歴史はつながっているという当たり前のことを、現代社会において、あまり意識されることはないが、過去においては、歴史のつながりを無視できない時期があった。歴史こそが、自らが存在する根拠。とくに、国を統治するものにとっては、歴史は、執政の指針であり、護符でもあった
前回の記事で書いた継体天皇のことを掘り下げるために、桂川と鴨川の合流点を訪れた。それぞれの川の水の色が少し違うのがわかる。
二つの河川が交わるこの場所が、古代、水上交通の要であったことは誰でも想像できる。
さらに、この場所は、広大なカルデラの中心のような場所で、ぐるりと周辺を山々が囲んでいる。北には比叡山が聳え、その西に愛宕山、南には天王山、交野山から生駒山、東には、上醍醐、東山、宇治から奈良盆地の東の山並みまで、畿内の重要な聖山が見渡せる。
この二つの川の合流点の西に、羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)が鎮座している。通称、はづかし神社だ。
観光客はほとんど訪れないが、創建は477年と、京都で最も古い神社の一つであり、延喜式神名帳では、山城国第一の社として大社に列している。
風水害除けの神としても信仰を集めたが、朝廷は雨乞い祈願の神として崇敬した。遣使など渡航の際には、風雨の災難除けに参詣された。
現在、周辺は住宅化が著しくて車の通りも多く騒がしいが、境内一帯は『羽束師の森』と称されるように深い森におおわれ、今でも静粛な雰囲気が満ちている。
なぜ、”はづかし”なのかという問いに対する答えとして、竹野媛の霊を祀っているからという説がある。
竹野媛というのは、第11代垂仁天皇の時代、丹波道主命の娘で、後に皇后となった日葉酢媛を含む4人の娘の末娘で、姉たちと一緒に天皇の後宮に入るが、甚凶醜(いとみにくき)という理由で実家に帰されることになり、その途中、自分のことを恥じて自殺を試み、最終的にこの地で深い淵に堕ちて亡くなったとされる女性だ。その由来で、この地を堕国と呼ぶようになり、それが訛って弟国になったと古事記に記されている。
しかし、この物語は、竹野媛の容姿が美しくないために帰されたと受け取っている人が多いが、ニニギに選ばれなかった磐長姫の物語に通じるところがあり、近代的価値観のバイアスのかかった顔やプロポーションに関する美醜の問題ではないと私は考えている。”甚凶醜”と、何がどう醜いかは書かれていないのだ。
そして、前回の記事でも書いた第26代継体天皇が、この弟国の地を都にした理由について、学校の歴史授業に限らず大半の歴史本でもスルーされている事の重要性を、もう少し深く考える必要がある。
なぜなら、平安時代の桓武天皇もまた、この弟国の地に長岡京を造営したからだ。
もちろん、この地が、上に述べたような水上交通の要の地であることもあるが、それだけではない。
たとえば、弟国宮(桓武天皇の時の長岡京)の中に向日山があり、その上に向日神社が鎮座しているが、明治天皇を祀る明治神宮は、この向日神社を1.5倍のスケールにした設計なのだ。
竹野媛が墜ちて死んだという堕国(弟国)は、継体天皇、桓武天皇、明治天皇に、何かしらの陰を落としている。
さらに、この場所は、京都から太宰府へ都落ちする菅原道眞が、途中に立ち寄って、自分と竹野媛を重ね合わせて、歌を残した場所だった。
その時、菅原道眞は、北の方向を見返したとされ、はづかし神社のすぐそばに見返天満宮が鎮座している。本殿が珍しく北を向いている。
そして、はづかし神社の本殿の後ろに、北向きの小さな社が合わさっている。
これは、菅原道真を祀る神社の総本山である京都の北野天満宮も同じで、北野天満宮の場合、本殿の裏に天穂日命(アメノホヒノミコト)が祀られていて、そちらが本来の聖所だったとされる。
このはづかし神社の場合、ここから東に7kmほど行ったところ、伏見の地の山科川と宇治川が合流するところに式内社、天穂日命神社が鎮座している。
はづかし神社の本殿の裏に一体化している祭神について、神職の方がおられたので尋ねてみたが、菅原道眞が北を見返したこととのつながりかもしれないけれど、よくわからないとのことだった。
私が思うに、菅原道眞が北を意識したように、北の方向に大事な何かがあるということだ。
北というのは、この神社にゆかりのある竹野媛の出身地である丹後の間人だろうと思われる。その場所は、聖徳太子の母親の穴穂部間人が、蘇我と物部の争いの時、隠れていたところだった。そして、日子坐王や聖徳太子の弟の当麻皇子の鬼退治の舞台だ。
そして、竹野媛というのは、古事記や日本書紀には2人が登場するが、もともとは、その竹野の地の巫女だった。
日本海に面した丹後の竹野の地に竹野神社が鎮座するが、現在の鎮座地は、日本海側で2番目に大きな神明山古墳の隣である。しかし、この巨大古墳の造営の時期は4世紀後半とされており、そこから判断すると、鬼退治をした側(日子坐王側)の古墳であろうと思われる。なぜなら、この竹野神社には、日子坐王が祀られているからだ。
この神社の参道は、異様に長く伸びており、その起点に御旅所がある。おそらく、本来の神社の場所は御旅所があるところだろう。そして、その場所は弥生時代の遺跡の中。目の前に、鬼退治の鬼が閉じ込められたとされる立岩がそびえる。そして、そこは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、扇谷とか奈具岡など弥生時代のハイテク都市や、弥生時代最大の墳墓である赤坂今井墳墓、卑弥呼の時代にあたる青龍3年(235年)の紀年鏡が出土した大田南古墳がある。
この鏡は、方格規矩四神鏡で、継体天皇の古墳とされる今城塚古墳がある高槻の安満宮山古墳から出土した鏡もまた青龍3年の方格規矩四神鏡であり、この二つが、日本で発見されている紀年鏡で最も古い2枚の鏡なのだ。
竹野媛の出身の丹後の竹野は、弥生時代からとても栄えていた場所だが、鬼退治の物語にも象徴されるように、ヤマト王権とは異なる価値体系、世界観があり、その中心に、日神に奉斎する巫女がいた可能性がある。その日神は、後にアマテラス大神と呼ばれる女性神ではなかったのではないか。
というのは、太陽神の性質というのは、歴史的段階を踏んで、変容していくからだ。
古代エジプトにおいても、紀元前3000年の初期王朝、紀元前2500年の古王国偉大、紀元前1500年の新王朝時代で、変化していく。
この太陽神の問題は、古代の謎のパズルを解く上で極めて重要なので、後日改めて記すが、第11代垂仁天皇は、竹野媛の姉で皇后となった日葉酢媛が死んだ時、もう殉死はやめようと、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰の助言を受けて、埴輪を作って生きた人の代わり古墳に埋葬したと記録されている。
はづかし神社の場所は、古代、泊橿部(はつかしべ)の土地だったとされるが、泊橿部について実態はよくわかっておらず、土に関連する仕事に従事した泥部と同じ集団ではないかという説がある。
4世紀末から6世紀前期までの古墳時代、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族が土師氏だが、土師氏という姓は、日葉酢媛の死に際して埴輪のアイデアを出した野見宿禰の功績に対して垂仁天皇が与えたもので、後に土師氏が担うような仕事を行っていたのが泥部とか泊橿部(はつかしべ)の人々だったのかもしれない。そして、その時、まだ埴輪が発明されていないとすれば殉死が行われていたということで、それは、高貴な人の死の時だけではなく、土木工事においても、洪水などの災害が起きないように神に祈願するために、人柱が行われていたのではないだろうか。泊橿部(はつかしべ)は、おそらくその人柱と関係あった。桂川と鴨川の合流時点は、古代から、たびたび川の氾濫が起こったことが記録されている。
ここで考えなければいけないのは、自ら死を選んだ竹野媛の”はづかしさ”というのは、「恥を知れ」とか、「人と比較した劣等感」といった人間社会のルールや慣習の範疇の”恥”ではないだろうということだ。おそらくその恥は、西行の歌の、「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」の”かたじけなさ”に通ずるものだろう。
巫女にとって神に身を捧げることは、身にあまるようなこと。かたじけないこと。
また ”はじ”は、羞とも書き、ごちそうなどを人に羞める時に用いられるが、本来の意味は、羊の生贄を、うやうやしく、畏れ多く、はづかしさをもって、神にすすめることを意味する。
いずれにしろ、竹野媛と日葉酢媛は姉妹であり、その死の時期は、殉死から埴輪へと変わる端境期にあたり、そのため、竹野媛の死は、埴輪以前を象徴するもだと洞察できる。
垂仁天皇は、竹野媛の姿形が美しくないから返したのではなく、本来の場所、つまり神の元に帰した。
なので、彼女が自殺をしたと描かれているのは、おそらく殉死(人柱)のことではないかと思う。
「堕は、裂肉を聖所に埋める意味。聖所における呪禁の方法として行われる血祭。それは聖所を守るためのものであり、また同時に聖所を攻撃し、堕廃する方法であったと思われる。共感的呪術は、攻守とも同じ方法をとるのが原則である。(白川静 字統)」
この白川さんの言葉からすれば、堕というのは、境界を鬼によって護衛する事に通じる。
きっと堕国という地名の起源はそこにある。
第1137回の記事で書いたように、ニニギが、妻として迎えることができないと親元に返した磐長姫が、平安京の北を護るために西賀茂大将軍神社に祀られているのと同じだ。
そして、この堕国の地を、第26代継体天皇も、第50代桓武天皇も、都にした。
桓武天皇の母親、高野新笠は、土師真妹の娘であり、土師氏の血を受け継いでいる。
高野新笠の陵が、弟国宮(長岡京)の北西5kmほどのところの京都市西京区大枝にあるが、このあたりの山背国乙訓(古くは弟国=堕国)が、高野新笠の生まれ故郷ではないかと考えられている。
そして、高野という姓は、桓武天皇の父、光仁天皇が即位する際に、賜ったものだ。
桓武天皇は、母親が土師氏と百済系の和氏の娘ということで出自は低く、さらに父親の光仁天皇も、生まれたからずっと天皇になる予定もなく、むしろ世継ぎ争いに巻き込まれないように慎重に生きていたのに62歳の高齢で即位させられ、桓武天皇即位への道が作られた。継体天皇と同じように、実に怪しい皇位継承となっている。
高野新笠の生まれ故郷、堕国で亡くなった竹野媛の竹野は、”たかの”だった。そして、奈良時代の最後、孝謙天皇、称徳天皇と女帝が重祚したが、この天皇は、「高野天皇」「高野姫天皇」と称され、奈良の平城京の北にある陵も、高野陵とする。
竹野媛の”たかの”が、継承されているのである。
桓武天皇というのは、継体天皇の宮、弟国に長岡京を造営しただけでなく、継体天皇のもう一つの宮、木津川沿いの筒城にある甘南備山を平安京造営の軸として、その真北に平安京の中心の朱雀通りを作り、朱雀通り沿いに、羅生門、大極殿などを置いた。
不可思議なのは、この朱雀通りを北に延長したところに、平安京の北を護るように、磐長姫を祭神とする西賀茂大将軍神社が鎮座し、さらに、大極殿と羅生門のあいだの距離が、大極殿と西賀茂大将軍神社と同じであることだ。
大将軍と名付けられる神社は、平安京遷都の時に、都を護る方位神として、平安京の四方に設置された。しかし、磐長姫を祭る西賀茂大将軍神社は、由緒によれば創建は609年、女帝の推古天皇の時代である。すなわち、平安京ができる前から、京田辺の甘南備山と西賀茂大将軍神社の位置関係が定まっており、その南北のライン上に、平安京の中心を持ってきたということになる。
継体天皇から桓武天皇につながるこの不可思議な縁は、堕国の竹野媛といい、磐長姫といい、”甚凶醜(いとみにくき)」という理由で本来の場所に返されたもの”と関係している。
このことが、日本の古代史を理解するうえで、極めて重要な鍵であることは間違いない。