大山崎山荘美術館にアンドリューワイエス展を見に行った後、すぐ近くの離宮八幡宮に立ち寄った。
ここは気になる聖域であるため、何度も立ち寄っているのだが、この対岸の男山に鎮座する石清水八幡宮の元宮で、石清水八幡宮の創建の1年前の859年に、九州の宇佐八幡宮から八幡神が勧請されたという伝承がある。
もともとこの場所は、嵯峨天皇と、皇后の橘嘉智子の離宮だったのだが、背後の天王山の頂上近く、および離宮八幡宮の境内に、橘氏(県犬養氏)の氏神である酒解神(=大山祇神)が祀られていることから、橘氏と関わりが深い場所だったと考えられる。県犬養氏というのは、犬養という名からも、南九州の海人勢力(隼人)の可能性が高く、藤原不比等の後妻である県犬養三千代(光明皇后の母)が、元明天皇の信頼を受けて、朝廷内で基盤を築いていった。
離宮八幡宮や石清水八幡宮が鎮座するこの場所は、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる場所で、かつては巨椋池と呼ばれる巨大な内陸湖であり、数多くの船舶が集まる水上交通の重要拠点だった。
石清水八幡宮は、860年に創建された時から、賀茂神社、松尾大社、春日大社などと同等の待遇を受けていた。
そして、平安時代後期、白河法皇の時、石清水八幡宮は、伊勢神宮とともに、二所の宗廟として崇敬されるようになった。
二所の宗廟というのは、皇室が先祖に対して祭祀を行う二つの廟のことであり、伊勢神宮が該当するのは理解できるが、なぜか、石清水八幡宮もそういう位置づけとなっているのだ。
日本の神社のなかで最も数が多いのが八幡神社(数多くの神社の境内摂社になっている稲荷神社を除く)だが、なぜ、これほど数多くの八幡神社が各地に存在するのか、説得力のある説明をしているものを見たことがない。
ちょっと歴史に詳しい人は、八幡太郎義家(源義家)が、石清水八幡宮で元服をしたように、八幡社は、源氏の氏神で、その影響で、武士の時代に武神として信仰され、各地に広がっていったと説明する。
しかし、義家が石清水八幡宮で元服を受けたのは、1046年だが、石清水八幡宮は、それ以前から、重要な聖域だったのだ。源氏の氏神だったから八幡神の影響力が日本中に広まったというより、源氏が、八幡神の威光、および背後の勢力を利用したと考えた方が納得できる。
八幡神は、古事記や日本書紀には登場せず、歴史の表舞台に現れるのは、奈良時代、東大寺大仏の建立の時である。
大仏を作るためには、銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンという膨大な金属資源が必要だったと考えられているが、その時、宇佐の八幡神から「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」という協力の託宣が出された。その後すぐ、陸奥国から金が献上された。
そして、大仏完成の時に、九州から畿内へと迎えられ、生駒山麓の平群の地からは、神輿にのって平城京入りをする大セレモニーが演出された。
その時すでに、八幡神というのは、神仏習合の八幡菩薩神であった。
生駒山は、東大寺大仏を作る際に聖武天皇が頼った行基の墓がある所だが、その麓の平群は、瀬戸内海と奈良盆地を結ぶ大和川沿いの要所であり、ここに、平群坐紀氏神社が鎮座している。その近くには、和歌山の紀ノ川流域と瀬戸内海沿岸に見られる石棚付き石室を持つ古墳が築かれていることから、紀ノ川および瀬戸内海にかけて活動していた海人勢力の紀氏の拠点であったことがわかる。
そして、石清水八幡宮の神職も、ずっと紀氏が世襲してきた。
そうしたことから、この八幡神の背後に、紀氏の海人勢力が関わっているということが想像できる。
しかし、八幡神というのは一神ではなく、応神天皇と神功皇后と、比売神が一体となっており、中央に祀られるこの比売神が何ものかが謎となっており、宗像三女神であるとか、豊後の土着神であるとか、様々な説がある。
八幡神社の祭神のうち、応神天皇に関しては、6世紀後半に創建されたと伝えられる日本最古の八幡宮、羽曳野市の誉田八幡宮が関わってくる。
この八幡宮は、誉田御廟山古墳(応神天皇陵とされる)の南に鎮座しているが、宇佐八幡宮とは異なり、比売神は祀られておらず、応神天皇と神功皇后の二神が主祭神だ。
ここは、朝鮮半島の任那の復興と新羅討伐を宿願としていた欽明天皇によって、応神天皇陵の前に神廟が設置されたことをもって創建としている。
つまり、6世紀、欽明天皇の時代、海を越えた新羅との戦いにおける守護神として、応神天皇が位置付けられたと考えられる。
そして、この誉田八幡宮には、当宗神社が合祀され、現在は境内に鎮座しているのだが、これは式内社であり、誉田八幡宮より古いとされる。
当宗というのは、渡来人で特に軍事において活躍した東漢氏系坂上氏の一族であり、応神天皇の時代とされる5世紀前半に来日したとされ、応神天皇陵の南一帯を拠点としていた。
坂上は、桓武天皇の時代の蝦夷征伐などで活躍した坂上田村麻呂が有名だが、石清水八幡宮が創建された時(860年)の清和天皇の後裔にあたる清和源氏が、摂津の多田に拠点を置いて勢力を拡大していった時の軍事部門を担っていた。
さらに、その坂上系の当宗氏の娘、班子女王が、867年に宇多天皇を産んでいる。
宇多天皇は、その時点では将来天皇になる予定はなく、源氏の身分に臣籍降下した後、突如、天皇に抜擢され、菅原道真を重用して行政改革を進める。
菅原道真が太宰府に左遷されて亡くなった後も、法皇として政務を司り、道真の怨霊を武器に、改革を進めた。その改革とは、人頭税の廃止であり、これを機に、日本は、律令制から封建制の時代へと移行していく。
6世紀の欽明天皇の時代に、新羅討伐のための軍神として応神天皇陵の南に応神天皇が祀られたわけだが、九州の宇佐八幡宮の社伝においても、同じ欽明天皇の時代(571年)に、鍛冶の翁が降臨して、三歳の童となり、応神天皇の権現であると託宣したと伝えられている。
この宇佐神宮の場所は、瀬戸内海の西端にあたるのだが、朝鮮半島において新羅の勢力拡大で任那の地を奪われた時、任那の経営に携わっていた紀氏などの海人勢力が移ってきた場所である可能性が高い。
この勢力が辛島氏で、宇佐八幡宮の社家の氏族だったのが、辛島氏の「から」は朝鮮半島の任那の地にあったいくつかの国々の総称である「加羅」と同じで、そのため一般的に渡来系とされるが、そうではなく、日本から任那の経営に赴いていた人たちであったろう。辛嶋氏の系図では五十猛神の末裔となっており、五十猛神の主たる聖域は和歌山県の紀ノ川流域の伊太祁󠄀曽神社や日前神宮、さらに、伊豆半島各地に鎮座する来宮神社であり、いずれも海人勢力と関わりが深い場所だ。
新羅によって朝鮮半島を追い出される形となって海人勢力が、欽明天皇のもと新羅奪回のための重要戦力として、豊後半島周辺に拠点を置いていたが、同時に、畿内においては、渡来系の軍事勢力である東漢氏坂上系の当宗氏もまた、その役割を担い、大和川沿いの応神天皇陵の南側に拠点を置き、彼らの軍神として応神天皇を祀り、それが八幡神のもとになった。
八幡神のもう一神である神功皇后は、応神天皇の母親で、新羅討伐の国威発揚のために創造された神話上の人物だと考えられるが、神功皇后の参謀の武内宿禰が、紀氏の祖とされるように(神功皇后と武内宿禰のあいだの子が応神天皇という説もある)、紀氏と関わりが深い。
この軍事勢力が、大きな力を発揮したのが、奈良時代の聖武天皇の時だった。
8世紀前半、九州南部で隼人の乱や、藤原広嗣の乱が起きた。この鎮圧において活躍したのが、豊後半島のあたりを拠点としていた勢力であり、彼らが、隼人を殺戮した後、その魂を鎮めるために始まったのが、ヤハタ神だった。
そして、藤原広嗣の乱が起きた時、紀飯麻呂が副将軍に任命されるなど、紀氏は、この乱の鎮圧に大きな役割を果たした。
この時点ではヤハタ神はローカルな存在であるが、この勢力が九州の乱を鎮めることに貢献した後、仏の前に一つの国づくりを進める象徴として奈良の大仏造立が行われた時、これを支援するという形で神託を出し、大仏完成の時、神輿にのって平城京入りをする大セレモニーが演出され、人々の前に八幡菩薩神の存在が植えつけられた。
現在、各地の神社の祭りで見られる神輿は、この八幡神の神霊が乗る神輿が始まりだという説がある。
八幡神を形成する三神のうち、応神天皇と神功皇后の背景は、上に述べたとおりだが、だとすると、三神のうち中央に祀られている比売神が何なのかという謎が残る。
日本書紀の第三の「一書」では、宗像三女神は、先ず筑紫の宇佐嶋の御許山に降臨し宗像の島々に遷座されたとある。
御許山というのは、宇佐八幡宮の奥宮であり、ここに降臨した女神が、宇佐神宮の本殿二之御殿(真ん中の位置)に祀られていると考えられている。
宗像大社の方でも、宗像三神は、「八幡宮の根本神」と伝えられている。
しかし、続日本紀(797年)では、豊比売命が、八幡比売神であると記されている。
豊比売というのは、宇佐八幡宮の少し北の福岡県田川郡に聳える石灰岩の香春岳の山頂に鎮座していた香春神社の祭神三神のうちの一神だ。
また、香春神社の祭神の辛国息長大姫大目命が、宇佐八幡宮に祀られている神功皇后(息長長足姫尊)と重ねられている。
香春岳では、奈良時代に銅鉱石の採掘が行われていたが、香春という名は、朝鮮半島の由来とされる。
つまり、上に述べたように新羅の勢力拡大で朝鮮半島から追い出された海人勢力が、後に辛島氏となったが、まずは、香春岳周辺に拠点を置いた可能性があり、ここから宇佐神宮あたりまで勢力基盤を広げたのだろう。
そして、この豊比売がどういう神なのかが詳しくはわからないが、豊玉姫のことだという説もある。
だとすると、宇佐八幡宮の比売神は、宗像三神であれ豊玉姫であれ、海人勢力と関わりの深い女神である可能性が高い。
八幡神は、古代の軍事部門を担った東漢氏系の当宗氏と、新羅との攻防に深く関わった紀氏など海人勢力が、背景に見え隠れする神であり、この勢力が、奈良時代の隼人の反乱や藤原広嗣の乱の鎮圧に力を発揮し、東大寺大仏の完成とともに国家鎮護の役割を果たすことで歴史の表舞台にでてきた。
そして、9世紀後半、政治的混乱と天変地異が著しかった貞観の時代、畿内に石清水八幡宮が創建された。宇多天皇の母親が、八幡神と関わりのある当宗氏であり、もしかしたらこの軍事勢力も、10世紀初頭の宇多天皇の政治改革の背後で、菅原道真の祟りとされる怨霊騒ぎに関与していたかもしれない。
源氏は、この八幡神を氏神としたわけだが、それは単なる神頼みではなく、八幡神の背後の勢力を味方につけることが重要だったのではないか。
清和源氏の軍事部門は、この八幡神と関わりの深い東漢氏系の坂上氏が担っていた。さらに、源頼朝を支えていた北条時政は、父親は誰だかわからないが、母親は紀氏と同族の大伴氏であり、奈良時代にの746年に大伴家持が創建した富山県の放生津八幡宮を再興した。
源頼朝は、神奈川県真鶴付近で石橋山の戦いで敗戦するが、真鶴岬から船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出し、この地の豪族、上総氏と千葉氏に加勢を要請した。
死の瀬戸際にいた源頼朝が海を渡れるよう支援した海人がいなかったら歴史が変わっていただろう。
安房国の房総半島最南端部には、安房神社が鎮座する。ここは古代からの海人の痕跡が多く残るところで、神話時代に徳島県から渡ってきた忌部氏による創建とされるが、この地に郡司職や祭祀者として忌部氏の名はほとんど見られず、『先代旧事本紀』で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする記録をはじめ、ここでも大伴一族が国造を担っていた。
この房総半島で力を盛り返した源頼朝は、鎌倉入りをし、鶴岡八幡宮を守護神に位置付けるわけだが、鶴岡八幡宮の初代の神官は、大伴氏の伴忠国であり、その後、鶴岡八幡宮の神職は、明治維新まで大伴氏が世襲してきた。
紀氏や、その同族の大伴氏は、学校の教科書では藤原氏との権力闘争に負けたとだけ教えられるが、実際には、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の神職として、中世の時代を生き抜いている。
中世、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮は、全国にも領地を所有していた。
学校の勉強では、中央の権力争いで歴史が動いていくかのように、その時々の権力者のことばかり覚えさせられるが、実際は、その陰で、どういう動きがあったかが大事だし、神々のことも、神々の背後にどういう勢力が存在していたかを考えることの方が、歴史の流れを読み解くうえで重要だ。
八幡社のように全国的に神社が展開しているのは、その関連勢力が、全国的に展開していったことを示している。
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<京都>日時:2024年1月12日(日)、1月13日(月) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅)