今回の四国の旅で、ぜひとも訪れたかった場所が、香川県の荘内半島であり、ここには浦島太郎の伝承が残っている。
浦島太郎の伝承は、日本のいくつかの場所に存在し、この物語が実際にあった場所はどこなのかという議論もある。
また、万葉集などには、浦嶋太郎の物語の舞台が「すみのえ」であると伝えられるが、その「すみのえ」が、丹後の網野町であるとか、いや大阪のことだという議論になる。
果たしてそうだろうか?
私は、浦島太郎の物語は、どこか特定の一箇所で起きた出来事ではなく、この物語で暗示されている教訓を共有する集団によって伝えられてきたのではないかという気がする。
そして、その真相を解く鍵が、いくつかある。
まず第一に、浦島太郎は、月読神の子孫とされているので、月読神と関係する集団ではないかと推測することができる。
次に、浦島太郎の伝承のある場所には、いくつかの共通点がある。
浦島太郎の伝承が伝わる代表的な場所は、京都府の丹後半島で、それ以外には、香川の荘内半島や木曽川流域の寝覚めの床が知られている。
木曽の寝覚めの床は、花崗岩の岩盤が水流に削られた奇景で有名だが、荘内半島の紫雲出山は花崗岩で形成された山で、丹後半島一帯の基盤岩は、宮津花崗岩というように、浦島太郎伝承の伝わる三箇所は、花崗岩地帯である。
なぜここで花崗岩が関わってくるのか?
花崗岩地帯には、ラジウム温泉が多いなど、いくつかの特徴があるが、奈良県の旧大和水銀鉱山の地質調査によれば、奈良地方を含む西南日本内帯の花崗岩を母岩とする中に辰砂鉱脈が多いとされている。
辰砂というのは、別名が「丹」であり、硫化水銀のことだ。辰砂の赤い色が、血液を連想させるのか、古代世界において辰砂は、神聖な役割をになっていた。古墳の石室や神社の鳥居が辰砂の赤い色で塗られたり。また海人は、魔除けのための辰砂を文身(刺青)に用いた。
さらに、鉱石から金などを取り出す精錬において水銀は用いられ、奈良の大仏など金メッキにも用いられた。近畿の吉野川流域には丹生という名の神社や地名が多いが、丹後や若狭湾周辺も同様である。そもそも、丹後や丹波の「丹」という文字が、辰砂とつながっている。
また、辰砂には防水効果や防腐効果があるためか、辰砂を船に塗っていたようだ。
神功皇后の新羅遠征の物語でも、丹生都比売が、戦いに勝利するために、船を朱で塗るべしと神託を下すが、朱というのは、硫化水銀=丹生のことである。
丹後の浦嶋神社の周辺、舞鶴や、間人の竹野川流域にも丹生という土地があり、木曽の寝覚めの床の北には、大丹生岳がそびえる。
浦島太郎の物語は、話の内容からして海辺の物語であるが、実は、海人と関わりの深い物語であり、海人は、船の防腐作用のある丹生(辰砂=硫化水銀)を求めて、中央構造線上や、花崗岩地帯を移動していた。
そして、古代、秦の始皇帝をはじめ、水銀と不老長寿の薬を結びつけた話も多く、竜宮城で過ごす浦島太郎が年を取らなかったというエピソードにもつながってくる。
ちなみに、丹後の浦島神社から木曽の寝覚めの床(玉手箱を開けたとされる場所)までは真東に約220kmで、丹後の浦島神社から香川の紫雲出山(玉手箱の煙が立ち上ったとされる場所)までも西南に約220km。不思議なことに、丹後の浦島神社から東西に同じ距離のところに、二つの浦島太郎伝承地がある。
木曽の寝覚めの床は、木曽川流域であるが、木曽川の流れは、伊勢湾まで通じており、木曽川の下流域は、古代、尾張氏の拠点であった。そして、尾張の知多半島の真楽寺には、浦島太郎が助けた亀の墓がある。
木曽川は、源流まで遡っていけば、奈良井川とアクセスし、松本盆地へと抜けるが、盆地への入り口に平出遺跡がある。ここは、縄文時代から古墳時代、平安時代に至るまでの複合遺跡だ。
この平出遺跡の場所は、中央構造線とフォッサマグナの糸魚川・静岡構造線が交わる地域で、すぐ南が諏訪で、すぐ北が、海人の拠点だった安曇野である。
松本盆地は、古代、広大な湖だったとされる。
そして、安曇野の北は、ヒスイの産地である姫川が、日本海の糸魚川まで流れており、糸魚川から京丹後まで海路でつながっている。
愛知を拠点にしていた尾張氏と、京丹後を拠点にしていた海部氏が系図の上で同族というのは、伊勢湾から木曽川、奈良井川を経て松本盆地、安曇野、姫川とつながり、糸魚川から京丹後に至る海人ルートを共有していた勢力がいたということである。
姫川のヒスイが朝鮮半島や沖縄、北海道まで伝えられていることからして、尾張氏や海部氏という氏族名がつく前から、この海人ルートが存在していたのだろう。
また、浦島太郎を案内する亀だが、亀の甲羅を使う亀卜という卜占は、日本書紀によれば、顕宗天皇3年(487年)に、九州の壱岐島から京都に月読神とともにもたらされたことになっている。ここで、浦島太郎の祖先である月読神と、亀がつながってくる。
現在、京都の月読神社は、松尾大社の摂社として松尾山の山麓に鎮座しているが、もともとは、ここから500mほど東の桂川と西芳寺川の合流点に鎮座していた。この月読神社から少し上流に行けば保津川渓谷で、この渓谷を抜けると、「亀」の名がつく亀岡となる。亀岡は、古代、丹波国の中心だが、式内社で月読神を祀る神社が3社も集中する全国的に珍しい場所である。
そして、この亀岡と京都の月読神社のあいだにある保津川渓谷が、木曽の寝覚の床と、香川の紫雲出山という浦島太郎伝承地のちょうど中間(それぞれから205km)に位置する。
さらに、丹後の浦島神社と保津川渓谷の距離が、約84kmで、この直線を南に伸ばして保津川渓谷から84kmのところに吉野の丹生川上神社が鎮座している。
この丹生川上神社の上社の東14kmのところ、吉野川の支流の丹生川流域に丹生川上神社下社が鎮座するが、この丹生川流域にも、浦島太郎の物語と似た伝承が残っている。
それは、黒淵の乙姫の物語で、飛び込んだ淵の底には竜宮があり、乙姫がいたという物語。丹生川は蛇行しているため、淵が多く、しかも流れの底が深く黒々としているから黒淵という名がつけられたという。
丹生川上神社は、社伝によれば、神武天皇の東征の際に、天神の教示により天神地祇を祀り、戦勝を占った地であるが、その占いによって、丹(辰砂)の鉱脈の存在を知ったとある。
また、播磨風土記では、神功皇后の三韓出兵の時、吉野の地の丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することができたと記録されている。
このように、天下平定や国家の危機の際に、辰砂(丹)が関わっているが、おそらくそうした一大事において、大きな働きをしたのが、丹と関わりの深い海人だったからではないだろうか。
日本は島国であり、朝鮮半島や中国大陸と交易を行なったり、戦争を行う場合も、船と船乗りの力が重要である。
また、朝鮮半島南部の任那の経営において、海人の紀氏が大きく関わったことが記録にも残っている。
浦島太郎の物語の舞台は、万葉集などで「すみのえ」とされているのだが、「すみのえ」というのは「すみのえ神」=「住吉神」とつながる。住吉神というのは、丹生都比売と同じである。
丹生都比売神社の言い伝えによれば、吉野の藤代の峯に鎮座していた丹生都比売が、神功皇后の新羅遠征の出発前に神託を下した。そして、住吉神社神代記によれば、神功皇后の勝利に貢献した住吉神は、もともとは吉野の藤代の峯にいたが、場所を移りたいと言い、藤の筏で大阪湾を渡って明石の藤江に流れ着いたと記録されている。
つまり、神功皇后の新羅遠征の前、吉野の藤代の峯にいた丹生都比売は、戦いの後、住吉神となって吉野川沿いから瀬戸内海へと拠点を移したということになる。
そして、紀ノ川流域を拠点としていた紀氏と、婚姻を通じて同族化していたのが瀬戸内海の越智氏だった。
『日本霊異記』には、663年の白村江の戦いに参加した伊予水軍の越智直が、唐に捕らわれていたが、観音菩薩像を信仰することで無事に日本に帰国できたという話が伝えられているが、当時の唐は最盛期であり、国際的な文化が花開いていた。
越智氏らは、日本を離れて、当時の先端文化に触れる機会を得ていた。そうした体験が積み重ねられて竜宮城の物語に昇華していった可能性もある。
彼らが活動した瀬戸内海は、1日の中でも潮の方向がまったく異なり、潮の流れを読まずして航海ができないが、潮の干満と関係が深いのが月である。日本書紀において、月読神は、イザナギに、海の潮の八百重(やほへ)=潮の満ち引きを治めるよう命じられており、瀬戸内海を舞台に活動する海人と、月読神が深い関係にあったと考えられる。
さらに、瀬戸内海沿岸に特徴的に見られる古墳として、石棚付きの石室を持つ古墳がある。これは、石室内に石の棚が設置され、その上に須恵器に盛られた食べ物や酒を置いて、死者を祀ったものだ。
この石棚付き石室を持つ古墳は、瀬戸内海以外では、和歌山の紀ノ川流域に見られるが、この二つの地域以外での集中地帯が亀岡で、上にも述べたように、ここには月読神を祀る式内社が三つもある。そして、丹後半島の浦島神社から若狭湾を隔てて敦賀半島があるが、現在、美浜原発のあるこの地域の地名は丹生であり、ここにある浄土寺古墳群でも二基、この南の敦賀市域には三基の石棚付き石室の古墳が確認されている。
そして、丹後半島では、丹後地方最大の石室を持つ新戸古墳が、石棚を備えている。この古墳は竹野川沿いに築かれているが、竹野川が日本海に注ぐ下流域にも丹生神社が鎮座している。
このようにして確認していくと、「丹生」=辰砂と、瀬戸内海特有の石棚付き石室を持つ古墳との関わりや、月読神と亀との関わりなどを通して、瀬戸内海の海人と浦島太郎伝承のつながりが見え隠れする。
寝覚めの床は内陸部にあるが、木曽川は、伊勢湾と松本盆地をつなぐ水路であり、松本盆地の北は海人の拠点であった安曇野であり、ここから北は、ヒスイの産地である姫川にそって日本海の糸魚川に至る。丹後と糸魚川は海路によって結ばれ、丹後と亀岡は由良川で結ばれ、亀岡と瀬戸内海は桂川と淀川によってつながる。
それにしても不思議なのは、位置関係であり、浦島太郎の伝承地や、関わりのありそうな場所が、計画的に配置されたように同距離にあり、見事な菱形になることだ。
菱形は、着物や工芸にも多く用いられる日本の伝統模様であり、戦国武将の家紋でも非常に多く見られる。また、日本にかぎらず世界中で、装飾における幾何学模様のパターンで多く用いられている。
さらに偶然なのか計画的なのかわからないが、浦島太郎と関係のある木曽の寝覚めの床、京都の保津川渓谷、香川の荘内半島の紫雲出山を結ぶラインを西に伸ばしたところが、愛媛県今治市の古谷という場所であり、ここには、弥生時代に起源を持つとされる多伎神社が鎮座している。
3万坪に近い境内の敷地には自然林がうっそうと茂り、霊水といわれる多伎川が奥之院の磐座から社殿前を流れているが、神社の本殿裏には50基以上の古墳が残されており、この地を治めていた海人の越智氏のものではないかと考えられている。
多伎神社のすぐ南が、朝倉であり、ここにもまた多数の古墳が残されているが、663年の白村江の戦いの前に、斉明天皇が前線基地として築いた宮が朝倉宮であり、その候補地が、北九州の朝倉と、高知市の朝倉神社、そして愛媛である。
新羅と唐との戦いの前線基地だから、朝倉宮は北九州であるという説が有力だが、斉明天皇は、この戦いが始まる前の661年に瀬戸内海を西に進み、各地に立ち寄り、しばらく留まったことが記録されている。これは想像でしかないが、唐と新羅の決戦のためには、膨大な数の船や船員が必要であり、その準備が必要だったはずだ。斉明天皇が決戦の2年前に瀬戸内海を移動していたのは、海人たちの協力を仰ぎ、船を建造し、水夫や兵を集めていたからだと考えれば、朝倉宮が、九州ではなく、愛媛や高知にあったとしても不思議ではない。
越智氏は、後に河野氏や村上氏となり、源平の戦いや戦国時代においても勝負の行方を決める大きな役割を担った。
こうした海人は、歴史の表舞台には立っていないように見えるが、それは実力が伴っていなかったからではなく、歴史的一大事の後に中央に出て権力者になるという道を選んでいないからだと思われる。
海とともに生きていた彼らにとって、欲のために血塗られた権力闘争に加わることよりも、地元で自然の摂理のなかで生きる方が、幸福だったのかもしれない。
竜宮の中で華やいだ暮らしに明け暮れていた浦島太郎が、故郷に戻った時、自分だけが取り残されたような悲しみに陥り、玉手箱を開けてしまったことで二度と竜宮には戻れなくなり、自然の時の流れの中に回帰していったが、これは、海人の生き様とも重なってくる。
おそらく、浦島太郎の物語は、どこか一つの場所で起きた出来事ではなく、日本各地にネットワークを持つ海人の様々な記憶が寄せ集まって、彼らなりの人生訓として一つの形に昇華したものではないかと思う。
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