「表現の自由」をしつこく考え続ける自由。

 「表現の自由を守らなければならない」という言葉が飛び交う。しかし、その表現は、一体誰に向けて行なわれているものか。
 顔の見えない広く一般的な人びとか(発行部数などのように数字で表される)、それとも、特定の、どうしてもそのメッセージを送り届けなければならない相手か。
 表現する者は、表現が表現として”その力”を発揮することを望んでいるだろうが、”その力”が、どういう質のものかによって、表現の在り方も、「表現の自由」という言葉の意味も変わってくるだろう。
 表現が誰か特定の人に向けられたものである場合は、送り届けるものをきちんと受け取ってもらうために、その相手にふさわしい方法を熟慮することになる。
 しかし、いったい誰に向かって表現を送り届けようとしているのかわからないような場合は、「このオレのことを見ろ!」という、ただの自己主張になってしまうのか、自分が有名になりたかったり儲けたいという下心で、世間で人気の出ている人や儲かっている人の真似っこをするのか、それとも表現を通じて誰かを攻撃するのか、ということになってしまう。「自分がやりたいことをやっているだけ」とすました顔で言っている人も、その表現の受け手が想像できていない場合は、表現が自分の虚栄心の反映でしかないことも多いのではないか。
 もしも表現がその程度のことであれば、「表現の自由を守る」というのは、「自分の欲や権益を守る」という感覚に近い。
 自分の欲や権益を守るための主張が悪いとは言わない。どんなものであれ自分の行動を縛るものからの解放を訴えて、人間は、今日のライフスタイルを獲得した。
 王朝を打倒し、投票によって自分達の手でリーダーを決める権利を獲得し、仕事も選べるようになったし、どこに住むかを自分で決められるようになったし、たまには旅行にも出かけられるようになった。そして、自由に行き来するうえでの障壁だった山にトンネルを作り、海には橋をかけた。深夜にお腹がすいたら我慢する必要もなく、コンビニに行って食べ物を買うこともできるようになった。近年では、自分の子供を、生まれる前に障害のある無しを選択したり、社会の成功者の遺伝子をもらいうけて自由に生み分けられるようになってきた。
 「自由になる」というのは、現代においては、「自分の思うようになる」という感覚に等しく、思い通りにならないとすぐにキレてしまう人も増えているようだ。
 列車が遅れることも、出かける時に雨が降ることも、次第に我慢ならなくなってくる。
 つまり、この世は、自分の思うように管理できなければならない。そういう1人ひとりの感覚が集まって、世の中は管理社会になっていき、自分自身も管理される存在になる。
 自由を求めながら、実際には、どんどん不自由になっている。
 言論の自由においても、自由に表現しているつもりで、みんな同じようなものを発信している。表現の受け手として想定されている「広く一般の人びと」というイメージが固定化されているし、どうすれば売れそうか、どうすれば受けそうか、どうすれば有名になれそうか、というイメージが共通しているからだ。
 山にトンネルができて、楽々、山を越えられるようになった。でも、それはどうやら自由とは別のことだった。子供を自分の思うように生みわけても、それは自由とは別のことと気付かされることになるだろう。
 好きなことをしているように思っているのに何だか不自由な感じがするのは、けっきょくやっていることに拡がりが感じられないからだ。自分で決めているように見えて、実際は、世の中でそうした方が得だとか、立派に見られそうだとか、大勢の共有認識をなぞっているだけ。
 そんなことを繰り返しているうちに、自分の世界や、自分の物の見方がどんどんと狭まっていることを本能的に感じる。
 表現もまた自由を主張しながら、大勢の共有認識をなぞっているかぎり、表現世界はどんどん狭くなり、他のものと取り替え簡単な存在となり、不自由極まりないものになる。もはや、表現とは言えず、ただの記号の羅列だ。誰も記号の羅列に対して、自分が不安定な時に自分の内側から支えてくれる力を期待したりしない。そうして、表現そのものの信は失われていく。そして、好き嫌いとか、息抜きになるとか、(自分を賢く見せたりカッコ良く見せたりするために)役に立つかどうかの尺度で裁定される。
 そういう状態を、表現の自由と言うのだろうか。
 子供の頃を思い出してみよう。教師や親に反発して、自由を求める時の気持ちは、自分のいる場所から、どこか違うところへ自分の魂を旅立たせたいという衝動があった。既定の世界に馴れて同化してしまうことを、檻に入ることのように不自由極まりないものと感じていた。だから、現実の世界では意味があるかどうかわからないものほど夢中になれた。
 現実の世界では意味があるかどうかわからないものに、敢えて自分の時間やエネルギーを注ぎ込む事は、自分の選択でやっていることなので、自由の晴れ晴れしさに満ち溢れていたのだ。
 そして、表現の自由というのは、子供の頃に感じた自由のように、既定の世界認識の隙間に吹く風のようなものではないか。これが現実であるという頑迷な世界観に視野が制限されて不自由になっている状態に対して、風穴をあける力のことではないか。
 それには、世界を別なふうに見る目を持ち込むことが必要になる。
 その別の目を押さえつけようとする力に対して、抵抗して、訴え続ける。それが、表現の自由の為の戦いなのではないか。
 「多様性の尊重」とか「色々な物の見方がある」という言葉があちこちで使われ、あたかも世間には色々な目が存在する自由があるように錯覚しているが、その言葉は他人との比較で好きとか嫌いを言っているにすぎず、目の違いというより、横ならび世界の中の分別の違いにすぎない。
 目の違いというのは、標準化された整理箱の中のAかBという分別ではなく、人が整理箱の仕切りだと見ているものを鉄格子だと見てしまう目のように、世界を別なふうに見る目だ。自分が世界を別なふうに見る目を持つようになってはじめて、物事には異なる価値観や論理があるということを認識できる。

 本当の意味で物事には異なる価値観や論理があるということを認識すれば、このたびのフランスで起きたテロについて、「表現の自由に対するテロは許さない」などと、善と悪の戦いのような図式を持ち出さない方が賢明と知るだろう。

 もちろん、侮蔑されたから相手を殺すという論理は、とんでもなく酷いことだ。だからこそ、そのとんでもなく酷いことに焦点を当てるのなら、「表現に対する反論は表現で!」という声を大きくすればよいだろう。「表現の自由に対するテロ」などという言い方は、「自由経済に対するテロ」という言い方と等しく、問題が抽象化され、その戦いの中に邪なものも入り込んでしまう。

 フランスで起こったテロに対して、「言論の自由の戦い」を仕掛けることは、2001年9月11日のテロで、アメリカ合衆国の暴力的な金融世界の象徴であるニューヨークの貿易センタービルが爆破された後に、「自由経済を守る為の戦い」が仕掛けられたことと重なるのだ。

 そうしてまた、イスラム対反イスラムの構図が作られ、テロリストに大義名分を与え、テロリスト撲滅という大義で軍事行動が引き起こられる。
 「自由経済」や「表現の自由」など、自由という言葉が安易に使われる時、自由を獲得したとされる西欧(日本も含めて)の優位性が、どこかで意識されているが、その自由は、本当に自由なのか。自由という言葉で思考が麻痺させられて、思考停止状態という縛りに陥っていないか。
 子供時代、自分が夢中で取り組んでいる事を、親や教師から、「若い時は誰でもそうだよ」と、わかったような口を聞かれた時、無性に腹が立った。「そんなに簡単にわかってたまるか」、「かってな解釈をするんじゃないよ」と。自由の風に吹かれている時の孤独は、誰かに理解されたいと思いと、簡単にわかられてたまるかという気持ちを併せ持っている。
 好きなことを言って、多くの人にエールを送られたりすると、何だか不自由を感じてしまう。人間が本当に自由にこだわると、そのように天の邪鬼になり、人に簡単に同調せず、常に自分の課題の立て方と、その解き方を探り続けることになる。
 つまり表現の自由とは、最後の最後まで自分の頭で考え、その具体的な形を外に表したり、外に表さないという判断も含めて、自分で考え続けるものなんだろうと思う。
 

*メルマガにご登録いただきますと、ブログ更新のお知らせをお送りします。

メルマガ登録→

風の旅人 復刊第4号 「死の力」 オンラインで発売中!

Kz_48_h1_3

森永純写真集「wave 〜All things change」オンラインで発売中
Image