第1046回 広河隆一氏の性的暴行事件について(4)

 広河隆一氏が、月刊雑誌に、今回のセクハラ事件に対して「手記」を書いて掲載している。
 このタイミングで、手記を書く方も書く方だが、掲載する方の神経も理解できない。
 手記を書くのは構わない。しかし、ふつう、手記というのは、事件がなんらかの結論に到り、過去を振り返るためのものであり、事件が現在進行形であるという認識をがないから、こういうことができる。
 つまり、これは手記というより、こちらにも言い分があるという反論であり、文体に工夫が凝らされているが、反論として読むことが相応しい。

 彼は、文章を書き慣れているから、過激な対立姿勢を見せないように書かれているが、事実としてあったことに対する認識の食い違いを浮かび上がらせるというアプローチを文章で行っている。こういうことは達者なので、「見方を変えれば、現在、女性が告発している内容も、見え方が変わってくるんではないか」と誘導をしようとしている。
 話は変わるが、今回の事件のことに対して色々な分野の人が言及するなかで、写真家の長倉洋海氏が、「自分はいい写真を撮りたいから現場に行って写真を撮る」と素直に語った時、広河氏が、「自分は起こっている事実を伝えるために現場に行って写真を撮っている」と、長倉氏の考え方を否定する発言をしたことを述べていた。
 しかし、事実というのは、実は、自分に都合よく解釈したり歪めることができるものである。純粋なる事実なんてものは存在しない。
 今回の広河氏の手記は、自分の立場を守るために、起こった事実の酷さをオブラートに包んで曖昧にしようとしている表現であり、「事実を伝えるためにこそ表現はある」という自分の発言の矛盾を、そのままさらけ出している。
 長倉氏が述べている「いい写真」というのは、単に綺麗な写真、見た目のいい写真を撮りたいということではない。
 その時々の価値観や都合によって歪められてしまう事実をなぞるのではなく、不完全な人間ではあるけれど、「真理」というものが存在するのであればそれに近づきたいという執拗なまでの思いをこめたものだ。
 人間という無常の存在は、血の滲むような努力をしても「真理」を必要とし、真理と現実のギャップの深淵であがきながら、美を生み出してきた。この「美」というのは、もちろん汚いとか醜いの反対にあるものだが、その真意は、「偽」の対極ということ。
 いい写真を目指すというのは、決してカッコつけた写真を目指すことではなく、「偽」の対極の美を目指すこと。ともすれば人間性への信頼が揺らぎやすい世の中であるが、人間性への信頼は、これに尽きると思う。表現者に限らず、職人さんであれ、企業に勤めている人であれ、「偽」に対して毅然とした態度をとっている人は、生き方として、美しい。そういう人は、時に厳しい時があるが、それは、自分を守るためではなく、偽(本物でないものを本物らしく見せかけること)を許せないからだ。
 このたびの広河氏の手記を見て、この期に及んでカッコつけているという欺瞞性を感じるのは私だけでないだろう。
 彼は、「偽」の対極を目指していたのか、事実の伝達などと言いながら、実際は、カッコつけていただけか。
 長倉洋海氏が書いているように、 DAYS JAPANで世界の有名フォトジャーナリストの写真を載せて、その横に自分の写真も並べて自分を権威づける方法。テレビなどによく登場する著名人の名前をズラリと並べ、それを自分の支援者たちと見せる方法。
 そしてテレビや、人権団体その他の機関をうまく巻き込み、彼の演出に便乗させる手法。
 被害を受けた女性たちが、彼のことを「すごい人」、「雲の上の人」と思い込んでいたのは、こういう演出によるものが大きい。

 広河氏の今回のセクハラ事件と、 DAYS JAPANのような彼の仕事は切り離して考えるべきだというジャーナリストなどが存在するが、私は、前から言っているように、根っこに同じものを感じている。

  人権派の旗を掲げた活動は、善良なる人が、人の為に行うものだと思われている。

 しかし、気をつけなくてはいけない。「人」の「為」は、漢字で表すと「偽」になってしまう。

 「人の為に何かをしてあげる」という意味が、「偽」という漢字になっていることを肝に命じておく必要がある。

 なぜそうなるのか? 「人の為」というのは、実は、うわべを取り繕った人間の作為であることが多いからだ。作為というのは、正体を隠して上辺を取り繕って、本質から遠ざけること。本来の性質や姿を歪めること。偽」の真意は、そういうこととなる。

 なので、「これは人の為です」という声が大きくなる時、多くの場合、自分を良く見せるためのポーズであり、その言葉に釣られて集まってくる人を手なづけて、人生の真理から遠ざかっていってしまうことが多い。


 「写真がうまくなりたければ私についてくればいい」という言葉に引っかかる前に、長倉氏のアフガンやコソボの写真などをじっくりと見る機会を得て、「いい写真」の真意や、「いい写真」から滲み出る撮影者の誠実を感じ取り、「偽」と「真」と、「真」に近づくための「仮」を見極める目を養い、そのうえで、DAYS JAPANの 「事実を強調する写真」を見れば、それらの写真が、いかに撮影者の狙いが露骨で、被写体への配慮がないか、それらの「偽」がわかるのではないかと思う。
 写真がうまくなるというのは、どういうことか?
 シャッターを押しさえすれば誰でも写真が撮れる時代であるが、カメラは、ファインダーを覗けば狭い領域しか写らない。
 その狭く切り取られた画角は、それじたいがすでに撮影者の価値観であり、日頃、何を考えて生きているかを表している。発表される写真を見て、その撮影者が信じられるかどうかは、どんな事実を写しているかで判断されるのではなく、自分というちっぽけな存在が、自分の意識や価値判断によって目の前に生じているものを限定してしまうことへの葛藤が、どれだけ深いかで判断されると思う。
 そういう葛藤があってはじめて、表現の仕方やアプローチの仕方に創意工夫が生まれ、その人ならではのものが出てくる。発表という形でアウトプットされているものには、必ず、その人の人柄や内面の深さが反映される。
 人権の旗を掲げてさえいれば信頼できるなんて大間違いであり、アウトプットされているものを見極められるようにならなければいけないのだけれど、そのためには、この情報過多の時代、それなりの心構えと実践が必要になる。
 たとえば、写真に関しては、まずは、長倉氏が言っている本当の意味での「いい写真」を、たくさん見るしかない。
 世の中に溢れているのは、よくない写真が99%以上。その中から、心して、ものを見る目、人を見る目を養っていくしかない。
 繰り返しになるが、誰でもスマホなどで写真が撮れる時代、自分の意識や価値判断によって目の前に生じているものを限定してしまうことへの葛藤がない写真は、ただのカッコつけた写真であり、写真によって世界の本質を歪めてしまう、”よくない写真”だと思う。