第1228回 パンデミックの後にくるもの

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 松尾大社のそばの桂川の河岸では、バーベキューをする若者たちが群れている。 

 さすがに自粛生活も2年になると、我慢の限界であり、人との接触は増える。そのため新型コロナの感染者数が減らず、専門家が、また警鐘を鳴らしている。

 新型コロナについて語る時、過去のスペイン風邪などを持ち出す人がいるが、大きな違いがあり、今回のパンデミックは、病原体の問題というより一種の社会病のような気がする。

 スペイン風邪は、大戦と重なって環境が劣悪で栄養状態が悪い若者の多くが亡くなったが、今回は高齢者や成人病の人の犠牲者が多い。もしかしたら過去にも同じようなウィルスが登場していたかもしれないが、現在のような超高齢社会でなければ、誰も気づかないうちに終わっていた可能性がある。

 また、たとえば奈良時代に流行した天然痘や、ヨーロッパ中世のペストは、人口の半分から三分の一を奪ったが、今回の新型コロナウィルスの主な問題は、死亡者数ではなく、医療崩壊によって助かる命も助からないんじゃないかという、漠然とした不安現象だった。

 なので、戦争など、もっと目の前の危機や厳しい現実に追われている社会ならば、問題視すらされないものだろう。社会の混乱をさらに悪化させる病というより、社会が混乱してしまうと、後回しになるような問題だということだ。

 ただ、どんな形であれパンデミックというのは、社会に大きな変化をもたらす。ヨーロッパのペストは、神頼みの限界を知り、医療をはじめとする科学の発展へとつながる転機となった。

 そして、奈良時代天然痘の大流行は、日本人特有の信仰のあり方につながるきっかけとなった。

 大阪府柏原市に、石神社が鎮座しているが、ここは、かつて智識寺があったところで、奈良時代以降の精神革命のきっかけになったところだ。

 智識寺は、日本の歴史文化を考えるうえで、とても重要なところなのだけれど、そのあたりが、うまく伝えられていない。

 現地の説明書きにも、「仏教を信仰する知識と呼ばれる人々が建てたお寺です。」という何とも浅すぎる内容になってしまっている。

 この智識寺は、奈良時代聖武天皇がここを訪れた時に目にした盧舎那大仏の素晴らしさと、人々の信仰心に心を打たれ、東大寺の大仏を造立しようと心に決めたところだった。

 しかし、「知識」を仏教信徒と説明してしまうと、大きな誤解が生じる。

 なぜなら、奈良時代の前半まで仏教は、国家鎮護の宗教で皇族や貴族のためのものであり、一般民衆が仏教に関する宗教的活動をすることは禁じられていた。

 そうした一般民衆の信仰の中心にいたのが行基であり、行基は、信仰の力と社会事業を結びつけ、貧民救済や架橋や溜池づくりなどの事業なども行っており、行基を崇敬する人々は、行基集団として活動していた。その中には修験道者たちも多くいて、彼らは特殊な武術も用い、行基を守っていた。

 なぜ、これらの人々を朝廷が弾圧したのかというと、律令制というのは、人間が土地に根付くことを基本としており、社会事業のためといえども人々が自分の土地を離れてしまうことは、認めがたいことだったからだ。

 しかし730年代、天然痘の猛威が吹き荒れ、人口の3分の1から半分が亡くなったとされる非常事態が起きた。そうしたなかでも、行基集団の活動は衰えることなく、むしろ勢いを増し、そんな彼らが作ったのが、智識寺と、盧舎那大仏だった。

 国家の力とはまったく無縁に、信仰心ある人たちの財物及び労力によって、素晴らしい寺と盧舎那大仏が作られていたのを目にした聖武天皇は強く心を動かされた。

 そして、この精神こそが、天然痘で壊滅的な打撃を受けた社会を救う道だと確信した。

 おりしも、聖武天皇がこの智識寺を訪れた時は、九州で藤原広嗣の乱が起きた740年だった。

 この乱にしても、九州に左遷された藤原広嗣が起こした反乱と一般的には説明されているが、乱の鎮圧のため、東海道東山道山陰道山陽道南海道の五道の軍1万7,000人が動員されており、九州に左遷されて間もない藤原広嗣が、これだけの規模の朝廷軍に匹敵するような兵を簡単に集められるはずがない。

 朝廷への反乱は、藤原広嗣の左遷とは別に準備されていたはずである。九州では、律令制が始まった頃から、たびたび隼人が反乱を繰り返していたが、隼人に限らず、律令制に抵抗する氏族が、多く存在していたのだ。律令制というのは、先祖代々守ってきた土地を朝廷に差し出して、それを借受ける仕組みであり、当人たちの意思を無視して急激に共産主義社会にするようなものであり、抵抗する人たちがいて当然だ。

 しかし、聖武天皇に限らないが、律令制を整えてきた持統天皇元明天皇元正天皇などの女帝は、自分が、日本の土地を支配するなどという気持ちを持っているわけではなかった。

 律令制の理念は明白であり、それは、古事記などの国譲りの神話で語られるウシハクからシラスの国への移行だ。

 神話のなかでタケミカヅチは、大国主に言う。

 汝の国はウシハクだ。これからは、シラスの国にしようと。

 ウシハクというのは、強いものが全てを牛耳る国であり、シラスというのは、知らしめるということ、すなわち共有する国であるということだ。

 それまでのように豪族が土地を所有すると、その所有をめぐって争いが起きて、より強いものが、より大きな土地を支配していき、それを奪おうとする者とのあいだに、新たな争いが起きる。もうそういうことは辞めにしようよ、というのが国譲りの本意だ。国譲りの神話というのは、はるか古代に、大国主国津神)に該当する存在がいて、タケミカヅチ天津神)に該当する存在に国を侵略されたということではなく、8世紀、律令制が整えられて行く時に作り出された神話に違いない。

 こうした律令制のビジョンと理念はあるものの、具体的にどうしていけばいいのかという難問にぶつかっていた時、天然痘が猛威をふるい、九州で大規模な反乱が起きた。

 そのタイミングで、聖武天皇は、智識寺で、「これだ!」という体験をしたのだ。

 聖武天皇が「これだ!」と思ったのは、行基の精神と実践だった。

 律令制の理念とビジョンを具現化するための精神と実践とは何だったのか?

 行基集団の活動は、自らが菩薩になるために努力し活動し続けることが、結果的に衆生救済につながり、この世をよくするだけでなく、自らの魂の救済につながるという精神をもとに行われていた。

 衆生救済というのは、権力者や宗教的なカリスマ、救世主などによって実現するものではなく、一人ひとりが菩薩の心で活動することで実現するものであるということ。

 行基を中心にして広がっていたこの救済のビジョンは、その後の日本人の精神にもはかり知れないほど大きな影響を与えている。

 日本人は、今でも、そういう考えの人がけっこう多い。人のために尽くすことが、人を助けるだけでなく自分の救いにもつながるという考え方であり、救世主の到来を待ち、政治の専門家に幸福な社会の実現をまかせるのとは、かなり違う。

 日本人も西欧化によって、そういう受け身の救済を求める人が増えているが、そうでない人も多く残っている。

 これまで朝廷が弾圧していた行基集団であるが、聖武天皇は、行基を、仏教界の最高位である大僧正に任命した。これは日本の歴史で初めてのことだった。そして彼に東大寺大仏を作るための協力を依頼する。

 同時に、聖武天皇は、大仏造立のために詔を出す。

 「人々を無理やりに働かせるのではなく、この事業に自らの意思で加わろうとする者と一緒になって、ともに悟りの境地に達したい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを認めよう」と。

 聖武天皇は、行基に深く信頼を寄せ、行基行基集団の力を得て、 のべ260万人が工事に関わったとされる東大寺盧舎那大仏を完成させた。

 その時、九州のローカルな信仰だったヤハタ神(8世紀初頭、隼人の反乱を鎮圧した際に起きた殺戮後、その魂を鎮めるために始まった)が、藤原広嗣の乱の鎮圧と重ねられ、さらに大仏造立の支援をするという神託で人民を奮い立たせ、大仏完成の時、神輿にのって平城京入りをする大セレモニーが演出され、人々の前に八幡菩薩神の存在が植えつけられた。

 これを機会に、八幡信仰という神仏習合による国家の守護神が誕生し、日本ならではの神仏のあり方が、明治維新まで続くことになった。

 聖武天皇は、740年に智識寺を訪れた後、各地を転々とし、平城京から恭仁京に遷都するなど不思議な行動をとり、これが古代の謎の一つとされているが、おそらく、伊賀から始まるそのルートを見ると、聖武天皇は、行基集団および修験者たちと行動をともにしていたに違いない。

 智識寺以外の行基集団の活動を実際に目にし、行基やその支持者たちとの対話を通じ、東大寺大仏造立と、仏の加護による律令社会の構想を、より練りこんでいったのだろう。

 2020年から始めるパンデミックは、病になることの怖さを感じている人の数よりも、自分が病になることで周りの人たちに迷惑をかけてしまうことの不安を持っている人の数の方が大きいという奇妙な特徴がある。

 経済対策も大事には違いないが、このパンデミックをきっかけに、過去のパンデミックのように何らかの精神的変化が起きる可能性があるのかどうか、ということも気にかけておきたい。

 

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