第1279回 たった一人の大学の名誉教授の問題ではなくて

「たった1人の「子供の声がうるさい」という意見で廃止になった長野市内の公園。市に対して意見を言っていたのは大学の名誉教授だったことが週刊ポストの取材で明らかになった。その1人の声で、子供の遊び場である公園を閉鎖した市の対応には疑問の声があがっている。」〔Yahoo ニュースより)

 

 この小さな出来事が、大きなニュースになっている。

 たった一人の大学の名誉教授ということに焦点が当てられすぎているが、こうした特定化が行われる前から、公園廃止への圧力をかけるのは、子供達が遊ぶ時間である日中に、家の中にいる人々だろうと思っていた。それは、近所に保育園ができることに反対する人々も同じだ。

 これは、”たった一人の原因の問題”ではなく、これから益々高齢化が進む日本社会における、不健全な未来の在り方を暗示しているからこそ問題なのだ。

 不健全というのは、子供の未来よりも、家に閉じこもっている高齢者が過半数を超えて、その人たち(私も含めて)の言い分や自己都合が優先される社会の姿だ。

 生物界では、新陳代謝こそが健全さを維持する力だ。

 人間の細胞も28日周期で更新されるが、新陳代謝が悪くなると、そのリズムが崩れ、いろいろと不具合が生じてくる。それが老化だが、社会もまた老化して不具合が多く生じるようになる。老化は、高齢者の数が増えることだけを意味するのではない。高齢者の数が増えても、高齢者が、新陳代謝の重要性をどれだけ意識できるかどうかで、社会の老化を食い止めることができるかどうかが決まってくる。

 会社組織も同じだろう。年寄りが、自分のやり方を若い人に押し付けている企業の成長は望めない。

 今の日本は、視聴者数を競い合うメディアが、視聴者に高齢者が多いこともあって、高齢者のタレントを使い続け、その価値観なり論理が、新しく更新されにくい状況になっている。

 もちろん、既存メディアが発信する情報やメッセージなど相手にしない人も増えているが、今だに既存メディアで大量のコマーシャルが流れていることからもわかるように、その影響力は、かろうじてではあるだろうが、維持されている。

 今回の事件も、大学の名誉教授という肩書きに焦点を当てすぎているが、「家にいる高齢の自己中心的な理屈っぽい人物」ということであって、肩書きに関係なく、そういう存在は無数にいる。

 昨日、近所の鮮魚専門チェーン店で買い物をしていた時、銀ダラや鮭の粕漬けのコーナーで、客がトングを使って袋につめる販売方法なのだが、一人の老婦人が、その場所を占拠して、全ての銀ダラや鮭を、ひっくり返して、大きさや形など見比べて、厳選して、選ぼうとしていた。そのたびに、銀ダラの脆い白身は崩れてゆく。後の人のことなんか眼中になく、エゴの塊である。

 一言で言って、美しくない老人だ。

 日本の未来の問題は、高齢者が増えることそのものではなく、美しくない老人が増えることだ。

 年をとることの美しさがあってしかるべきであり、そのことを意識できる老人が多ければ、日本はまだ救われる。

 しかし、日本の高度経済成長を支えた自分たちの優秀さを信じて疑わない老人は、そのステレオタイプの規格品の大量生産、大量販売、そして人間そのものも規格化していくというやり方に対する根本的な反省がなく、にもかかわらず選挙なども含めて体制内で影響力を維持しているために、この20年、日本は、停滞し、平均賃金の順位も、世界各国の中で、落下し続けている。 

 そのため、社会の中核を担う人たちに余裕がなくなってきた。それにくわえて、これ以上、美しくない老人が増えてしまうと、今後どうなってしまうのか?

 美しくない老人が、自分のエゴを押し通す社会になるのか、それとも次の世代に見捨てられるのか。

 われわれ老境にさしかかっていく人間は、その狭間に存在しており、どういう状況になろうが自分の生き様には影響がないという境地を時間をかけて準備していくしかない。

 その準備とは、たぶん、美しく死んでいくための心構えなのだろうと思う。