子供と親のあいだ・・・

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(写真/ジョセフ・クーデルカ

 9歳の子供を道連れに焼身自殺をした父の話。現代社会では、毎日、様々なニュースが報道されるが、このような事件が、もっとも辛い。自分の子供と同じような年頃で、少年野球に打ち込んでいる子供。可愛いし、愛しい。愛しさがつのって道連れにということになってしまうのだろうが、やりきれないものを感じる。

 誰だって自分の子供は可愛いけれど、子供の子供時代なんかあっという間に過ぎ去り、すぐに大人になってしまう。
 私は、自分の子供があっという間に自立した大人になる、という前提ででしか子供を見れない。
 反抗期を経て、自分自身の価値観を育んで、将来、何をするか悩み、そして決め、あっという間に、今の私と同じように社会の容赦のない荒波の中で生きていくことになる。
 私自身が、20歳の時、色々と悩んだ末、大学を辞めて海外に飛び出してしまったので、上の子供はあと3、4年、下の子供もあと7、8年でその年齢になるのだと思うと、子供を猫可愛がりなんかできやしない。巷の評論家などが唱える家族の絆とか、コマーシャルで見られる仲良し家族像なんて、どうでもいいというか、親の自己満足にしか見えず、そんなことより、子供達が、自立の階段をどう登っていくのかが気になってしかたがない。
 3、4年というと、3.11の震災前に高野山にこもっていた時、7、8年というと、リーマンショック後に風の旅人の運営がきつくなって足掻いていた時、と振り返ると、ほんとにすぐだ。
 子供の成長が早いから、子供時代の愛くるしさを堪能しようとして猫可愛がりする人も多くいるようだが、私は、子供が大人になってからの、自立した人間対人間の付き合いの方が大事だと思う。
 子供が成人した後、自立した大人と大人の関係で向き合えない状況の方が辛い。その時、親も、自立した存在でなければならないし、子供にも自立した存在であって欲しい。
 大人の自分が、子供や他の何かへの依存心が強い状況で、さらに子供も依存心の強いまま年齢だけを重ねてしまい、依存心の強い者同士が持たれ合うという状況は、なんとも気色悪い。
 それを気色悪いと感じるのは、ある種、自分の中に潜む野生の本能だと思う。その本能が、子供への接し方の基本だ。

 話は、突然変わるが、今、竹橋の近代美術館で開催されているジョセフ・クーデルカの写真展は、素晴らしい。この数年の間に見た写真展覧会で、もっとも素晴らしい。写真の魅力、写真の底力を知るうえで、必須の展覧会だ。数年前、恵比寿の写真美術館でクーデルカの写真展が開かれたが、あの時は、プラハへのワルシャワ条約機構軍が軍事介入した時のフィルムがメインで、クーデルカが報道写真家のような見え方をしたが、今回の展覧会の方が圧倒的にすごい。ジプシーのシリーズや、エグザイルズのシリーズは、孤高の魂の流離いが、何とも味わい深く、かっこいい。評論家が力説している”疎外感”よりも、疎外された状況に負けない自立した大人の気品や、崇高さの方が、より強く伝わってくる。

 そのクーデルカが、14歳の時、村を離れプラハに発つ時に、村で仕立て屋をしていた彼の父親が言った言葉。

「行ってこい。そしておまえが何者であるか見せてこい。世界はおまえのものだ」

 クーデルカは、この言葉そのままに写真家として生きている。

 クーデルカは言う。

 (共産主義時代の)チェコでは、政治的な自由はなくとも、それとは違う自由、つまり金儲けの自由が欠落しているが故に、必然的に私たちは自分が信じること、関心があること、やりたいと思うことをやるようになる。・・・・西側の場合とは違うんだ。

 自分が信じること、関心があること、やりたいと思うことをやるようになれば、子供にもそうなって欲しいと願うだろうし、だから子供を溺愛することもないし、子供に執着することもないだろう。

 私たちの暮らす西側は、お金儲けの自由や遊びの自由があるが、自分が信じること、関心があること、やりたいと思うことをやる気持ちを奪う力が社会に働いている。

 軍隊が侵攻してきて市民の自由を奪うという事件も、やりきれないものがあるが、その状況と闘う人々には、一人の人間として崇高さや、晴れがましさが漂っている。

 しかし、西側の事件のやりきれなさは、そうではない。

 自由はあるのに精神的に自立できず、依存や溺愛のはてに、やりきれない事件が起きることがたびたびだ。

 どこにも崇高さはなく、その種の事件を恐れる卑屈な社会が、さらに卑屈になるような不吉さばかりが漂っている。 


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