第1502回 京都がなぜ千年の都になったのか。


前回の記事で、平安京が、四神相応ではなく、京田辺の甘南備山を軸にして、その真北に朱雀通りや大極殿が来るように設計されたということを書いた。
 このことで明らかにしなければいけないのは、なぜ京田辺の甘南備山が軸になったかということだ。
 桓武天皇というのは、第26代継体天皇のことを強く意識していており、京田辺は、継体天皇が2番名に宮を築いた筒城宮の地で、甘南備山は、古代から京田辺の聖山でありランドマークだった。 
 桓武天皇は、歴代天皇のうち唯一、公の場で即位式を行ったが、その場所は、継体天皇が最初に宮を築いた樟葉宮のところで、ここは、岩清水八幡宮が鎮座する男山の南麓だ。現在は、桓武天皇の父親の白壁皇子(光仁天皇)を祀る交野天神社が鎮座している。
 さらに、桓武天皇が最初に都とした長岡京は、継体天皇が2番名に宮を築いた弟国宮の場所であり、さらに伏見にある桓武天皇の柏原陵は、京田辺の筒城宮から真北15kmのところだ。
 なぜ、桓武天皇が、これほどまで継体天皇を意識しているのか?
 桓武天皇と第26代継体天皇は、もともと天皇になる予定のなかった人物だった。ともに、時代の変転のなか、天皇に担ぎ上げられた人物である。さらに、継体天皇というのは、史実として初代天皇とされる人物だから、桓武天皇は、継体天皇に自らを重ねることで、自らの正当化をはかったとも考えられる。
 歴代の天皇のうち、唯一、公の場で即位式を行ったことからも、正当な王であることを世の中に示す必要があったのだろう。
 しかし、それ以前の問題として、それではなぜ、第26代継体天皇が、奈良ではなく、京都周辺の山背の地に、三度も宮を築いたのかを考えるべきだろう。
 日本の歴史を学ぶ際に、日本の古代の都は、ずっと奈良にあったかのように思い込まされているが、史実としての初代天皇である継体天皇は、即位してから、今の京都周辺の山背に宮を築いた。
 そのことについて、学者の先生などは旧天皇が拠点としていた奈良の豪族を警戒したからなどと説明しているが、そもそも継体天皇以前の天皇とされる存在は、史実であったかどうかも定かではなく、それらの天皇の宮も、実際にはどこにあったかもわからない。
 奈良の平城京と京都の平安京の違いを考える時、平城京というのは、元明天皇が詔で述べているように四神相応に基づいて建設された「まつりごと」のための象徴的な場所であり、京都は、水運に恵まれた現実的な場所であるということだ。
 

鴨川

 

 だから、奈良の都は短命だったが、京都の都は、1000年も続いた。
 その違いの一番大きなポイントである水。生活水としての水だけでなく水運においても重要な水。つまり河川。奈良は、重要河川から離れており、京都は、重要河川に挟まれるように存在している。
 第26代継体天皇が築いた三つの宮は、すべて京都とつながる重要河川のすぐ近くであり、この天皇が、突如、天皇に担ぎ上げられた理由も、当時の時代状況のなかで現実的な役割が求められたのだろうと思われる。
 その現実的なことにおいて一番大きな問題は、新羅遠征であり、継体天皇は、6万の兵で新羅遠征を行おうとしたが、海を渡る攻撃のためには水軍の力が必要になることは明らかだ。
 そして、継体天皇の陵もまた、奈良ではなく淀川流域の高槻に築かれている今城塚古墳だが、その石棺は、阿蘇のピンク石であり、遠く離れた有明海から水運で運ばれたと考えられる。
 継体天皇は、母親の振姫が越前の九頭竜川下流域の勢力が実家で、父親の彦主人王が、近江高島の豪族であり、継体天皇の生誕の地は近江高島の大炊神社のところとされている。すなわち継体天皇は、近江から福井にかけて勢力を誇っていたわけだが、近江高島は、海人族の安曇氏と関わりの深い安曇川が流れており、その源流は京都の貴船神社の北の花背の地だ。そして、花背は、桂川の源流でもあり、桂川は亀岡から京都盆地に流れ、向日山あたりから巨椋池のところで木津川、宇治川と合流して淀川となる。
 つまり、継体天皇が宮を築いた場所は、近江や福井と大阪湾から瀬戸内海へと抜けるルートで、これは日本海と瀬戸内海を結ぶルートでもある。
 継体天皇は即位後、6万人の兵で新羅を攻めようとした時の総大将が近江毛野であり、その名のとおり、この人物は、おそらく近江の海人勢力の長だろう。
 一般的には継体天皇以前の王権が奈良にあったと信じられているが、5世紀の巨大古墳は河内の地にあり、奈良に築かれれいるわけではない。
 また継体天皇の即位に貢献した大伴氏の拠点も、奈良ではなく住吉大社のあたりだった。いずれにしろ、物資運搬および兵力の運搬において、水上ルートの確保が鍵を握っていたと思われ、そのため継体天皇の三つの宮が、山背の重要河川沿いにあり、しかも、それが、日本海と瀬戸内海を結ぶルート上でもあった。
 すなわち継体天皇の即位には、その時代の現実的な事情が強く絡んでいたと思われる。
 奈良の平城京から桓武天皇もまた、即位してすぐ坂上田村麿呂を征夷大将軍として蝦夷の征伐を行っており、かなり現実的な役割が求められた天皇だったようだ。
 この桓武天皇の時に、大きく変わった政策が一つある。
 それは、南九州の海人である隼人への対応だ。
 奈良時代前半、律令政策に反発した隼人の反乱があり、その制圧のための出兵が繰り返された。その結果、隼人は、奈良の朝廷に対して隷属の証に朝貢を行うようになったことが記録されているが、桓武天皇の時代に、その朝貢が停止された。
 そして、畿内への隼人への移住が行われた。その理由は、隼人には呪術的な力があるとされ、隼人の吠声などが、儀式的にも重要な役割を果たすようになったからだ。
 その隼人が居住した場所の代表が、京田辺の甘南備山の北麓の月読神社のところで、大住という地名は大隅半島からきている。ここは隼人舞発祥の地とされている。
 この場所は、平安京の真ん中の朱雀通りの真南20kmほどの所であるが、朱雀通りの政治の中心である大極殿の真西20kmほどの所の亀岡の稗田野神社あたりの佐伯郷も、隼人の居住地だった。ここは、古事記に関わった稗田阿礼の生誕の地とされるが、数年前、この地において巨大な都市遺跡が発見された。
 桓武天皇の背後には、海人勢力がいた。桓武天皇の皇后の藤原乙牟漏の墓は、継体天皇の弟国宮、桓武天皇長岡京があった向日山の地に築かれているが、彼女の母は、阿部氏の出身である。
 阿部氏は、飛鳥時代日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させた阿部比羅夫や、蘇我入鹿が殺された乙巳の変の後に政界トップの左大臣になった阿部内麻呂、律令時代の開始時期に政界ナンバー2で右大臣となり、キトラ古墳の被葬者の有力候補でる阿部御主人など、強力な水軍を率いていた氏族であることがわかっている。
 京都の歴史を考えるうえで、この水運は非常に重要であり、平安京以前から、山背の地は、水運で栄えていた。そして、この地の水運は、日本海へと通じ、そこから大陸へと通じていた。

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