第1411回 大震災と、細い運命の糸でつながる生命。

 

 この写真は、能登の大地震の後に写真家の渋谷敦志さんが撮った輪島市の白米千枚田

 美しいというより、儚くて切ない風景。

 昨年の11月末、輪島から珠洲に向かう途中、20年ぶりに立ち寄った時は、土と潮の香りが満ちていた。

 何の説明もなくこの写真を見たら、棚田だとすぐにわかる人は、ほとんどいないだろう。まるで空撮の夜景のようにも見える。

 能登という日本の突端で起き、4mも土地が隆起して海の底が陸になったことが伝えられている今回の大地震は、日本という国が、どれだけ危ういバランスの中に成り立っている国なのかということを、改めて突きつけてくる。

 昨日、1995年に起きた神戸の大震災から29年目となったが、このあいだに、2000年の鳥取、2004年の新潟中越、2011年の東北、2016年の熊本、2018年の北海道、そして今回の能登と、震度7クラスの大地震が、ほぼ5年ごとに日本各地で起きている。

 地震国日本ということはわかっているが、震度7クラスの壊滅的な大地震が、特にこの30年に集中的に連続している。

 そして、気になるのが、この30年に大地震が起きていない地域だ。それは、四国、近畿の南部、東海、そして関東。

 これらは、南海トラフ地震が起きた時に大きな被害が出ると想定されている場所。さらにこれらの場所は、中央構造線の真南で、この30年あいだ、5年置きに起きている大地震は、すべて中央構造線の北にあたる。

 中央構造線という日本列島の背骨の南側から押しつけられるエネルギーが、定期的に、その北側で大地震となって放出されている。

 そして、中央構造線の南側は、そのエネルギーが蓄積し続けている。

 南海トラフは、90年から100年の間隔で起きると言われているが、この200年では、まず1854年安政南海大地震があり、これはペリーの黒船来航の翌年。その後が、太平洋戦争敗戦の翌年の1946年の昭和南地震。太平洋戦争の時は、この前の1944年にも南海大地震が起きているし、1943年の鳥取地震、1945年の三河地震も起きて、いずれも死者1,000人以上を出している。1943年から1946年までの毎年、大地震でとてつもない数の死者が出ているが、戦争で亡くなった人の陰に隠れて、あまり知られていない。

 まさに太平洋戦争というのは、戦争だけでなく、黙示録の最後の審判のような状態だった。

 明治維新と太平洋戦争、日本の近代化を考えるうえでターニングポイントになっている時期に南海トラフが起き、そのたびに日本社会が大きな試練に直面している。

 前回の南海トラフ地震から90年後は、2034年。ペリー来航から180年。

 今この瞬間からは10年なので、カウントダウンが始まったということだろう。

 歴史的宿命のように、南海トラフが起きる時は社会的にも混乱状態にあるが、現在の日本社会にあてはめると、1973年生まれ前後の団塊ジュニアが定年に達する時が、ちょうど、次の南海トラフが起きる想定時期になる。

 超高齢社会のなかで、人口のボリュームゾーンとして突出していた団塊ジュニアが、高齢者を支える立場から支えられる立場に転換するわけで、当然ながら、その下の世代に大きな負荷がかかる。 

 この状態に備えた改革を、この10年のあいだに進めていないと、大変なことになるのが目に見えている。

 そして、私のように団塊世代より10歳くらい上の者たちは、一般的にはまだ余命が残っているにもかかわらず、日本社会の財政を支える人口が極端に減少するという事態に直面する。

 多くの老人の不安と危機意識が保身に向かい、その人口ボリュームゾーンに媚びる政治家と一緒になって、さらなる負担を若い世代に求める時、この国の社会は、大きく軋むことになるだろう。次の南海トラフの発生時期は、ちょうどその頃になる。

 大仰に思われるかもしれないけれど、日本列島で生きながら、大地の下で起きていることと無縁ではいられない。

 渋谷さんが撮ったこの写真を希望の光景のように受け止める人もいるし、感じ方は人それぞれだが、この幽けき光は、私たち一人ひとりの生が、細い運命の糸で、かろうじてつながっていることを仄かに伝えているように私には見える。

 有り余る物に囲まれていても、人の生は虚しくなり、形あるものは全て無に帰するという現実の前に、人の生は、あまりにも儚い。