第1059回 言論の自由と、世間の問題

 今の時代は、どんな人でもそれぞれ色々な意見を言える時代で、それはそれで大切なことであり、幸せな時代なのだろうと思う。ただ、言論の自由というのは、自分の暮らしに大きく関わってくることに関して、必死の思いで訴えるという局面において、その自由が損なわれるがあってはならないというのが本質だと思うが、その”必死さ”と遠いところにいる者が、”必死”の者の境遇に対してまったく想像力を働かせることなく、お説教や揶揄も含め、好き勝手な意見を言うことが、”言論の自由”だと思っている人も多いようだ。
 今日食べたランチの写真を公開するのと同じ言葉の重みで、会ったこともない人に、もっともらしい教訓を垂れたり。
 その空虚さが、じわじわと自分や社会を蝕んでいっているかもしれないのに。
 介護に疲れ果てて無理心中をはかったり、自分の子供が他人に危害をくわえるかもしれないと恐れて自分の子供を殺してしまうような事件が報道されると、善良な人々は、居酒屋で飲んで騒ぐ最中でも、「その前にやれることがあったんじゃないの」みたいなことを言う。
 その前にやれることとは何なのか?ということを真剣に考えたりはしない。
 せいぜい、役所や警察に相談するなど、誰もが頭に思い浮かべる程度のこと。
 そんなことが、危機的な状況において助けにならないというだけでなく、むしろ絶望を深めることの方が多いことは、当事者にしかわからない。
 運良く救済につながるケースもある。だから、トライすることは必要だが、確率論として、落胆させられ、傷口を広げられることの方が大きい。
 ”その前にやれること”というのは、一般の善良なる人からみれば、「おいおい、そこまでやらなければいけないことなのか」というレベルのことでなければ、その人の置かれた厳しい現実を変化させることができない、かもしれない。
 誰もが頭に思い浮かべるような程度のことで、極限状態に置かれた人の厳しい現実は、何も変わらない。
 そして、「おいおい、そこまでやらなければならないことなのか」ということを、厳しい現実の当事者が行うためには、世間体の縛りなどからまったく自由な境地でなければ難しい。
 苦しい局面に立たされている者を、さらに追い詰めていくのは、「その前にやることがあったんじゃないか」と気楽に言っている人も含めた世間であることが多い。
 その世間とは、世間のいったい何が本質的な問題なのかを考えることもせず、想像力を働かせようともせず、ランチのメニューと、他人の生老病死の問題を、同等に扱う人々の集団である。
 そして、その世間に埋没している人が、ある日突然、苦境に立たされる。当然ながら、人生は常に順風であるはずがない。他人事という意識で問題を先送りしている皺寄せは、いつか必ず自分に返ってくる。