三回連続で「日本人の心がどう作られてきたのか」を一挙に書いた。
これが、その最後のまとめになるが、「君が代」という国家のことだ。
日本人以外の海外の人たちは、堂々と国家を歌っているのに、日本人は、国家に対して、どうにも釈然としない気持ちがある。
さらに、イスラム教やキリスト教の国に比べて宗教が不明瞭な日本人は、自分を「無宗教」だとみなす人が多くて、宗教に対する警戒心もあり、それが原因で、精神的な寄る辺がなくなっている。
現在の日本人は、根なし草だ。そう自覚している人も多いだろう。
そもそも、国歌の歌詞について、意味もよくわからず歌わされていることに大きな問題がある。そして、意味がよくわからないまま、「君が代」が天皇を讃える歌という認識があるから、違和感を持っている人も多い。
日本人の心のことを考える時、この国歌の問題は避けて通れない。
「君が代」という言葉が問題なのだ。この歌は、もともと、こういうものだった。
「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」 よみ人しらず(古今和歌集)
現在の日本国家では、「わが君」が「君が代」に置き換えられてしまっているが、もともとこの歌は、天皇の治世を讃える歌ではなかった。
この歌は、祝歌(ほぎうた)であるが、本来、「祝」は神に祈ることを意味し、同時に、神に祈る人の意味でもあった。
やまとことばの「いはふ」は、「いふ」という行為を続けることであり、つまり神を大切にする気持ちを繰り返しことばに出すこと。それが「いはふ」の本来の意味。
日本国歌のもとになった歌の「わが君」は、「神」のこと。だからこそ、幾重にも重なるという意味の「いや」=「八」を含んだ「八千代」という言葉が続き、さざれ石が積み重なって岩になるという人間の常識を超えた「神話的な時間」が続く。
そして、最後に、「苔がむす」という、現実感覚のある言葉がくる。
万葉集には、
「奥山の 岩に苔むし 畏(かしこ)けど 思ふ心を いかにかもせむ」(よみ人知らず)という歌がある。
苔むした岩は、いかにも神々しく、近寄りがたいものがあり、この気持ちをどう表せばよいのかという意味だ。「むす」は、「産す」であり、万物を生み出す神の存在が、「苔のむすまで」という言葉で意識されている。
そして肝心なことは、この際の「神」は、キリスト教やイスラム教などのように唯一絶対の神ではないということだ。
「かみ」は、万葉仮名では、「迦微」と書かれているが、迦というのは、「巡り合う」という意味で、微は「かすか」になる。
これは自然界に漲っている目に見えない力であり、これこそが万物生成の根元に宿る力なのだ。
現在の日本国歌の本来の意味は、この「かみ」を祝う歌だった。
しかし、現在では「かみ」という言葉を使ってしまうと、一神教の神をイメージしてしまうので、国家の「君が代」においては、神という言葉を伏せて、ただ「あめつち」という言葉を使って、
「あめつちは 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
という感じにすると、違和感なく歌えるような気がするのだが。
それはともかく、「君が代」のもとになっている歌を平安時代につくった 「よみ人知らず」というのは、それぞれの土地に生きた純粋な無名人だと思われている。しかし、この歌に限らないが、「よみ人知らず」の歌には、「ただものでない」気配も感じられ、おそらく優れて達観した境地がそこにあったことは間違いない。
作者の名が記された作品というのは、実は一流や二流止まりであり、超越的な人は、自らの名を記することすら放棄した可能性もあり、そこに、深遠な問いが投げられているような感じも受ける。
千利休は、「和敬清寂」という言葉を残した。
「和」は、世界を構成する要素が互いに響き合って、それぞれの持ち分を引き出すこと。
「敬」は、モノゴトに対する畏れ多さ。
「清」は、清々しさ。
「寂」は、高い見識に裏打ちされた、虚飾のない明白な表現。
「畏れ多くも自らの行為を何ものかに捧げること」に徹すれば、その芸は、必然的に、「和敬清寂」となり、さらに無名となることが、自然なのかもしれない。
ここ数日で、「日本人の心がどう作られてきたのか」を一挙に書いたが、これは、現在制作中の本の写真の構成がほとんどできていて、あとは文章をどうしようかとぼんやりと考えていた延長にある。
今回の本は、カラーで撮ったピンホール写真をメインに、前回よりさらに写真の比率を多くして文書を減らそうと考えていた。(VoL.1から Vol.3は、写真と文章が半分ずつ、Vol.4は、文章が4分の1の32ページ、今回のVol.5は、さらに半分の16ページほど)。
文章を減らそうとしたのは、自分がわかっている(つもりになっている)ことを細々と書いたところで、あまり意味がないかなあと思うところがあるからだ。
だからといって、言葉を外した写真ブックにするつもりはない。
写真というのは、言葉でギリギリのところまで考えて、それでも言語化できないものを伝えるところに存在意義がある。
やはり、人間は思考する生き物であり、思考は言葉で行う。言葉を伴わない思考はない。言葉の組み立てが思考だ。この思考を放棄したところで写真を撮っても、それは機械に委ねただけのこと。機械を使っているつもりだが、実は、機械のしもべになっている。
だから、写真家であっても、言葉で思考することは極めて重要で、事実として、歴史に残るような優れた画家や音楽家や写真家は、例外なく素晴らしい言葉を残している。
だから、言葉も必要なのだが、それをどう使うかが問題なのだった。
今回作る本のタイトルは、「かむながら」〜もののあはれ源流〜ということは決めており、それに応じて写真を構成した。
これらの写真の従属物でもなく、また写真を言葉の従属物にしないように文章を、どう書こうかと、しばらくのあいだ寝かしていた。
そして、「かむながら」なのだから、やはり万葉のことを考えなければいけないと決心したら、いっきょに文章が出てきて書けた。
長い時間と日にちをかけても、できないものはできないし、できる時は、いっきょにできる。
それは、万物生成の仕組みと同じで、「作る」ではなく、おのずから「成る」ということ。
日本神話の神々もまた、唯一絶対の完全なる存在ではなく、その都度、状況に応じて「成る神」であり、「隠れる神」だ。
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