第1280回 10,000年前から引き継がれている精神的イメージ

日本最古の土偶が出土した粥見井尻遺跡。背後に見えるのは烏山。 ここは、中央構造線上にある。

 日本の歴史を、改めて考察し、捉え直すことが必要だと思う。

 そして、その際には、最新の考古学的成果の上に、もっと地理や地勢のことを踏まえる必要があると思う。

 1996年、三重県松阪市の​​粥見井尻遺跡において、今から約1万2千年から9千年、縄文時代草創期の日本最古級の土偶が出土した。

 また、この場所から発見された矢の先端には讃岐岩(サヌカイト)が取り付けられていた。サヌカイトが産出する場所は、奈良盆地の西にそびえる二上山だから、10,000年前に、貴重品を得るために、離れた場所との交流があったことがわかる。

​​ 粥見井尻遺跡は櫛田川沿いにあるが、櫛田川は、中央構造線沿いに西から東に流れており、遺跡の対岸は中央構造線を観測できる場所だ。ここでは、中央構造線の北の地層である花崗岩、南側の黒色片岩、断層がぶつかり合ってできる薄茶色のミロナイト(圧砕岩)の違いが明確に見られる。

 10,000年前に、この場所に集落を作った人々は、この地勢的な事実を、どう捉えていたのだろうか?

 ​​粥見井尻遺跡自体は、川の側ということと、360度小山に囲まれた平地であり、狩猟採集を糧とするうえでは理想的な環境だが、この場所を拠点としたのは、果たしてそれだけの理由なのだろうか?

 櫛田川を東に下っていくと、多気町の丹生の地がある。この地は、日本有数の水銀の産地で、丹生大師と、丹生神社と、丹生都比売神社が鎮座している。

丹生神社(多気町)
丹生大師(左) 丹生都比売神社(右)

 丹生大師は、空海とも関わりの深い勤操の創建とされているが、空海は、高野山を開く前、この丹生の地を、真言密教を広める聖地にしようとしていたと言われる。

 高野山は、空海が、麓の丹生都比売神社から領地を寄進されたことで真言密教の聖地となったわけだが、どちらの場所も、中央構造線上で丹生の地であり、水銀の鉱脈が走っている。

 丹生、いわゆる朱が、古代から神聖なものだったことは、たとえば古墳の石室が朱に塗られていたり、魏志倭人伝では、倭人が朱で刺青をしていたことが記されていることなどから明らかだ。

 実用的な面では、防腐剤、防水剤となる丹(辰砂=硫化水銀)は、神功皇后の伝承でも戦いの前に船に塗ることで勝利が得られると神託があったように、水運と関わりが深く、古代、海人は、辰砂の鉱脈が走る中央構造線上を、東西に移動していたと思われる。

 そして、中央構造線に沿って流れる櫛田川は、さらに東に行くと、伊勢の斎宮跡がある。

 斎宮は、伊勢神宮の祭祀を行うために皇室から派遣された女性が執務した場所だ。以前にも書いたが、1980年に NHKがとりあげたことで一部の歴史好きによく知られている太陽の道というレイライン上にあるのが、西の端は淡路島の舟木で、ここは弥生時代の日本有数の鉄工房が発見された場所だが、奈良盆地では三輪山とか二上山がライン上に位置しており、東の端が、伊勢神宮ではなく、伊勢の斎宮跡となっている。

 二上山は、縄文時代からサヌカイトの交易で各地とつながる重要な場所で、三輪山は、古代の磐座祭祀の跡が見られ、この東西のレイラインは、かなり古い時代の聖域や重要拠点を結ぶものだと考えられる。そのライン上に、伊勢神宮ではなく伊勢斎宮跡があるというのは、伊勢地域の本来の聖域は斎宮跡で、伊勢神宮は、後の時代に作られた聖地なのかもしれない。

 伊勢神宮が作られた後に斎宮となった所は、もともとは、女性巫女の聖域だったのではないか。

 そのように想像するのは、この斎宮の地を流れる櫛田川の名は、倭姫命がアマテラス大神に相応しい地を求めて諸国を巡行する際、この地で櫛を落としたことに由来するという説があるからだ。

 倭姫命が実在したかどうかわからないが、古代の巫女を象徴する存在である。

 その倭姫命が、伊勢に向かう前に行宮を造った場所が、現在の御杖神社(奈良県宇陀郡御杖村)だ。

御杖神社

 御杖神社は、名張川の上流沿いに鎮座し、名張川は下っていくと木津川に合流し、木津川は、やがて淀川となって瀬戸内海に注ぐ。

 さらに、御杖神社の場所は、奈良盆地と伊勢を結ぶ街道沿いである。

 また、御杖神社から南5kmのところが名張川の源流で、三峰山がそびえるが、すぐ近くに中央構造線の月出露頭がある。

 御杖神社は、交通の要所であるとともに、辰砂の鉱脈のある中央構造線に鎮座している。

 10,000年前の​​粥見井尻遺跡から出土した土偶は、まさに古代のヴィーナスである。

 10,000年という気の遠くなるような歳月の流れは、想像の及ぶ範疇ではないが、もしかしたら、今から2000年くらい前までの8000年間は、さほど大きな精神的変化はなかったかもしれず、このヴィーナスを見る現代人も、この像に秘められた何かを感じ取ることができる。

 現代まで伝えられている神話は、おおよそ1500年くらい前、訓読み日本語が発明された時から、少しずつ記述化されていくことで整えられていった。

 記憶が記録となったことによって、事実かどうかが議論の対象となっているが、事実より大事なことは、今を生きる自分とのつながりを、どれだけ感じ取れるかだ。

 神話を創造した人たちは、おそらく過去の史実を記録したわけではなく、自分たちとのつながりのイメージを膨らませて、表現したのではないか。

 アマテラス大神を、女性的なイメージで創造したのも、櫛田川沿いの粥見井尻遺跡のヴィーナスや、丹生都比売や斎宮跡の巫女たちの聖なるイメージを、受け継いでいたのだろう。

 そして、そのイメージを、文字を持たない時代においても、次世代へと伝える人々がいたのだろう。

 

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