第1209回 義務教育の教科書や大河ドラマでは伝わらない歴史背景

 

新しく始まった大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。できるだけ史実に寄り添って、それ以外は自由に、という発想で作られているということなので、ウケ狙いの演出が目にあまるが、史実に寄り添ってという方針に期待して、これまで見てきた。

 昨日は、源頼朝の挙兵という、日本史の中でも時代の転換点にあたる話だったのだが、史実に寄り添ってと言いながら、テレビ局が考える史実とは、義務教育の教科書レベルに少し毛の生えたものなんだということを再認識しただけだった。

 とくに新しい解釈を作り出す必要はないが、歴史的な記録として残されている事実であっても、教科書では事情が複雑ゆえに無視されていることがあり、そこに大事なことが隠れている。

 史実に寄り添うというからには、そのように教科書では無視されている事実に、どう向き合うかという姿勢が問われる。

 源頼朝が挙兵を決めたのは、1180年8月17日で、これは伊豆の三嶋大社例大祭の日だが、昨日のテレビでは、源頼朝と北条家の者たちが、おみくじを引いて日取りを決めるという陳腐な設定になっていた。

 吾妻鏡には、佐伯昌長の占筮(ぼくぜい)=占いによって、この日が決まったと書かれている。

 佐伯昌長というのは、筑紫国住吉神社の神官だが、源頼朝と同じく、平氏によって伊豆国へ配流されていた。

 その理由は、それまで住吉神社が担っていた中国貿易を、平清盛が奪い取って独占し始めた時に抗議を行ったからだ。

 住吉の神は、大阪の住吉大社が総本社と位置付けられているが、大阪の住吉大社は後からできたもので、筑紫の住吉神社こそが、起源とされる。

 住吉の神は、色々と謎の多い神だが、中国貿易を担っていた事実からもわかるように、海上輸送や海上交易に関わっていた。

 北条時政が大事にしていた伊豆の三嶋大社も、もともとの祭神は、オオヤマツミ神であり、この神は、山の神であるが渡しの神であり、つまり水上交通の神である。その理由は、山の材木資源が、造船に欠かせないからであり、伊豆は、古代から造船に最適のクスノキの重要な産地だった。

 そして、筑紫の住吉神社は、歴代、佐伯氏が神職をつとめている。(後に佐伯氏の末裔の横田氏となっている)

 佐伯氏というのは大伴氏と同族で、平安時代の初期に、藤原氏との政治闘争に敗れ、中央政治からは遠ざかっていた。

 大伴氏が、中央の政治から完全に失脚したのは、866年の応天門の変で、これによって大納言の大伴氏の伴善男もまた、伊豆へ配流されていた。

 源頼朝を支え続け、鎌倉時代の執権政治の基礎を築いた北条時政は、この伴善男の末裔と考えられている。

 源頼朝の挙兵を支援した北条時政は謎が多く、その父も不明確で兄弟の存在もわからないのだが、母親は、大伴氏の伴為房の娘であり、伴為房を伴善男の後裔とする系図が存在しているのだ。

 実際に、北条時政は、自らを大伴氏の後裔と意識していたようで、富山県の奈呉に鎮座する放生津八幡宮を再興している。

 放生津八幡宮は、万葉集の編纂に関わった大伴家持の創建であり、現在の宮司の大伴泰史は、大伴家持から数えて65代にあたる。

 「奈呉」という地名は、大伴氏が拠点としていた大阪の住吉神社周辺の古代の地名でもある。

 また、北条時政が治めていた伊豆の国市にも、”なご”の名がつく奈胡谷神社が鎮座している。これは、狩野川の東2.5km、奈古谷集落の西に突出した岬状の台地の上だ。

 大伴家持歌人として有名だが、奈良時代の高級官吏でもあった。

 746年から751年まで、大伴家持越中守として富山に赴任していた。その任務は、聖武天皇が国家的大事業として建立しようとしていた東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることだった。正倉院には東大寺墾田地地図が保管されているが、24枚のうち17枚までが越中国のものだ。そして、東大寺建立には八幡神が大きく関係している。宇佐の八幡神から全面的に協力をするという託宣があり、大仏を作るために必要とされた499.0トンもの銅の調達が可能になった。

 八幡神社は日本で最も多い神社だが、大分にある宇佐八幡宮が、その総本社とされる。宇佐八幡宮から八幡神を勧請された京都の石清水八幡が、清和源氏と関わりが深いことは知られているが、その創建は、860年であり、富山の放生津八幡宮は、それよりも100年以上古い746年に創建されている。

 八幡神は、712年に完成した古事記や720年に編纂された日本書紀には登場しない神なので、富山の放生津八幡宮というのは、日本史に八幡神が登場する最初の段階に創建された神社ということになる。

 富山の名呉は、日本海の荒波から守られる立地で、江戸時代には北前船の寄港地になった海上交通の要で、古代から海人が活躍していた。

 大阪の住吉大社のある奈呉の地も海上交通の拠点であり、そこに大伴氏が関係していた。そして、北条時政が治めていた伊豆の国市にも奈古谷集落があるように、ここも水上交通と深く関わっていた。というのは、この場所を流れる狩野川流域は、古代から、船の建造に適したクスノキの産地であり、古事記のなかにも、応神天皇が、この地で船を作らせたという記録がある。

 伊豆の国市の奈胡谷神社の敷地からは、古代住居跡や土器片・玉類の祭祀遺物が出土しており、ここが古代の祭祀場だったことが分かっている。また、当社の御神体の石捧は、縄文時代以來、伝存されたものだという。

 一つ不思議なのは、源頼朝応天門の変伴善男、筑紫の住吉神社の神官、佐伯昌長が伊豆に配流されているが、罪人であれば、もっと過酷な地に流せばよいのに、なぜ伊豆なのかということだ。

 伊豆は、古代からけっこう栄えていた場所であり、舟はめったに通わず人も稀であったという鬼界ヶ島(平家打倒の陰謀が露見して俊寛などが流された所)とは過酷さがまったく違う。

 そして、源頼朝の挙兵の背後に、頼朝が伊豆で出会った大伴氏と佐伯氏の末裔の影が見え隠れする。

 教科書では特に取り上げられないが、源頼朝が鎌倉を拠点にした時から、鶴岡八幡宮を守護神に位置付けるわけだが、鶴岡八幡宮の初代の神官は、大伴氏の末裔の伴忠国であり、その後、鶴岡八幡宮神職は、明治維新まで大伴氏が世襲しているのだ。

 佐伯昌長の占筮(ぼくぜい)によって1180年8月17日に平氏打倒の一歩を踏み出した源頼朝は、神奈川県真鶴付近で石橋山の戦いで敗戦するが、真鶴岬から船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出し、この地の豪族、上総氏と千葉氏に加勢を要請した。

 安房国の房総半島最南端部には、安房神社が鎮座する。神話時代に徳島県から渡ってきた忌部氏による創建とされるが、この地に郡司職や祭祀者として忌部氏の名はほとんど見られず、『先代旧事本紀』で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする記録をはじめ、ここでも大伴一族が国造を担っていた。

 千葉氏の千葉常胤は、安房に上陸した源頼朝から加勢を求められ、これに応じ、その後、平家との戦いや、奥州藤原氏との戦いで活躍し、千葉氏は、鎌倉幕府において有力な御家人となり、その後、守護大名戦国大名となった。

 源頼朝が、船で千葉県南部にわたったこと、そして、この地で大伴氏の後裔の協力を受けて体制を整えたこと。それによって、次々と東国の豪族の支援をとりつけ、鎌倉入りを果たしたこと。

 平氏打倒の初期段階における源頼朝の背後にいた勢力の動き。

 実は、古代最大の内乱である壬申の乱(672年)においても、似たようなことがあった。

 飛鳥時代、大伴氏は、蘇我氏物部氏とともに有力な氏族であったが、天智天皇の時、大伴馬来田と大伴吹負の兄弟は、病を理由に自宅に退いていた。

 その理由として、彼らは次の天皇大海人皇子(後の天武天皇)に違いないと考えて、天智天皇の死後、挙兵しようと準備をしていたのだった。

 そして、672年に大海人皇子が挙兵のために東に向かうと、大伴馬来田はその後を追い、大伴吹負は奈良に残って、敵方の大友皇子天智天皇の子)の側にいた勢力を攻め、勝利し、大友皇子についていた穂積氏をはじめ多くの氏族を味方にすることに成功し、その成果によって大海人皇子側の将軍となった。

 壬申の乱の時の大海人皇子に味方した氏族は、地方豪族や中小の氏族が多く、中央の大氏族は大伴氏くらいで、その功績を、天武天皇は高く評価した。

 大阪の水上交通の要を拠点としていた大伴氏は、おそらく、水上交通を通じて全国の中小豪族と連携する力があったのだろう。

 筑紫の住吉神社の神官をつとめながら中国との交易を行っていた大伴氏の同族の佐伯氏も同じで、たとえば瀬戸内海交通の要にある安芸の厳島神社の神官も、創建が佐伯氏で、その後も、佐伯氏が世襲している。佐伯という地名や、佐伯姓が集中するところは、明石海峡を前にした播磨町、豊後水道を前にした大分の佐伯市空海(本名は佐伯真魚)の出身の讃岐、安芸など、瀬戸内海交通の要の地に今も残っている。

 その海上ネットワークをもとにした地方豪族が、壬申の乱や、源頼朝の挙兵という天下分け目の戦いにおいて、陰で大きな力を発揮している。

 教科書では、大伴氏や佐伯氏は、平安時代初期、藤原氏との政治闘争に敗れたとしか取り上げられないが、中央での権力争いの後、地方に下って、そのネットワーク力を維持していた。

 歴史が動く時というのは、中央の権力者の交代がクローズアップされるが、中央の実権を誰が握ろうとも、地方の営みは、そんなに大きく変わるわけではない。

 とくに海人と呼ばれる人たちの営みは、太古の昔から、そんなに変化していない。彼らは、源平の戦いや戦国時代など、歴史的な節目において、その水軍力で大きな力を発揮しているが、勝利の後、それまでの暮らしを捨てて陸にあがって権力争いを繰り広げることを行っていない。

 日本は海に囲まれており、海の恩恵で、豊かな生活は十分に可能であり、その生活を捨てる意味がなかったのではないか。

 教科書などにおける歴史は、中央の政権交代を時系列で伝えることに重点が置かれている。しかし、歴史は、中央の政治だけで動いているのではない。

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

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