第1537回 未知との向き合い方

 今年最後のワークショップセミナーが終わった。これまで24回、東京と京都で交互に規則正しく行なってきた。
 この規則性が、自分にとって、とても良いリズムになった。
 この期に及んで、あれこれやりたいことは、あまりない。
 あちこち行きたいところは、この地球上に、それほどあるわけではない。
 20歳の時の灼熱のチュニジアが記憶の中で生々しいので、もう一度、訪れたいという気持ちがあるが、半年ほど暮らしたパリを懐かしんで再訪した時、全てが色褪せて感じられたので、記憶の中の光景は、そのまま大事に保ち続けることのほうがよいのかもしれない。
 この期に及んで、唯一といっていいほど、やり続ける必要があると感じているのは、日本人の、そして人類の記憶の深いところへと、心の旅を進めていくこと。
 自分の潜在的記憶との対話。対話の中から生まれてくる閃き。その閃きが導く洞察。その洞察が形作っていくであろう新たな展望。
 幸いにして、長い試行錯誤の時期を経て、私は、それらの記憶の深いところへとアクセスするためのツールを獲得した。
 写真というのは、近代社会のなかで発展してきた機械であるから、近代という特徴が詰め込まれている。
 近代の利便性、効率性、速度、実証性、独善性、強迫性。
 こうした特徴は、じっくりと時間をかけて対話することによってのみ得られる物事や関係性の機微を、削ぎ落としていく。
 そうした機微は、森の中の様々な生命体を見えないところで支えている微生物のようなものだ。
 清潔とか明晰とかいった、自分の理解できないものを排除しているだけの非情さによって、実は、様々な因縁を破壊しているだけかもしれないのに、近代合理主義の思考は、そこまで想像力と洞察力が及ばない。
 私が手にした針穴写真という道具は、近代の産物である写真技術の原点であるが、それは、写真と、写真以前の接点でもあるということ。
 そこに私は、近代と、近代以前の接点を見出している。
 近代世界をメタの視点で俯瞰して見直すためには、近代の外に出なくてはいけないが、近代生活に浸っている私たちにとって、それは簡単なことではない。
 せめて、近代世界と、近代の外側の世界との接点に立つことによって、両サイドを相対的に見ることが可能になるかもしれないというのが、私のビジョン。
 私が、ワークショップで行い続けていることは、そのビジョンにそったこと。
 決して、歴史の断片的知識を伝えることではない。
 最近、経営者をはじめ割と多くの人に人気が出ているPod castの歴史コンテンツがあると知って、聞いてみた。
 中田という漫才師が行なっていた歴史コンテンツと同じで、「3日で分かる日本の歴史」といった類の、専門家が歴史上の大事な機微を削ぎ落としてまとめた歴史案内書を、わかりやすく口頭で語っているだけにすぎない。
 そこには、自分自身が、フィールドワークや、想像力や深い洞察によって導き出した新しい見解はなく、既存の教科書や参考書の内容の要点をシンプルにまとめたものが存在するのみ。
 年号や人物名を記憶させられることが歴史の授業だとアレルギーを持っていた人たちに、年号や人物はアバウトに、歴史上の出来事を事件のように語っていくことで、面白みが出ているという評価なのだろう。それが、現代のインテリジェンスであるかのように持ち上げるメディアは、メディアガラパゴスに取り残されている。
 歴史の出来事を、”事件”のように扱っている時点で、既存の歴史観と変わりなく、古い思考特性なのだ。
 一人のヒーローと、それに関わった他者によって、歴史が動いてきたかのように思っている人が多いが、真相は、それほど単純なものではなく、複合的で、重層的なものだ。
 「つまるところは」とか、「要するに」、とか、「早い話が」とか、なるほどガッテンのところに導く方法は、現代のインテリ(もどき)ガラパゴスの世界では人気を得る秘策なのかもしれないが、そうした他者理解の方法は、100年も前にレヴィー・ストロースが批判している。
 レヴィー・ストロースが生きた時代、植民地主義のヨーロッパの学者たちは、現地を訪れることもなく、植民地から盗んできた遺物や文化的産物を、自分たちの価値観の範疇であれこれ分析して整理して博物館に陳列し、多くの見物人は、それを物珍しそうに見ていた。そもそもが自分たちの価値観の範疇で整理しているだけだから、自分たちの価値観の幅を広げたり、深めたりすることはなかった。ただ単に、少し物知りになり、それが教養とされ、いわゆる教養人は、自分の思考や価値観に、よりいっそう頑迷になるだけのことだった。ヨーロッパ以外の他者と接点をもっているのに他者理解には至らず、逆に、区別と差別の意識を強めただけだった。
 こうした他者分析が、現代社会では、ネットで誰でも触れることのできる娯楽に成り下がっただけのこと。現代では、そうした知識情報を誰でも簡単に手にいれることができるので、もはや教養ともよばれず、「話題」についていけるかどうかというレベルであり、未知との向き合い方が、そこまで頽廃している。
 未知のことが単なる話題にすぎないというのは、未知もまた既知の枠組みに押し込まれているだけのこと。
 未知というのは、可能性とアクセスしているからこそ未知なのであって、だから未知と向き合うには覚悟が重要であり、ある種の畏怖と敬意が生じ、それが心構えや作法に反映される。
 畏怖と敬意が含有されていない表現は、信じるに値しない。
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 新刊の「かんながらの道」は、書店での販売は行わず、オンラインだけでの販売となります。
 詳細およびお申し込みは、ホームページアドレスから、ご確認ください。よろしく、お願い申し上げます。https://www.kazetabi.jp/
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 また、新刊の内容に合わせて、京都でワークショップを行います。2月の東京のワークショップは、2月6日から17日まで写真展を開催しますので、その後、23日(日)、24日(月)に行う計画です。
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<京都>日時:2025年1月12日(日)、1月13日(月) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅