(撮影/森永純)
「私を深く感動させる写真、私の人生を変えてしまう写真は数少ない。森永純の写真はその二つを併せ持っていた。」 ユージン・スミス
ユージンスミスは、森永純さんが撮ったドブ側の写真を見た瞬間、そこに原爆を象徴する何かを見て、号泣したと言う。第二次世界大戦中、報道カメラマンとして人間の修羅場の数々を見てきたユージンスミスだからこそ、森永純さんの「ドブ河」の写真の中の声が、より鮮明に聞こえたのだろうが、それは生身の戦争を知らない私たちに関係のない声ではない。
後にユージンスミスが水俣病で苦しむ人々を撮り続けた時、自分が撮った水俣湾のヘドロの写真は、Jun(森永純のこと)には及ばないと言ったらしいが、森永純さんのドブ河の写真には、高度経済成長や戦争など国家の繁栄とか存続、危機回避というスローガンのもと無き物のように扱われたものたちの声にならない声が、静けさの中に渦巻いており、それは、”われわれの時代”のことだ。
ユージンスミスは、自分の撮った戦争写真について、「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。
この言葉の意味は、あまりにも深く、その心中を察することは難しい。
ただ一つ言えることは、戦争の悲惨な現場をいくら撮影しても、”人間の精神と肉体を無惨にも破壊するもの”として映らないことでははないか。
彼はまた、「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない」とも言っている。
暴力的なシーンを見れば、人は「酷い!」とか「可哀想!」と言って眼を背けたり、同情したりするかもしれない。しかし、そうした情報処理は、自分の心から当事者意識を消していく。そうしたことは、写真を撮る人においても、撮られた写真を見る人にも起こる。客観性というのは、そういうことだ。
つまり客観性というのは、現実を伝えてきているように装って、その現実を自分から遠ざけていくのだ。
ユージンスミスは、さらに次のような言葉も残している。
「ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる。」
この言葉もまた深い。彼の言う”ほんものの責任”というのは、”写す対象”に対する責任と、”写真を見る人”に対する責任のこと。
「この二つの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている。」と彼は言い、たぶんその責任を果たせないと感じたからだと思うが、一般の写真家ならば自分の写真が掲載されるだけで自慢になる「ライフ」という超有名なグラフ雑誌の編集部と衝突し、関係を断ち切ることになった。
ユージンスミスの言葉の解釈は色々あるだろうが、私が、風の旅人という雑誌を作り続けている気持ちと同じものが彼の言葉の中にあると感じているので、自分なりに彼の言葉を解釈できる。
”写す対象”に対する責任というのは、その対象を損なわないこと。そして、”写真を見る人”に対する責任というのは、写真を見る人が、写真によって現実から遠ざけられてしまうこと(自分ごとにならないこと)を防ぐことだ。
写真の力を用いる雑誌もまた、その二つの責任を果たさなければならないと私は思うので、その責任に背く写真を掲載しないように注意深くしている。
たとえば、自己表現(自己顕示欲)のために対象を材料にして損なってしまっているもの。”時代の気分”とか、”微妙な心”を伝えるとされる人受けのいい心象写真などもこれに含まれる。
そういう写真は、自分ごとにはなりやすいかもしれないけれど、被写体を利用するだけで損ねている。
そして写真を見る人が、現実を遠ざけてしまう写真というのは、客観的と言われる記録写真だ。現実の断片にすぎないものを歴然たる事実として突きつけておしまいの写真は、人の意識を、その断片(現実の一部)の中に囲いこんでしまう。
すなわち、対象を損なわず、対象の存在の仕方に十分に配慮し、そのうえで写真を見る人が、その写真画像に意識を固定してしまわず、画像になっていない領域に意識が向き、そのようにして現実全体にアクセスしていく回路が開かれていく沈思のきっかけになる写真。”気づき”の起点になる写真。それが、そこに写っている対象との本当の出会いであり、対象と読者をつなぎ、責任を果たす写真である。
これは人との出会いも同じで、紹介されて名刺をもらって肩書きを見て、もしくは紹介者の説明を聞いて、この人はこういう人なんだと客観的にわかったつもりになっても、その人の本当と出会えていない。
または、自分が孤独で空虚で何かで埋め合わせをしたい時に、たまたま紹介された人と話をしたらfeelingがあったので、そこに出会いがあったと思い込んだものの、付き合い始めて少し経って、現実は違うと覚ることもよくある。好きとか嫌いとはの評価軸は、その程度のことが多い。
対象を損なっているかどうか、現実から遠ざかっているかどうか、本当に相手そのものと出会えているかどうかは、しばらく時間を置くことで、はっきりとしてくる。
写真集や雑誌などにおいても、その瞬間の情報収集や癒しの為に傾いたものは、一時的に評判になって売れたりしても、けっきょくすぐに忘れ去られる。本物が後になってから評価されるのは、そういう理由からだ。
ユージンスミスは、そういうことに自覚的であったが、当人が言っているように”失敗している写真”もあれば、そうでない写真もある。
私は、風の旅人の36号で、ユージンスミスの写真を紹介したが、それは、「ライフ」に華々しく掲載されていた写真でも、日本で有名な水俣関係の写真でもなかった。その写真は、アメリカで「ライフ」と決別した後、仕事がなくなったのかもしれないが、日本の日立製作所という会社が、会社のPR誌の制作の為の写真を彼に依頼して引き受けたものだった。
その依頼がきっかけで彼は日本にやってきて、日立で働く人と出会う。そして、驚く。高度経済成長時代の勤勉な日本人と、第二次世界大戦中に彼が戦場で見た日本人と重なるものを見たからだ。
そのことに気付いたユージンスミスは、日本人のそうした”勤勉さ”の背景にあるものが何であるか知りたいという衝動に駆られ、日立の仕事の範疇であるという言い訳をしながら、日本のあちらこちらを旅して取材をする。日立を伝えるためには、日本を知らなければならないというのが彼の言い分であったが、その為の許可を会社は出さなかった。でもそれを無視して実行した。その時に、ユージンスミスがアシスタントとして指名したのが森永純さんなのだ。森永さんは、ユージンスミスが撮った写真のプリントを焼くことを命じられたが、とても厳しくて頑固で、1枚のオッケーをもらう為に、100枚、プリント焼かされたと言う。
それこそ全ての力を投入して、森永さんは、ユージンスミスが撮った日本の写真を焼き続けた。
私は、その時のユージンスミスの写真は、”失敗していない”と感じ、風の旅人の第36号で紹介した。ユージンスミスは、その取材の時に日本の各地をめぐったことが起点となって、後に水俣病に深く関わっていく。(続く)
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