京都市は歴史の都として多くの観光客が訪れるが、歴史的建造物は中世以降に作られたもので、京都市の南に位置する向日市の方が歴史的には古い。
向日市は、平安京の前に長岡京が築かれた場所で、その時より300年前には継体天皇の弟国宮が築かれた。
長岡京の北西端の地にあたる上里では、巨大な縄文(3000年前)の集落遺跡が発見された。また、ここからは、縄文時代の祭祀道具である石棒の製作跡が発見され、石棒そのものが、向日山の南麓の南山遺跡から出土した。
石棒の製作跡は、東日本では多く見られるが、西日本では珍しく、この向日山以外では、兵庫県豊岡の竹野川沿いの見蔵岡遺跡がある。
また向日山の東1kmの鶏冠井町(かいでちょう)からは、銅鐸の鋳型が発見され、ここが、銅鐸製造場所だった。
京都盆地の銅鐸出土地は、この向日山から真北10kmの梅ヶ畑(嵯峨野の北)と、向日山から真南8kmの式部谷遺跡であり、この三箇所は、東経135.70で南北に並んでいる。
長岡京の中心にあたる向日山の上には、3世紀という古墳前期に作られた全長100mの巨大な前方後方墳、元稲荷古墳があり、この古墳を北から睨むように、同時代の前方後円墳の五塚原古墳がある。
この古墳は、卑弥呼の墓などと言われている奈良の箸墓古墳と相似形で、そのモデルではないかとする説もある。
そして、向日山の上には弥生時代の高地性集落がある。高地性集落は、弥生時代後期になって戦闘が増えたため、戦いに備えて、あえて河川から離れた高地に築かれたものである。前方後方墳というヤマト王権とは異なる形の古墳がここにあるということは、古い勢力と、新しい勢力の攻防が、この地であったということだろう。
この前方後方墳の元稲荷古墳の横に向日神社が鎮座し、この神社をモデルに、1.5倍の大きさで設計されたのが明治神宮である。
全国には無数の神社があるのに、明治維新の新しい都の聖域である明治神宮は、なぜ向日山神社をモデルにしたのだろう?
向日山周辺の地は、かつて弟国と呼ばれた。もともとは堕国だった。その名の由来は、第11代垂仁天皇に丹波道主命の娘四人が嫁いだが、竹野媛は、醜いという理由で実家に帰されることになって、その途中、自ら命を絶った場所が堕国である。
醜いというのは、現代的解釈では顔や姿が綺麗でないと解釈されるが、古代においては、そうではない。力士の名を醜名としたが、強いとか恐るべきものという意味があった。
竹野媛の役割は、宮中にとどまって天皇の子を産むことではなかった。
「堕」という言葉は、裂肉を聖所に埋める意味で、聖所における呪禁の方法として行われる血祭だった。それは聖所を守るためのものであり、同時に聖所を攻撃し、堕廃する方法だった。共感的呪術は、攻守とも同じ方法をとるのが原則であると白川静さんは述べている。
つまり、竹野媛というのは、聖所における共感的呪術のための巫女だったのだろう。このあたりのことは、Sacred world2で詳しく書いた。https://www.kazetabi.jp/
鴨川と桂川の合流点に近いところに、羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)、通称、はずかし神社が鎮座しており、周辺には、泊橿部(はつかしべ)が居住していた。
この場所は、「羽束師の森」と言われており、入水した竹野姫の霊を祀った森ではないかともされている。
「羞」(はじ)というのは、神に捧げる犠牲のことでもある。
鴨川と桂川の合流点は、古くから洪水の多かった場所だ。
泊橿部というのは、おそらく洪水対策の土木工事などに携わった人々で、第11代垂仁天皇の時代までは殉死が行われていたので、洪水を防ぐための神への犠牲として人柱が行われていた可能性がある。
殉死が中止されるのは、垂仁天皇の皇后の日葉酢媛が亡くなった時、野見宿禰の提言で、殉死の代わりに埴輪が埋められるになった。その時、野見宿禰は、土師の名を賜った。”はつかしべ”=泊橿部が、”はじ”=土師になったということだろう。
菅原道眞も土師氏の末裔だが、左遷されて太宰府に向かう最中に羽束師神社を参拝し、「すてられて おもう思いの しげるをや みをはづかしの もりというらん」と、自らの境遇と、竹野媛を重ねるような歌を詠んだとされている。その際に北の方角を振り向いたとされており、この逸話からに羽束師神社の摂社として、北向見返天満宮が祀られるようになったとされる。
なぜ北の方角を振り向いたという話が残されているのか?
北の地が、竹野媛の故郷だからだろう。
竹野の地は、日本海側において、扇谷など弥生のハイテク都市が集中する丹後の竹野川流域と、豊岡の竹野川流域にある。
豊岡の竹野川流域には、第1188回のブログでも書いたが、向日山と同じく、西日本では珍しい石棒の製造地、見蔵岡遺跡があり、この周辺は土師氏の移住地だった。
豊岡の竹野と京都の向日山が、土師氏でつながっている。豊岡の円山川を遡れば生野銀山があり、そこから南は市川を通じて瀬戸内海に出られる。
豊岡から出土した4つの銅鐸のうち、一つは、大阪府の茨木の東奈良遺跡で作られたことがわかっているので、淀川流域と、豊岡が結ばれていた証拠である。京都の向日山も、淀川、桂川を遡ればすぐ近くである。
日本海側の豊岡の地と、京都の向日山という、ともに竹野の巫女と関わりがある場所は、土師氏と関係があり、さらに、古代から水上交通によって交流があったことは間違いない。
そして、この水上交通をになっていたのが、”三嶋”と関わりのある勢力であろうと思う。
豊岡の気比で発見された4つの銅鐸のうち1つは、大阪府茨木市の東奈良遺跡で作られたものであるとわかっている。
大阪の茨木から高槻にかけての一帯は、古くから三嶋と呼ばれる土地であり、淀川沿いの三嶋鴨神社は、古代の軍港があった場所とされる。
そして、豊岡は、久美浜と隣接しているが、久美浜の豪族、河上摩須の娘と、丹波道主命のあいだに生まれた四人の娘が、第11代垂仁天皇に嫁ぎ、そのうちの日葉酢媛が皇后となり、末娘の竹野媛が、醜いからという理由で実家に帰され、その途中、京都の向日山で堕ちて亡くなった。
京都府京丹後市にも竹野川が流れ、その河口域に竹野神社が鎮座するが、この神社の神に仕える斎女は、久美浜の市場村から出た。市場村で神の子が生まれると、その家に白羽の矢が立ったと伝えられる。
その場所は、河上摩須が三嶋の神を勧請した三嶋田神社の北500mである。三嶋田神社の場所は、金谷という地で、鉱山の関係者が住んでいたとされている。
また、三嶋田神社から西に1.5kmのところに須田古墳群のなかに、古墳時代後期の湯舟坂2号墳があるが、その石室は巨石を用いた全長10・6メートルもの規模を誇り、丹後地域でも最大規模の古墳である。1981年、金銅装環頭大刀をはじめ約470点に及ぶ多彩な副葬品が出土して、大騒ぎになった。
とくに、全長120センチを超える黄金製の金銅装環頭大刀は、二つの龍が向き合って、その間に玉を置いた珍しい豪華な装飾で、全国的にも貴重なもので、かなりの勢力を誇った人物が、ここにいたことが想像できる。
京丹後市の竹野の巫女も、向日山で堕ちて亡くなった竹野媛も、豊岡に隣接する久美浜の市場村出身だが、ここから南西に9km、豊岡盆地の東端の袴狭(はかざ)遺跡から、巨大船を中心とする合計16隻の準構造船が、線刻画でリアルに描かれた板が発見された。4世紀のものと考えられているが、これは外洋航海が可能な船団である。
豊岡を流れる円山川は、一般の大河のように海への出口が広がっていない。
その河口は急峻な山に囲まれ、しかも固い岩盤なので、狭く閉じている。そして、川を遡ったところに豊岡盆地があるが、このあたりが広い大地になっている。しかし、古代、この場所は水の底で、陸との境が、船団の絵が出土した袴狭(はかざ)遺跡だった。豊岡盆地全体が、水に満たされ、海軍基地のようになっていたと考えられる。
この場所と久美浜は目と鼻の先であり、日本海沿いに広がる潟湖(せきこ)である久見浜湾も、日本海の荒波を避ける船の停泊地として理想的だ。
豊岡から久美浜は、海人族の一大拠点だったのは間違いなく、淀川沿いの三嶋の地もまた同じで、その水上交通に関わる一族の娘が、竹野媛のように神に仕えたり、玉依毘賣や日葉酢媛のように、異なる勢力との紐帯となったのだろうか。