金を払って使ってんです。だから、もう辞めてもらえますか!」と大きな声を立てる。
 自分たちがお金を払っているグランドの中に他人が入り込んで何かをやっているわけではなく、お金を払う必要のない広大な草原の上で楽しんでいる人の手元が狂って、そこから飛び出したボールが転々と、自分たちの権利がある領域に入り込んでくることが許せないらしい。
 悲しいことに、この国は、子供の遊びに対する寛容がどんどん無くなって、大人の娯楽や、大人の権利ばかりを主張する国になってきていると実感される光景が、いたるところある。
 保育園や幼稚園の少なさを非難する時も、それは、子供達全体のことを憂慮してのことではなく、自分の子供を預かってくれる場所がないというだけの理由で、自分の家の側にそれができると、うるさいから嫌だと反対する大人。

 南青山の児童相談所建設に対しても、児童相談所は、南青山のブランドイメージを損ねるから反対だと、正々堂々と声高に叫ぶ人がいた。そういう姿がテレビに写し出されても、それを恥ずかしいことだと思わない自己正当化の鈍感な感性が、そこにある。

 自分が信じる正義のための破壊行動がテレビに写されても恥じない心理と同じだろうか。

 先日、このブログで書いた広河隆一氏の性暴力のことにしても、正義のために活動しているという自惚れが、自省する心を喪失させ、さらに彼を正義のヒーローのように扱い神輿に載せて担ぐ人々が、彼の自惚れを、よりいっそう肥大化させてしまった。
 いずれにしろ、大人が、ワイワイはしゃぎながらミニサッカーに興じて、自分の時間をエンジョイするのはけっこうだが、その楽しみを邪魔されたくないと大きな声を出しているその女性は、品性のない大人の典型だという気がする。
 そういう人にかぎって、なにやら、ヒーロー気分なのか、随分と堂々としている。
 そのチームの中には、品性も教養も知性もある人がいて、まあそのくらいのことは普通のこと、と受け止めて、一度目、転がってきたボールを取って、笑顔で返す人もいた。
 その品性も、おそらく真の意味で知性も教養もない女性は、そういう優しい男性が、優柔不断で頼りないとでも思ったのか、自分が声を上げなければいけないという自己中心的な正義感なのか、堂々と、胸を張って、高圧的に「ここは私たちに権利がある場所なんですよ」と声をあげる。
 なんだか、とても醜悪で、恥ずかしいものが、そこにあった。