今回の旅で最後に訪れたのが筑波山。
筑波の地は、東国の神々を神話的に統合していく拠点だったのではないかというのが、私の仮説。
筑波山は、標高877m、男体山と女体山の二つの頂きを持つ双耳峰だが、広大な関東平野のどこからでも、その印象的な山容が見られる。
また、筑波山の麓に立てば、天気の良い時には富士山が見える。この二つの山は古代から聖なるランドマークであり、例えば武蔵一宮である埼玉の氷川神社は、筑波山と富士山を結ぶライン上に鎮座している。
畿内の場合は、筑波山のような双耳峰で奈良盆地のどこからでも印象的な姿を確認できるのが二上山(奈良県葛城市と大阪の太子町のあいだ)で、筑波山のような裾広がりの美しい姿を遠くから望めるのが近江富士の三上山(滋賀県野洲市)だ。
そして、三上山の麓からは日本最大の銅鐸が出土し、二上山の麓の石灰岩は、大王の石と称されるように畿内の大王クラスの古墳の石棺に使われていた。
三上山も、二上山も、古代世界における祭祀と深い関わりがある山だということになるが、筑波山も同じで、古墳時代終末期における常総地域の古墳で、筑波変成岩が使われた箱形石棺が多くみられる。
古代、筑波地域の中心は、筑波山の東麓の石岡市で、この場所には、墳丘長186mという関東地方で二番目の大きさを誇る舟塚山古墳をはじめ、数多くの古墳があり、国府もまたここに築かれた。
また、奈良時代から平安時代にかけての武器製造拠点だと考えられている鹿の子遺跡も、石岡にある。
石岡という地名の由来はわからないらしいが、筑波山というのは、古代から、「石」が重要な意味を持つ山である。
筑波山は約8000~6000万年前に地下深くでゆっくりと冷え固まったマグマが岩石となって隆起した山で、山頂から中腹にかけては風化や浸食に強い斑れい岩、中腹から山麓は花こう岩でできており、南に連なる山々は、海底にたまった砂や泥がマグマの熱で変質を受けた変成岩でできている。
このうち変成岩は、上に述べたように箱形石棺で用いられているが、筑波山系の花崗岩は、「真壁石」とよばれ、近代でも良質の石材として迎賓館や国会議事堂などに用いられた。
石岡の地は、今から1万年以上も前の旧石器・縄文時代から弥生時代にいたる数多くの遺跡があり、筑波山の石で作られた数々の石器も発見されている。
筑波山の東麓の石岡は、霞ヶ浦に面しているが、古代、このあたりには、大きさが東京湾に匹敵するくらいの内海があった。
香取神宮と鹿島神宮は、この巨大な内海の太平洋への出入り通路を両側から挟むように鎮座している。
国譲りの主役の二神が、この位置に祀られているのだから、この内海が、国の治世にとって、いかに重要な場所だったかがわかる。
この内海は、現在の霞ヶ浦のように内陸部に触手を伸ばすような形になっており、この水路が、物資輸送の大動脈であった。
さらにこの内海は、鬼怒川など多くの河川が流れ込んでおり、その上流には、西沢金山をはじめ、鉱物資源の豊かな山々があった。
これらの地を、古代、ヤマト王権が武力によって支配したとするのが、歴史の通説なのだが、果たしてそんなことが可能だろうか?
相手は、船を操ることに長けた人々であり、複雑な地勢を利用して、どんな戦いでも仕掛けられる。仮に、畿内から兵が送り込まれたとして、簡単に勝てるとは思えない。
石岡に築かれた巨大な舟塚山古墳は、5世紀前半に作られた畿内の前方後円墳と形が似ているので、ヤマト王権の影響が、この地に届いていることは間違いないだろう。
しかし、それが武力による支配だったとは限らず、別の角度からも考察する必要がある。
筑波の地が、なぜ筑波という地名になったのか?
『常陸国風土記』によれば、昔は「紀の国」だったこの場所の国造となった筑箪命が、自分の名前を使って「筑波国」と改めたとしている。
この時期は、第10代崇神天皇の時とする記録もあるが、はっきりはわからない。というより、崇神天皇というのが、何世紀のことなのか、史実なのかどうかもわからない。
ただ、この筑箪命という人物は、采女氏(うねめうじ)ということになっている。
采女氏を、古代豪族の中で有名な物部氏と同族としている文献もあるが、正確には、穂積氏である。穂積氏も物部氏と同族だという意見もあるが、それは、遠祖がニギハヤヒで同じだから一括りにしているだけで、大事なことは血統よりも氏族の役割だ。
物部氏は、とくに軍事的な役割の大きな氏族だった。
それに対して穂積氏の祖は、古代祭祀と関わりの深い大水口宿禰の子の忍山宿禰だが、この人物は、ヤマトタケルの妃となった弟橘姫(おとたちばなひめ)の父である。
三重県亀山市に忍山神社が鎮座するが、忍山宿禰は、この神社の神主となり、その子孫の穂積氏が神主を世襲してきた。
ヤマトタケルは、東征の途中にここに立ち寄り、この場所にいた弟橘姫を伴って東国に行く。しかし、相模から房総に渡ろうとする時に嵐が起きて、海神の怒りを鎮めるために弟橘姫が犠牲となって海に身を沈めた。嵐はおさまり、ヤマトタケルは房総に上陸し、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の地に入ったとされる。
玉浦を九十九里とする説もあるが、葦浦や玉浦がどこかはわかっていない。しかし、「葦」が生えているのだから外海ではなく、筑波山の南麓に広がっていた古代の内海かもしれない。
その移動の時、ヤマトタケルは大きな鏡を船に掲げていたとあるが、鏡は、ヤマト王権のシンボルであり、一種の宗教的啓蒙を意味しているのではないだろうか。
神話の中のヤマトタケルは、従者はいるものの軍勢を率いているようには描かれておらず、征服戦争のことが記録されているのではないように思う。
弟橘姫がいたとされる三重県の忍山神社から東に15kmほどのところに今も采女という地名がある。
采女というのは、一般的には、古代、朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行った女官とされるが、采女は地方豪族の出身者で、容姿端麗で高い教養力を持っていたため天皇の妾として子を産んだり、政治力を発揮する者もいた。
いずれにしろ、采女は、大王(天皇)と地方の豪族が一つの共同体となる仕組みであり、地方の祭祀を朝廷が吸収統合していく過程で成立していったと考えられ、ヤマトタケルの妃となった弟橘姫も、采女の一つの象徴だろう。
そして、この采女の統括を担当した氏族が采女氏であり、筑波の地の国造になった筑箪命が、采女氏の出身だった。
その歴史背景として考えられるのは、この筑波の地を拠点として、東国の豪族をヤマトの朝廷と結びつけるために、采女氏が役割を果たしたということではないだろうか。
采女のことを、江戸時代に江戸城に集められた大名の妻や娘のような人質だとする説もあるが、紐帯と考えた方がいいのではないかと私は思う。
結びつくことによって、お互いにメリットがある。支配による略奪や搾取ではなく、交換。
しかし、奉じる神が異なり死生観が異なると、対立の原因にもなりかねない。
そのため、宗教的な統合は重要だが、だからといって一つの絶対神を強要することは難しい。
そうした事情があって、日本の神々は、複雑な体系で表されるようになった。
そして、その複雑さが、カオスとならないよう神話のストーリーが作られた。
それが、イザナギとイザナミによる国産みと神産みなのだろう。陰陽の二神によって、この世の様々な神々が生み出されていくという物語が創造されたのだ。
そして、この創造の二神は、いつまでもメインの神としてこの世界に留まるのではなく、イザナミは黄泉の国へ、イザナギは、幽宮(かくれみや)に隠れた。
筑波山に鎮座する筑波山神社の社伝(『筑波山縁起』)によると、『古事記』にあるイザナギとイザナミによる国産みで産み出された「おのころ島」が筑波山にあたるという。
そして、双耳峰である筑波山の男体山と女体山に、イザナギとイザナミが重ねられて、現代の祭神となっている。
東国の神々の統合は、この筑波山を軸にして、国産みと神産みの物語と重ねられて、行われていったのではないだろうか。
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