第1242回 源頼朝を支えた北条時政の背後の力!?

奈呉の浦の雨晴海岸(富山県高岡市)。万葉の歌人大伴家持は、この雨晴の風景をこよなく愛し多くの歌を詠んだ。浜から眺める岩礁と、富山湾越しに3,000m級の立山連峰がそびえる。(この日は天気が悪くて立山連峰が見えなかった)。

 富山県の奈呉の海岸は、能登半島によって日本海の荒波から守られ、穏やかな内海になっている。

 ここは、江戸から明治にかけて北前船の寄港地として栄えたところだが、現在でも、内川の両岸には漁船が係留され、風情のある民家が軒を連ねている。

 この地に、放生津八幡宮が鎮座している。この八幡宮は、万葉歌人で政治家でもあった大伴家持が、746年に創建したとされる。

 八幡神を祀る神社は、今でこそ日本でもっとも数多いが、八幡神は、古事記(712)や日本書紀(720)に登場しない。745年から752年にかけて行われた東大寺大仏の造立の際、国家の守護神として歴史に華々しく登場した。(それまでは九州の豊前の一地方神だった)

 その歴史背景として、天然痘の大流行と、九州で起きた藤原広嗣の乱があり、この緊急事態に、聖武天皇は、それまで宗教的に弾圧されていた行基の力を頼り、律令制の縛りをゆるめ、人々が自分の土地を離れ、自ら進んで大仏造立の仕事にくわわることを認めた。

 奈良の大仏の造立は、よく言われるように人民を搾取して強制的に使役することで成し遂げられたのではなく、行基集団が信仰心に基づいて行っていたボランティアの社会活動の延長にあった。聖武天皇は、この民力を、天然痘で人口の半分から三分の1が失われた社会の立て直しに生かそうとした。

 同じ頃、大伴家持は、越中国守として富山に赴任した。その任務は、東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることだった。正倉院に保管されている東大寺墾田地地図の24枚のうち17枚までが、大伴家持の赴任した越中国のものである。さらに、この奈呉の地は、古代から海人の拠点であり、海産物や、海上交易による富も、重要だったのではないかと思われる。

 そして大伴家持は、この奈呉の地に、豊前宇佐八幡宮から勧請して放生津八幡宮を創建した。石清水八幡宮(860年創建)より100年以上も古く、国家の守護神としての八幡神を祀る聖域としては、日本最古級となる。

放生津八幡宮 (富山県射水市)。鎌倉時代、大伴氏の血を受け継ぐ北条時政が、再興した。

  奈呉という地名は、大伴氏が拠点としていた大阪の住吉神社周辺の古代の地名でもあり、ここも、瀬戸内海から大陸へと向かう海上交通の玄関口であった。

 そして、伊豆半島伊豆の国市にも、”なご”の名がつく奈古谷集落があるが、ここは、鎌倉時代の執権政治の基礎を築いた北条時政が治めていたところで、伊豆に配流されていた源頼朝と邂逅したところだった。

 この地も水上交通と関わりが深く、この場所を流れる狩野川流域は、古代から、船の建造に適したクスノキの産地であり、古事記のなかにも、応神天皇が、この地で船を作らせたという記録がある。また、この地に鎮座する奈胡谷神社の敷地からは、古代住居跡や土器片・玉類の祭祀遺物が出土しており、ここが古代の祭祀場だったことが分かっている。また、当社の御神体の石捧は、縄文時代以來、伝存されたものだという。

 そして、北条時政は、鎌倉時代、富山の奈呉の地の放生津八幡宮を再興した。北条時政というのは歴史上に名を残す人物であるが、父が不明確で兄弟の存在もわからない謎の人物だ。しかし、母親は、大伴氏の伴為房の娘であり、伴為房を伴善男の後裔とする系図が存在している。

 伴善男というのは、平安時代応天門の変藤原氏との権力争いに敗れて失脚し、伊豆に配流された大伴氏の代表的人物である。

 大伴氏は、奈良時代中旬まで朝廷内で大きな力をもっていたが、長岡京の変(785年)で藤原氏によって多くの大伴氏の有力者が死罪となり、その時、すでに亡くなっていた万葉歌人大伴家持まで、陰謀の罪があったとされた。

 この長岡京の変によって朝廷内で力を失った大伴氏にとって最後の一撃となったのが応天門の変(866)だとされる。これを機に、藤原氏の独裁的な権力が確立されたというのが歴史の教科書で習う内容だ。

 しかし、藤原氏によって歴史から抹消されたように語られる大伴氏は、明治時代の前まで鶴岡八幡宮神職世襲し続けた。また、長岡京の変で、大伴氏の共犯とされた佐伯氏(大伴氏と同族)は、広島の厳島神社や、福岡の住吉神社神職世襲し続けた。いずれも海上交通と非常に深い関係のあるところだ。

 そして不思議なことに、北条時政が伊豆を治めていた頃、福岡の住吉神社の神官だった佐伯昌長が、中国貿易をめぐる平清盛との軋轢で伊豆に配流されており、彼の占筮(ぼくぜい)によって、源頼朝は、1180年8月17日を平氏打倒の挙兵の日と決めたと吾妻鏡に記録されている。

 伊豆に流されていた源頼朝による平氏打倒のための挙兵の背後に、藤原氏によって歴史から抹殺された大伴氏や佐伯氏が関わっている。( NHK大河ドラマではスルーされているだろうが)。

 そして、平氏打倒の一歩を踏み出した源頼朝は、神奈川県真鶴付近で石橋山の戦いで敗戦するが、真鶴岬から船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出し、この地の豪族、上総氏と千葉氏に加勢を要請した。

 滅亡寸前の源頼朝が海を渡れるよう支援した海人がいなかったら歴史が変わっていただろう。

 安房国の房総半島最南端部には、安房神社が鎮座する。ここは古代からの海人の痕跡が多く残るところで、神話時代に徳島県から渡ってきた忌部氏による創建とされるが、この地に郡司職や祭祀者として忌部氏の名はほとんど見られず、『先代旧事本紀』で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする記録をはじめ、ここでも大伴一族が国造を担っていた。

 この房総半島で力を盛り返した源頼朝は、鎌倉入りをし、鶴岡八幡宮を守護神に位置付けるわけだが、鶴岡八幡宮の初代の神官は、大伴氏の伴忠国であり、その後、鶴岡八幡宮神職は、明治維新まで大伴氏が世襲してきた。

 京都で藤原氏との政争に敗れた大伴氏は、どうやら東国において、海人ネットワークを掌握し続けていたのではないかと思われる。

 さらに、源頼朝を支え続けた北条時政は、大伴家持が創建した富山の奈呉の放生津八幡宮を再興し、この神社の神職は、今日まで、大伴氏が世襲しているのだ。

 ちなみに、この富山県の奈呉の浦は、平氏を滅ぼした後、源頼朝と対立することになって京都より脱出した源義経が、奥州藤原氏を頼って逃避行を行なった時のルートの候補の一つでもある。

 源義経一行は、この海岸で急な雨に遭い、弁慶が大きな岩を持ち上げ、一行が雨宿りできるようにしたという伝承が残る場所が、義経岩である。このあたりの地名である雨晴は、この義経一行の伝承に由来する。

奈呉の浦の雨晴海岸にある義経

 平安時代、朝廷内の権力争いで藤原氏によって葬られたかのように伝えられる大伴氏は、違うかたちで歴史の中を生き延びており、その影響力を行使した期間は、藤原氏よりも長かった。

 私たちは、都の中心にいることが権力の中心にいることだと思いがちだが、それは城壁都市の発達した大陸の国にあてはまることで、城壁都市の発達しなかった日本という国は、ネットワーク型の世界だったのではないかと思われる。だから、日本の天皇は、中国の皇帝やヨーロッパの王のような絶対権力者ではなく、どちらかというと、各地を結ぶネットワークを機能させる祭祀の要にある権威的存在だ。

 そして、そのネットワークは、日本列島内を網の目のように張り巡っている川と海の交通が重要な鍵を握っていた。

 特に、潮の流れが読みにくく座礁もしやすい瀬戸内海や、荒れやすい日本海は、大陸との交流においても重要な場所でありながら、エンジンを持たない船で航海することは簡単でなかったはずで、その専門集団は、歴史的に大きな役割を果たし続けていたことは間違いない。

 

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