第1222回 学校で教えてくれない歴史の核心

 京都を訪れる人は、下鴨神社上賀茂神社を訪れることが多いと思うけれど、そこに祀られている神様のことが、よくわかりません。

 下鴨神社賀茂建角身命とか、上賀茂神社の賀茂別雷尊とか、覚えにくい神様の名前で、正直言って、なんだかよくわからない。けれど、なんか、とても大事な神様だろうってことは感じられる。

 賀茂の神が祀られている場所や、”かも”という名前の土地は、日本にたくさんあって、その中で代表的なのが京都。

 京都は、賀茂の神様の地であり、祇園祭とともに京都を代表する祭りの葵祭は、賀茂の神様の祭り。

 この祭りの起源は、今から1450年ほど前、欽明天皇の時代、賀茂の神の祟りを鎮めるために始まった。

 賀茂の神の祟りって何なのよ? という疑問はすっかり忘れられて、祭りは、その後もずっと続けられてきて、1000年前に書かれた「源氏物語」でも、重要な鍵を握る舞台になっている。

 よくわからないのだけれど気になる賀茂氏や、賀茂の神。

 京都は歴史の宝庫というイメージがもたれているけれど、多くの観光客が訪れる場所は、実は、そんなに古くなく、江戸時代以降の場所がほとんど。コロナ禍の前には観光客で溢れかえっていた祇園の花見小路は明治維新廃仏毀釈建仁寺の領地が削られてできた場所にすぎない。

 清水寺のある東山、金閣寺周辺、嵯峨野が、京都の三大観光地だけれど、この三つは、それぞれ鳥辺野、蓮台野、化野という風葬地帯だった。つまり死者の世界。だから、お寺もたくさんあって、それが今では観光の目玉になっている。

 京都の歴史は、実はもっと古い。そうすると、学校で習ったように「鳴くよウグイス平安京」の794年からの歴史を考えなければいけないと気づく人も多いけれど、実は、もっと古いところに京都の歴史がある。

 行基が作ったとされる行基図が、江戸時代に伊能忠敬が精密な地図を作る以前に広く活用されていた地図。この地図は、山城国(京都周辺)から道が全国に広がっているので、奈良時代に生きた行基とは関係ないもので、山城国が日本の中心になった平安時代以降に作られたものだと専門家は説明するが、なんでそんな矮小な発想になるのか。

 奈良の平城京が政治の中心だったからといって、奈良を中心に物事が動いていたわけではない。そもそも、奈良時代平城京にずっと都があったわけではなく、木津川のほとりの恭仁京、琵琶湖に近い甲賀紫香楽宮、大阪湾に面した難波京と、めまぐるしく遷都していた。この奈良時代の遷都は、今でも歴史の専門家のあいだでも謎とされるが、実は、これらの遷都地の背後に、”かも”が関係している。

 そして、古代から、山城国は、”かも”の地であり、だから、”かも”のネットワークが、山城国(京都周辺)から全国に伸びていっている行基図が、奈良時代に作られていても、何の不思議もない。 

 古代のダイナミズムを考えるうえで、水上ネットワークを抜きにすることはできない。

 たとえば都を建設する時には、膨大な木材や石材が必要になるけれど、これらを、遠いところから山を越えて、荷車でゴトゴトと運ぶことなど不可能。

 陶器類など壊れやすいものはなおさらのことで、だから、張り巡らされた川の道が、とても重要になる。

 添付した地図は、近畿圏の水上ネットワーク。

f:id:kazetabi:20220324135053p:plain

  これを見れば、なぜ藤原京飛鳥宮から奈良の平城京に遷都することになり、奈良時代に遷都が繰り返され、さらに平城京から長岡京、そして京都へと都が移っていったかがわかる。

 (赤いマークが、都が置かれたところ。下から飛鳥、藤原、平城、恭仁京、長岡、平安京。大阪湾のところが難波京で、東が紫香楽宮で、琵琶湖湖畔が大津京) 

 飛鳥時代藤原京の時代は、和歌山県を流れる紀ノ川が重要視されていた。

 紀ノ川の河口からは、瀬戸内海や、四国の南を通って九州、逆方向の伊勢や東国への移動が便利。

 九州が大陸文化の玄関だったとすると、このルートが一番早かっただろう。

 奈良の平城京への遷都は、この紀ノ川ルートを犠牲にしてでも、木津川と大和川ルートを重視したということがよくわかる。

 都が北へと移動していくのは、それだけ日本海ルートが重視されるようになったからだ。

 白村江の戦い(663年)の時に百済が滅んでしまったが、百済は、日本と親交が深かった。百済というのは、朝鮮半島の西に位置しているので、そこから船に乗れば九州に到達する。

 しかし、最初は高句麗の属国にすぎなかった新羅が7世紀中旬頃から力をつけていって百済が滅んでしまうと、日本は新羅が交流の相手国になった。新羅は8世紀(奈良時代)に入ると朝鮮半島を統一するが、もともと朝鮮半島の東に位置していたので、ここから船に乗ると日本の山陰地方から若狭、北陸地方に辿り着く。

 この新羅の北、かつては高句麗があり、奈良時代からは渤海という国になったが、渤海からだと、船は主に福井の敦賀あたりが出入り口になる。

 奈良時代の中旬以降、新羅との関係が悪化し、唐とも距離を置き始めた日本において、最大の交流国は、この渤海だった。

 つまり、大陸との出入り口は、福井の敦賀だった。

 そのようにして、藤原京から平安京まで、都が北に移動していったけれど、古代から変わらず水上ネットワークの中心にあるのは、現在、石清水八幡宮がある場所。ちなみにこの場所は、紀ノ川の水運を担っていた紀氏の領地で、石清水八幡の神職は、この紀氏が世襲してきた。 

 この場所は、かつて巨椋池という広大な湖があり、多くの船舶が集まっていた。なぜならここは、淀川、桂川宇治川、木津川の結び目だから。淀川をくだって大阪湾方面、桂川を遡って丹波丹後方面、宇治川を遡って琵琶湖から福井。木津川を遡って、奈良、伊賀、伊勢方面。近畿の全ての場所に河川交通でつながっていくのが、この場所だった。

 そして、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命は、別名が、三島溝杭といい、この謎の存在が、この河川交通の要の場所に大いに関係していた。

 奈良時代、最初は朝廷から弾圧されることもあった行基は、行基集団という民の力を結集し、各地に、灌漑施設や橋など様々なインフラを作り出し、聖武天皇は、菩薩のように人に崇められた行基を崇敬するようになった。そして、行基を僧侶全体のトップの地位に指名して行基の人望と動員力によって奈良の大仏の造立を成し遂げるが、その行基を支え続けていたのが修験者たちで、修験の祖の役小角は、賀茂氏だった。

 修験者が単なる山の修業者でないように、賀茂というのは、単なる神への信仰ではなく、公共事業などにも力が発揮されたように、人、物、金を動かし、まとめあげる力でもあった。

 そのあたりのことを、 3月26日(土)、 IMPACT HUB KYOTOで行う映像&トークで、深掘りしたいと思います。

 

第二回映像&トーク「Sacred world 日本の古層」BY 佐伯剛(風の旅人 編集長) - Kyoto

 

kyoto.impacthub.net

Sacred world 日本の古層をめぐる旅

www.kazetabi.jp