第1141回 鬼とは何か? という本質的な問い(5) かぐや姫の背景にあるもの(前半)

 前回の記事で、第11代垂仁天皇の時に、甚凶醜(いとみにくき)という理由後宮を出され、その途中、堕国で自殺した竹野媛のことを書いたが、多くの人はマニアックな話だと思うだろう。しかし、この話は、誰もが知っている「かぐや姫」ともつながっている。

 この二つを結びつけるものは、日本海に面した京都府丹後市、旧竹野町の間人という場所である。

 この場所は、竹野媛の生まれ故郷というだけでなく、飛鳥時代蘇我氏物部氏とのあいだで争い事があった時に、聖徳太子の母親の穴穂部間人が隠れていたところでもあった。

 さらに、この場所は、第10代崇神天皇の時、日子坐王による鬼退治があり、さらに飛鳥時代聖徳太子の異母弟の当麻皇子による鬼退治の伝承のある所でもあり、その鬼が追い詰められた場所が、間人の海岸にある立岩だ。 

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間人の海岸にそびえる立岩。

 聖徳太子の母親が隠れていた地域が、聖徳太子の弟によって鬼退治されるというのは、いったいどういうことなのか?

 この謎について、納得感の得られる書物は、私の知る限り、どこにも見当たらないが、日本の古代を考えるうえで避けて通れない問題である。

 今では日本海の寒村にすぎない場所の伝承は、ローカルな昔話でしかなくなっているが、この間人という土地は、古代史を読み解く上で重要な史跡が数多く残されている。 

 立岩から少し行った所に、4世紀末に作られたと考えられている日本海側最大級の神明山古墳があるし、すぐ近くに王の墓とされる組み合わせ式の長持形石棺が出土した産土山古墳をはじめ、古墳が多い。

 さらに、ここは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、川にそって、弥生時代のハイテク都市として知られ羽衣伝説とも関わってくる奈具岡遺跡や扇谷遺跡などがあり、さらに弥生時代最大規模の墳墓や、青龍3年(235年)という、卑弥呼の時代の年代がきっちりと刻まれた、紀年銘鏡では最古の鏡が出土した大田南古墳もある。しかも、この青龍3年の方格規矩四神鏡は、継体天皇の古墳がある大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した鏡と同じである。

 これらの事実から、竹野川が海に流れ込む間人という土地が、古代史を解く上で、非常に重要な鍵を握っていることがわかる。

 もちろん、「謎の丹後王国論」という研究が行われていることは私も知っている。

 丹後王国論は、この丹後の地に、ヤマトや吉備と並ぶ独立性のある勢力が存在していたという内容で、網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳など日本海側を代表する巨大古墳が、この地域に集中的に造営されていることがその根拠であり、さらに、その後の様々な出土品から、古代、この地が栄えていたことが実証されている。

 しかし、三つの大きな古墳は、造営の時期がヤマト王権の拡大期と重なっており、しかも、4世紀の中旬頃に作られた蛭子山古墳から、順々に南から北へと場所が移動し巨大化しているので、これらの古墳は、ヤマト王権に対抗する勢力のものではなく、ヤマト王権が、丹後地域に侵攻していく過程を示しているのではないかと思う。

 実際に、神明山古墳は、平城京の北にあるヤマト王権の陵墓群と考えられている佐紀陵山古墳の中の日葉酢媛陵古墳と相似形なのだ。

 このことについての議論は専門家に任せるとして、謎を秘めているのは、聖徳太子の母親とされる穴穂部間人だ。

 結論から先に言うと、この穴穂部間人は、間人に鎮座している竹野神社と関わる存在だろうと思われる。

 竹野神社といっても、現在、巨大な神明山古墳の横に鎮座するものではない。神明山古墳の隣に鎮座する現在の竹野神社は、神明山古墳を築いた勢力が、竹野神社の祭祀を、自分たちの懐に抱き込んだのだろう。この竹野神社には、丹後の鬼退治を行った日子坐王が祀られている。

 竹野神社の参道は、海岸線に向かって伸びているのだが、そこには現在、御旅所がある。そこは竹野川の河口域の弥生時代の遺跡の中で、海岸に鬼が閉じ込められた立岩が聳えている。

 おそらく、そこが、本来の竹野神社の鎮座地だろう。竹野川内陸部には弥生時代の日本を代表するような史跡が散在しており、それらの場所と海をつなぐところに竹野神社があった。

 そして、その竹野神社に仕える巫女が竹野媛だった。

 竹野媛は、古代の記録では、2人存在している。しかも、非常に謎めいたポジションに位置付けられている。

 1人は、前回の記事でも書いたが、丹波道主命の娘で、第11代垂仁天皇後宮に入りながら甚凶醜(いとみにくき)という理由で帰され、その途中、堕国(継体天皇の弟国宮と、桓武天皇長岡京のあったところ)で自殺したとされる女性。この自殺が意味するところについて、殉死=人柱ではないかという考察を、前回の記事で書いた。

 そして、もう1人が、丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘。第9代開化天皇の最初の妃で、開化天皇が、自分の父親の妃であった物部氏伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を自分の皇后にするという現代社会ではタブーのことを行ったため、丹後の地の竹野に帰り、晩年は、竹野神社で日神を奉斎していたとされる。

 この日神は、アマテラス大神のことにされているが、おそらくそうではない。太陽神信仰は、時代との関係で変容していく。

 わかりやすい例として、古代エジプトがあげられる。

 サッカラに階段状のピラミッドが建築された紀元前3000年頃のエジプト初期王朝時代は、天空の神ホルスが最高神として崇められた時代だ。ホルスは、エジプトの神でもっとも古く、もっとも多様化した神であるが、初期のホルス神は、太陽と月を両目に持つ天空神だった。それは光の神でもあり、エジプトの南と北の異なる聖域を自由に行き交っていた。

 ホルス神は、「王そのもの」であり、当時のファラオは、ホルス神の化身、地上で生きる神(現人神)だった。

 そして、二つの目のうち、右目が太陽のラー、左目が月のウジャト。しかし、ホルス神が父のオシリス神を殺害したセト神(砂漠の神)と戦っている時、ホルス神は、左目(ウジャト=月)を失う。しかし、その後、この左目は、エジプトをさまよって様々な知見を得た後、時の神トート神によってホルス神のもとに回復する。

 そのため、月(ウジャト)の目は、「全てを見通す知恵」や「修復・再生」の象徴とされ、魔除けの護符となり、供物の象徴となる。

 太陽を象徴するラーは、当初は、あまねく地上を照らし出す存在だったろうが、ホルスが外敵と戦う国家の守護神になっていくように、ラーも、戦いの力を象徴する存在になっていく。そして、エジプト古王国時代のギザのピラミッドを建造したクフ王の息子、ジェドエフラーから、ファラオは、「ラーの息子」を名乗るようになる。

 月と太陽のホルス神の時代から、太陽が絶対的な中心になるラー神の時代への移行ということだろう。

 紀元前2500年頃、巨大なピラミッドが建設されていた古王国時代のエジプトで、太陽神ラーは、他の神々を生み出したアトゥムと結びついた万物の創造神であり、ファラオはラーの息子となった。

 しかし、その後、ラーは権威が衰え、自らを崇め敬わない人間を滅ぼそうとするようになる。

 やがて、紀元前1500年頃、エジプト南部のナイル川沿い、現在のルクソールを中心にした新王国の時代、ラーは、この地方の豊穣神アメンに吸収され、ラー・アメン神となり、ファラオもアメン神の子となった。

 そして、太陽信仰が創造神から豊穣神に変容した新王朝のエジプトでは、アメン神殿と祭司団は絶大な権力をふるい、王権と対立する勢力になった。

 遊牧系の人々にとって、太陽は宇宙の秩序を司る神として崇められるものだが、農耕系の人々にとって太陽は、植物の成長を促す豊穣の神として崇められる。

 そして、遊牧系の組織においては、宇宙の秩序を司る太陽と一体化した王が強力なリーダーシップを発揮する。それに対して、農耕系の組織においては役割分担が複雑で、生産活動のための各種の儀礼が重要になり、祭祀集団の力が増していき、王に対抗するようになる。

 いずれにしろ、農耕生産が大規模になっていくと、作物の成長に欠かせない太陽が豊穣・生産の神として存在感を高めていき、やがてはその祭祀自体が権威的存在になっていくが、もっとも古い時代においては、修復・再生の力である月も、太陽と等しく豊穣の神として崇敬されていたということだ。

 女性の月経や潮の満ち干にも影響を与える月のサイクルは、人間が循環する自然界の摂理に添った生活を営んでいる時は、再生力や修復力とつながっていると信じられ、そこに生命原理を認識する人々によって畏敬の対象とされていた。日本の縄文時代もそうだった。

 ゆえに、日本の古代においても、巫女というものは、日々の現実の問題に対応するため、太陽と月の両方に奉斎していたはずだ。竹野媛も同じだっと思う。

 月の神は、日本神話の中で三貴神の一つであるはずなのに、アマテラス神やスサノオに比べて、存在感が非常に薄い。記紀のなかでもほとんど出てこない。

 それは、古代エジプトのように、もともと月と太陽は天の神の両目として同等であったのに、現実世界においては太陽の存在感のみが高まっていき、月は、トート神のように知恵の神や、癒しの神としての位置付けとなり、学問や芸術と結びつくものの、現実の裏側で精神的な役割を果たすだけとなっていくからかもしれない。

 竹野媛が還っていく丹後の間人の地というのは、4世紀から8世紀、もしかしたその後の時代において、自然界の摂理に添った人間の営みが行われていた古代の記憶装置のようなところだったのではないだろうか。

 浦島太郎や羽衣伝説、そして竹取物語が、この地に起源を持つのは、単なる昔話なのではなくて、自然界の摂理から離れて穢れていく人間が、自らを省みるために、記憶の中に眠る古代を復活させる試みなのかもしれない。

 同時に、新しい秩序世界の構築を急ぐ新しい権力者にとっては、そうした記憶は、取り除くべき障害物となる。だから、何度もこの地は鬼退治の対象となる。

 しかし、そうした人間のエゴとエゴがぶつかり合う戦いが続いた後、なんとかそれが治った時は、異なる価値観を持った者どうしが一つに和合していくが必要であり、古代の記憶は、重要なかすがいになり得る。そうして、古代の復活が起こる。

 おそらく歴史というのは、そのように、過去と現在を行ったり来たりしながら進んできたのだろうと思う。決して、右肩上がりの一直線に進んできたのではなく。

 

 前置きが長くなってしまったが、過去と現在が行ったり来たりするように、古代においても2人の竹野媛が登場し、その2人は、もちろん無関係ではなく、当時の人間にとって、共通の記憶のなかにある。

 垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛は、垂仁天皇の皇后になった日葉酢媛と姉妹であり、父親は丹波道主命だ。

 丹波道主命は、記紀のなかで日子坐王の息子とされて、その母親は、天御影神という鍛治の神の娘の息長水依媛とされる。日子坐王は第9代開化天皇の息子だから、丹波道主命は、王の血を受け継ぎ、さらに、鍛治の神様の血を受け継ぐ存在であるとされている。

 しかし、丹波道主命を産んだとされる息長水依媛だが、その時代は、息長氏は存在しない。息長氏は、『記紀』の中で、第26代継体天皇の曽祖父にあたる意富富杼王(おおほどのおおきみ)を始祖としているのだから、古事記の中で登場する息長水依姫は、それよりも古すぎて、架空の存在ということになる。

 意富富杼王の後、歴史的に息長氏の名が登場するのは、息長真手王であり、彼の娘の広姫の血が、第34代舒明天皇と、その皇后の第35代皇極天皇(第37代斉明天皇として重祚)に流れているとされ、しかも、この2人の子供が、天智天皇天武天皇と、間人皇女とされる。なぜか、ここにも聖徳太子の母親と同じ名前の間人が登場する。

 ここで問題となるのは、日葉酢媛や竹野媛の父親の丹波道主命だが、日本書紀の異説に、彼の父は、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)となっている。彦湯産隅命の母親が、第9代開化天皇の最初の妃となった竹野媛なのだから、これは重要な指摘だ。

 敢えて異説という形で記録を残したのは、表の情報を得てわかったつもりになる人を対象にしているのではなく、その裏側にアクセスしようとする人に大切なことを伝え残すためだろう。

 残された異説によって、第9代開化天皇の妃でありながら丹波の竹野に帰って巫女となった竹野媛は、第12代垂仁天皇に、甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛の曽祖母ということがわかる。

 同じ名前なのは、竹野神社の巫女に対して用いられた名前だからだ。

 そして、日本最古の物語とされる竹取物語(日本の昔話でおなじみのかぐや姫)は、竹野媛の息子の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の息子である大筒木垂根王の娘で、垂仁天皇の妃の1人になった迦具夜比売命かぐやひめのみこと)がモデルとされる。すなわち、かぐや姫は、竹野媛の曾孫ということになる。

 大筒木垂根王は、名前のとおり、現在の京田辺市の木津川流域の筒城地域を拠点にしていたと考えられている。

 しかし、この筒城地域の有力者としては、丹後の鬼退治を行った日子坐王と、和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)が存在する。しかも、この山代之大筒木真若王が、第15代応神天皇を産んだ神功皇后の曽祖父に位置付けられているのである。

 この筒城の地は、古代史を考えるうえで、とても重要である。なぜなら、第26代継体天皇筒城宮(つつきのみや)を築いたところであるし、桓武天皇平安京を造営する時、筒城の甘南備山をポイントにして、その真北に朱雀通りを作り、その朱雀通りに、政治の中心の大極殿を置いたからだ。(大極殿から南の羅生門までと、北の西賀茂大将軍神社=甚凶醜(いとみにくき)の磐長姫が祭神、までの距離は4.4kmで同じである)。

 丹波道主命の父が二つの陣営に分れているように、この筒城においても、丹後の竹野媛の子孫の大筒木垂根王と、丹後の鬼退治を行った日子坐王の子孫の山代之大筒木真若王が存在している。

 そして、大筒木垂根王の娘、すなわち竹野媛の子孫として、かぐや姫が位置付けられているのである。

 第9代開化天皇の妃の竹野媛も、第11代垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛も、迦具夜比売命がモデルとなったかぐや姫も、理由と結果は異なるが、元の場所へと帰っていくことで共通している。

 この竹野の地の女性が意味しているものは一体何だろうか。

 (つづく)