第1264回 房総半島に秘められた歴史の謎

安房神社(千葉県館山市

 7世紀、日本で律令制が整えられていく段階の時期に、8箇所の神郡が定められた。一郡全体を特定の神社の所領・神域とし、郡からの収入は、その神社の修理・祭祀費用に充てられた。

 日本が一つの国として統一されていく段階において、この8箇所が、特に重要な聖域として認識されていたということになる。

 その8箇所は、伊勢に2箇所と、千葉の香取神宮、茨城の鹿島神宮、北九州の宗像大社、出雲の熊野大社(なぜか出雲大社ではない)、和歌山の日前神社・国懸神社、そして、今回の旅で訪れた房総半島の安房神社だった。

安房神社(千葉県館山市

 房総半島の安房神社の祭神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)で、古代の祭祀氏族である忌部氏の祖神である。

 安房神社の由緒は、忌部氏によって書かれた『古語拾遺』などを踏襲して、天太玉命の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)が、阿波地方(徳島県)の忌部を率いてこの地に移住し開発したとしている。

 天富命は、神武東征において、讃岐や紀伊の忌部を率いて橿原の御殿を作ったとあるので、徳島の忌部が房総半島に移住したのも、神話のとおりだとすれば、神武天皇の頃ということになる。

 忌部氏は、中臣氏とともに古代朝廷における祭祀を担っていたが、奈良時代頃より次第に中臣氏の力が増し、存在感を失っていったが、主に祭祀具の制作に関わっていたとされる。

 今でも、大嘗祭に用いられる麻織物の麁服(あらたえ)は、徳島の吉野川市忌部神社で織られる。

 しかし、歴史文献においては、忌部氏が房総半島の安房地域に足跡を残しているわけではなく、安房国の国造は大伴氏であり、安房神社の祭祀を担ったのは、その一族であったと考えられている。

 忌部氏と大伴氏の関係は、記紀などには見られないが、忌部氏の思い入れが強い『古語拾遺』の中では、忌部氏の祖神である天太玉命と、大伴氏の祖神である天忍日命(アメノオシヒ)が、兄弟とされている。

 『古語拾遺』が書かれたのは、平安時代の807年で、その当時、中央政権内の祭祀部門において、忌部氏は中臣氏におされて凋落しつつあったが、政治部門においては、大伴氏が、長岡京藤原種継暗殺事件などで、藤原氏によって失墜させられていた。

 ちなみに、中臣氏と藤原氏は、もともとは同じで、奈良時代に入ってから祭祀と政治の役割が明確に分かれ、中臣氏のなかで政治を担当するのが藤原氏となった。 

 つまり、大伴氏にとっても忌部氏にとっても、敵は同じということになる。

 ゆえに、『古語拾遺』において、忌部氏と大伴氏の祖神は兄弟であると、政治的な意図で工作されたのかもしれない。

 とはいえ、房総半島において、安房神社の祭神が忌部氏の祖神で、この神社の祭祀を執り行っていたのが大伴氏であるとすると、両氏に何らかのつながりがあるのかもしれない。

 大伴氏が房総半島に拠点を置いていたことは、史実の記録として残っているが、忌部氏の場合は、伝承をどう解釈するかということになるが、その前に、「あわ」と房総半島のつながりを考えなければならない。

 「あわ」という地名でも特に徳島との関係があると思われる場所が、房総と徳島のあいだに幾つかある。

 静岡県掛川南アルプス南端の粟ヶ岳の麓の阿波々神社、神津島阿波命神社伊豆半島の淡島に面した長浜神社である。

 これらは、天津羽羽神(別名が阿波姫)という、全国的にも数社だけが祭神としている神様を祀っているところなのだが、この神は、徳島の吉野川の日本一大きな中洲である善入寺島(かつての粟島)で、明治維新の頃まで祀られていたが、その聖域はダイナマイトで破壊され、今はその痕跡は残っていない。

 この場所は、阿波忌部が粟を植えたところよく実ったので粟島と名付けられ、それが粟国(阿波国)の由来になったと伝わる。

 そして、徳島において天津羽羽神は、八倉姫やオオゲツヒメと同じとされる。

 この神を祀っている聖域は、これ以外に、高知市の朝倉神社、和歌山の紀ノ川河口域の朝椋神社ぐらいだが、徳島、高知、紀ノ川、駿府伊豆半島神津島となると、海人の活動が重なってくる。

 特に神津島は、縄文時代から黒曜石の重要な産地で、この地の上質の黒曜石から石器が作られ、海上ルートで日本各地に運ばれていた。

安房神社(千葉県館山市

 1932年、房総半島の安房神社の境内で、海食洞窟が発見された。この場所は、古代、海面が今より高かった時、波による侵食を受けていた場所だった。そして、この洞窟からは、人骨22体、貝製の腕輪193個、小玉3個と土器が出土した。この土器は、縄文時代晩期終末頃の東海系土器であるとの見解がある。そして、22体の人骨のうち、15体に抜歯の痕跡が認められた。この洞窟は、その当時の墓地だったのだ。

 また安房神社から北に6kmほどの所にあるの大寺山洞窟遺跡も海食洞窟だが、1993年から1998年までの発掘調査で、丸木舟を棺に用いた「舟葬」という葬送儀礼のための舟棺が12基以上発見された。

大寺山洞窟遺跡(千葉県館山市)。

 これ以外に、土師器や須恵器などの土器、甲冑、大刀などの鉄製品、勾玉など、古墳時代の副葬品が多く発見されたが、縄文時代中・後期の土器なども見つかっており、この場所は、かなり長期にわたる聖域であった。

 また、大寺山洞窟遺跡の西4kmのところにある鉈切洞窟は、船越鉈切神社の拝殿の裏側にあるが、ここは、開口部から最奥部まで36.8mもある海食洞窟で、縄文時代後期初頭(約4,000年前)を中心とした土器や動物や魚の骨、鹿の角や動物の骨で作られた漁の道具が多数出土した。

 魚の種類はわかったもので約50種、漁具は釣針や刺突具、網の錘など内容が豊富で、縄文人が、多様な漁の方法を身につけ、多種類の魚を獲って暮らしていたことが判明した。とくに、マダイやマグロなど魚骨47種、大量のイルカの骨がみつかっており、海岸部にとどまらず、かなり遠方まで漁をしにいったことを裏付けている。そのほか、シカ、イノシシ、タヌキ、サルなどの骨も出土しており、山の猟も行っていた。

 この洞穴は、古墳時代に一部が墓として利用され、その後、丸木舟を社宝として海人の女神である豊玉姫を祀る神社となって今日まで伝えられてきた。本殿は、洞窟の中にある。

 丸木舟はクスノキ製で、全長約2.19m、幅約70㎝。江戸時代に、水戸黄門で知られる徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』において、この洞窟の奥に由来不明の10数艘の舟が置かれていたとの記録があり、現存している丸木舟は、そのうちの一艘であろうとされる。

 近年、大寺山洞窟遺跡で12基以上の舟棺が発見されたので、鉈切洞窟にも同様の舟棺が納められた可能性がある。

海食洞窟の鉈切洞窟(千葉県館山市)は、船越鉈切神社の拝殿の裏側にある。

 このように安房神社とその周辺地域は、縄文時代から海を舞台に活動する人々の痕跡が残っているだけでなく、古墳時代に、縄文時代からの聖域を再利用して、舟棺などを納めている。

 この地の海人は、数千年の時を超えたつながりを意識していたからだろうか。

 徳島から房総に忌部氏が移住したとされるのは、神話的には神武天皇の頃となるが、歴史段階としては、その数千年の期間のうち、どの時期なのだろうか。

 そして、なぜ、この房総半島の南端地域が、律令時代、神郡として特別な扱いを受けていたのだろうか。

 この謎を解く鍵は、海人ではないかと私は思う。

海食洞窟の鉈切洞窟のある船越鉈切神社のすぐそば、海側には海南刀切神社があり、こちらの方へ境内に巨岩がある。かつては、この二つの神社は一つだったとされる。

 海人は、はるか古代から日本列島各地で活動していたが、その海人が、日本が一つの国にまとまっていく段階において、中央政府のなかで役割を占めるようになっていった。

 なかでも重要な役割は、軍事や外交、神饌としての食物の準備、祭祀だった。

 島国において海人の水軍力は軍事面において必要不可欠なものであったし、大陸との行き来は海人の力なくして不可能だった。海産物は、神への供え物として、また朝廷内の祭祀においても重視された。

 そして宮中行事や儀式で行われる亀卜などの新しい形の卜占は、海を越えて伝えられ、壱岐島対馬、伊豆といった海人の活動域の卜部が、執り行った。

 大伴氏や忌部氏という氏族が、縄文時代弥生時代に遡って存在していたとは思えない。これらの氏族名は、中央集権化が進むことで政権内において役割分担が生じた結果、与えられたものだろう。軍事部門においては大伴氏、祭祀部門においては忌部氏といったように職掌の異なる者たちを統括する氏族へと枝分かれしていった。

 房総半島に、安房神社安房神社の関連神社以外に徳島の忌部氏の足跡が見当たらない理由として考えられるのは、阿波(徳島)と、房総半島の交流は、おそらく縄文時代から黒潮を通じて海人によって行われていたが、その時に、忌部氏という特定の名はなかった。そして、後に忌部という名を与えられたものが、祖先が行っていた遠方との交流を、神話的に残すことになったからではないだろうか。

 

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