第1356回 神武天皇とは何か(3)

神武天皇の神話を、第26代継体天皇と重ねて考えるためには、(1)と(2)で述べたことの続きになるが、神武天皇の東征に登場する神々について、それが継体天皇とどう関わっていくのか、さらに検証する必要がある。

(2)では、亀の甲羅に乗って海路の案内人をつとめた椎根津彦(しいねつひこ)というのは、海人族の安曇氏のなかの八木氏で、亀岡盆地の北の端、桂川園部川が合流する八木の地と関わりの深い勢力を象徴していると書いた。 

亀岡盆地の最北、桂川園部川が合流する八木。ここが、神武天皇東征の海路の案内役、椎根津彦の後裔である八木氏の拠点。

 この八木町に、住吉神社が鎮座しているのだが、ここは、明治時代にまとめられた大日本地名辞書によると、延喜式桑田郡神野神社であり、もともとは、伊加古夜姫命(いかこやひめのみこと)を祀る下鴨宮だった。

 加古川由良川に通じる日本で最も標高の低い分水嶺である兵庫県氷上に鎮座している神野神社が、「いかこやひめ」の聖域であり、そこと、八木町が、河川交通でつながっているということだ。

 ゆえに、「いかこやひめ」というのは、八木を拠点としていた安曇氏の女神だと思われる。

 さらに、(2)でも書いたが、この八木の桂川沿いの筏森山の麓に点在する城谷口古墳群からは、6世紀の蛇行剣が出土しており、6世紀の蛇行剣は、九州の宮崎と鹿児島からしか出土していないので、神武天皇の東征の出発地である日向と、亀岡盆地の北端の八木が、蛇行剣でもつながっている、そこに亀の甲羅に乗った案内人の椎根津彦が重なる。

桂川園部川が合流する八木。この桂川の対岸の筏森山の麓には、城谷口古墳群があり、6世紀前半(継体天皇の時代)の蛇行剣が出土した。この時代の蛇行剣は、宮崎と鹿児島の地下式横穴墓と、この八木からしか出土していない。

 この八木の筏森山にはいくつか伝承がある。昔、保津峡がなかった頃、丹波盆地の水は流れ出る所が無く、水が溜まっていた。筏森山は、その湖の真ん中となり、「筏」をあやつる人が集っていた。

 そして、大国主命丹波にやってきた時、水が溜まり、田畑が少なく、人々は食べることに困っていた。

 そこで、湖の真ん中にある筏森山に上がって思案したが、良い考えが浮かばなかったため、大国主命は、亀岡の請田神社、鋤山神社、持籠神社の三神を筏森山に招き、話し合った。そして、現在の保津川峡のところを切り開いて、湖の水を流すことに決め、大工事を行った。

 この八木の地の筏森山に関係する海人族の女神、「いかこやひめ」が、神武天皇の東征神話で、熊野からヤマトまで道案内したヤタガラス(賀茂建角身命)の妻なのである。

 日本で、ヤタガラスの聖域として国家の聖域にまでなっているのは、京都の下鴨神社であり、ヤマトの地ではない。

 そして、この下鴨神社は、地図上で、継体天皇が築いた筒城宮(京田辺)の真北27kmのところである。

 さらに、下鴨神社から真西27kmが亀岡の宮川神社で、ここは、八木で桂川と合流している園部川の源流なのだが、この神社の祭神が、「いかこやひめ」と、その娘の玉依姫なのだ。

宮川神社

 下鴨神社の建設は、奈良時代だと考えられており、つまり古事記が書かれた頃、神話に基づいて、下鴨神社や宮川神社の位置決めが成されたのだと思われる。奈良時代律令体制を整えていこうとしていた人たちは、継体天皇のことを念頭に神武天皇の東征物語を創造した。だから、神武天皇を道案内をしたヤタガラスの聖域を、筒城宮の真北27kmのところに築き、さらに、その真西27kmのところに、ヤタガラスの妻である「いかこやひめ」と、娘の玉依姫を祀る宮川神社を築いた。「いかこやひめ」の本来の聖域は、椎根津彦で象徴される安曇氏の拠点の八木だった。そのルーツは、日本で一番低い分水嶺加古川由良川のあいだの氷上の神野だった。

 だとすると、いかこや姫と、ヤタガラスが結ばれたという神話が何を象徴しているのかということになる。

 この謎を解く鍵が、宮川神社から真南27km、筒城宮から真東27kmのところに痕跡を残している。

 ここは、現在の豊中市だが、上野遺跡や、島熊山窯跡がある。

 千里ニュータウンで知られるこの丘陵地帯は、継体天皇の時代、須恵器の大生産地であり、旧名は熊野田村である。

 5世紀に日本に入ってきた新しい陶芸技術、須恵器は、高温の窯で焼く灰色の薄く硬い陶器であり、水が洩れない。そのため、酒や食べ物を盛る祭祀道具に使われることが多く、古墳に多く副葬されている。

 また、高温の窯は、鉄製品の質を高めるうえでも重要な技術で、同じ時代に日本にもたらされた韓鍛冶との関係があると考えられている。

 この須恵器の古代日本最大の生産地は、奈良の葛城山の西側の丘陵地帯に広がる陶邑窯跡群であり、ここは、5世紀から平安時代に到る800年にわたって須恵器が作られていた。 

 しかし、6世紀、継体天皇の時代の古墳の副葬品として出土する須恵器は、この陶邑窯跡群のものではなく、豊中から吹田にかけての千里の丘陵地帯のものであることがわかった。

 なぜか突然、須恵器の生産地が変わったのだ。

 そして、大事なことは、ヤタガラス(賀茂建角身命)の別名が、陶津耳命であること。また、日本書紀において、陶津耳命の娘の活玉依媛の子とされている大田田根子(地祇系賀茂氏=賀茂朝臣の祖)が、陶邑の出身だということ。陶邑というのは、須恵器の生産地であることだ。

 つまり、ヤタガラス(賀茂建角身命)というのは、須恵器の生産と関係している。継体天皇の時代の須恵器の大生産地が、継体天皇の筒城宮の真西27kmで、ヤタガラスの妻、「いかこやひめ」の聖域である宮川神社の真南27km、ヤタガラスの聖域の下鴨神社と合わせた4地点を結ぶと正方形になる。

 さらに、筒城宮と豊中の須恵器の生産地を結ぶライン上に、三島鴨神社が鎮座している。

 三島と鴨が統合されたこの場所は、古代の海軍基地だが、勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)と、その父、三嶋溝杭にゆかりの聖域である。 

 古事記には、勢夜陀多良比売が用をたしている途中、大物主神は丹塗矢に化して比売の陰部を突いた。生まれた娘が、神武天皇の皇后になったと語られている。

 この古事記の物語は、山城国風土記において、ヤタガラス(賀茂建角身命)の娘、玉依姫と、朱塗りの矢に変身していた火雷神が結ばれて、賀茂別雷命上賀茂神社の祭神)が生まれたという話と似ており、ヤタガラスと、三嶋溝杭が重なってくる。

 ヤタガラスや三嶋溝杭という神話の中で神武天皇と関わりの深い存在が、第26代継体天皇の軌跡と、重なっているのである。

 京田辺の筒城宮と、ここから真西27kmにある豊中の須恵器の生産地は、神話ではなく、6世紀に実際に存在した史実である。

 しかし、それぞれの北27kmの下鴨神社や宮川神社は、継体天皇の時代に築かれたのではなく、奈良時代古事記が書かれた時に、神話上の意味を地理上に表わすために作られた。

 添付した地図を見ればわかるが、この1辺27kmの正方形の中で、継体天皇は、弟国宮(向日市)や、樟葉宮(枚方市)も築いており、この正方形の中が、継体天皇の重要な勢力圏だったのだ。

 継体天皇が即位して20年あいだ、ヤマトの地に入らなかったのが古代の謎の一つとされ、奈良の豪族勢力を警戒したからだとか、色々な説明付けがなされている。

 しかし、それは、奈良を中心に古代を考えすぎているだけのこと。

 継体天皇の古墳がある大阪の高槻から茨木一帯は、古代から三島地方と言われ、古墳時代初期から終末期まで大小500基以上を数える三島古墳群が存在する。これは、奈良盆地の古墳群の規模を超え、大阪の藤井寺周辺の古市古墳群、堺周辺の百舌鳥古墳群と並ぶ規模を誇る日本有数の古墳地帯である。

 話を神武東征に戻すが、最初の道案内だった椎根津彦は、海人族だったが、次の案内人のヤタガラス(賀茂建角身命)は、須恵器と関わりがあるのだが、これは何を象徴しているのか?

 神話の中で地祇系賀茂氏の祖、大田田根子は、三輪山の大物主の祟りを鎮める祭祀者だった。

 古墳の副葬品の須恵器は、6世紀、横穴式の石室になってからは、大王が死んだ後、黄泉の旅のための食物や酒が盛られたように、祭祀と関わっている。

 この祭祀の従事者を祖とする賀茂氏律令時代の役割は、陰陽道だった。

 賀茂氏は、壬申の乱において天武天皇の勝利に貢献しただけでなく、修験者の役小角の出身氏族であるが、陰陽師でもあった。天武天皇自身が、陰陽道の使い手であったと日本書紀は伝えている。

 そもそも、カラスというのはミサキ神である。 ミサキ神というのは、預言や予兆を伝える神である。

 大震災の前に、動物たちが通常とは異なる動きをするが、こうした変化の先ぶれを伝えるのがミサキ神で、天武天皇の時代におけるミサキ神に該当するのが、陰陽道だった。

 天武天皇は、日本で最初の陰陽寮という官僚組織を作った。陰陽道というのは、天皇に直接的に物事の方向を示し、その内容は他の者には隠されていた。だから、文章記録に残っていない。

 神武天皇に東征におけるヤタガラスの案内というのは、須恵器の祭祀から、律令時代に陰陽道の使い手となった賀茂氏の役割を示している。

 そして、天武天皇の時代に活躍した役小角賀茂氏)を中心とする修験者たちは、全国的に活動の痕跡を残しているのだが、その重要な役割の一つが鉱山の開発だった。

 鉱山は、樹木に覆われた山の中を歩き回っても発見できない。鉱物資源のサインは、川に削られた岩盤の地質である。

 古代海人は、丹(辰砂)という朱色の硫化水銀を求めて、日本国中の河川交通に通じていた。辰砂というのは、船に塗ると、防水効果、防腐効果があるからだ。さらに、倭の海人は、朱で刺青をしていたことが、朝鮮半島や中国の記録に残っている。

 そして、修験の修行場も、出羽山や高野山など、水銀の鉱脈が走っているところが多い。

 水銀は、熱水鉱床に生成されているが、熱水鉱床からは、金や銅など貴重な金属も多く発見される。

 そして、熱水鉱床が生じる岩盤は、主に花崗岩地帯であり、日本中に張り巡らされた川沿いに移動することで、その岩盤地帯を発見できる。

 須恵器に通じていた古代賀茂氏は、高温の窯を作る技術とともに、陶器の材料、つまり地質の知識もあったはずで、海人族と結びついて、日本中に痕跡を残すことになった。

 そして祭祀者となった賀茂氏によって、それらの重要地は聖域化され、秘密は隠された。

 日本の重要な聖域の大半が、鉱物資源の豊かな場所であることは、偶然ではないだろう。

 いずれにしろ、海人族の水運力と、賀茂氏の知恵と技術が、6世紀前半に、日本の初代天皇となった継体天皇を支えていた。

 神武東征神話の椎根津彦と、ヤタガラスは、その史実を、神話的に伝えている。

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